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第100話 水辺に映るアナタは

 聞き慣れないアラーム音。それにナルシスは瞼を開く。酷く現実感がない。全ては眠気のベールの向こう側にある。体を僅かに動かすだけで意識がバラバラになりそうだった。しかし断続的な音がそれを防止する。ナルシスは何とか体を起こし、ベッド脇にあるその音源の表面を撫でて止めた。


 しかし、ここはどこだ?


 彼は一瞬分からなかった。だから何となしに、全てが夢だったのではないかという気がしてくる。


 初恋も、革命も、この世界を支配するルール全てさえも。


 シャルルとエーコがキスしたことだって。


 全てが嘘っぱちで、彼は何の悩みも苦しみも抱えていない。


「……起きたか」しかしその声は、部屋の中から。「魘されてたぞ」


 ソファーの上にスズナが座っていた。彼女は新聞を広げていて、その一面には「カントウで大規模暴動」と書かれている。それは彼の妄想を破壊するには充分すぎる一文だった。全ては現実であり、ここはその「暴動」……否、「革命」の結果占拠されたホテルの一室。


 その第一段階が終わって、一週間経ったところだった。


「その様子じゃ、大変よく眠れたようじゃないか?」紙面を閉じて、目の前のテーブルにスズナは置く。「どんな夢を見てたんだ?」


「……覚えちゃあいない。そんなことより、何で君はここにいる?」


「中々起きてこなかったから、起こしに来たんだろうが?」


「頼んだ覚えはない」


「だが必要だから来た。今日は遅刻できないだろうが」


 遅刻?


 と言いかけて、ナルシスはすぐその理由を思い出した。そしてそれは同時に彼が目覚めたくなかった理由でもあった。彼ははあと溜息を吐いて、ベッドから起き上がる。昨晩不本意にも着せられたバスローブがはだけるが気にしない。目指すはバスルームだ。顔を洗う必要がある。


「なあ」スズナが立ち上がる音。「やめたくなったか?」


「……何?」


「銃が撃たれた。血が流れた――人が死んだ。そう考えるなら、このホテルにしたって無血開城ってわけじゃあない。周りで人がバンバン死んだ中銃を突き付けて無理やり占領したに過ぎない。だからお前は最上級の部屋なんか使わなかった。そういう考えか?」


「いや――」ナルシスは立ち止まる。ドアノブに手をかけて、言葉に迷う、どう言えば切り抜けられる?「政治的判断だ。サン・マルクスが高級ホテルの高級な部屋に止まるというのは民心を離れさせることになる。それに、警備の都合もあるだろう。下手に高価な部屋にすれば、狙われやすい」


「ならよかった――途中でやめるだなんてこと、できるはずもないからな」スズナは歩き出す。出口の方へ。「俺たちは走り出してしまったんだ。何人もの命をベットするギャンブルに手を出した。無論自分の命さえ賭け金――立ち止まっている暇なんかない」


「…………」


「これは革命だ。そのために全てを擲たなければならない。さもなければ――俺たち全員、死ぬことになる」


 ドアの開く音。そして閉まる音。彼女は出て行った。部屋には誰もいない。誰かが彼の言葉を聞くこともない。


「……分かっている」ナルシスは呟いた。「だけれど」


 水の流れる音。鏡と彼は向かい合う。酷くやつれた男の顔。これは誰だ? ……誰だっていい。どうせ仮面で隠されて分からなくなる。


 ダイモン・オブ・ソクラテス=サン・マルクスとは記号だ。


 革命という社会現象のためのアイコンに過ぎない。


 それになりきるだけでいい。


「…………」


 しかし水は流れ続けている。ナルシスはそれをじっと見つめる。それは蛇口から零れ落ちるばかりでその逆はない。それを眺めていると、どうしても苦しくなってきて、しかし体は動かないのだった。


 だって、自分はこんなにも醜いのだから。


 自分のことしか考えていないのだから。


 ナルシスがこの部屋を選んだのは事実だ。が今彼がスズナに言ったようなことは――政治だの警備だののことは――何一つ考えていなかった。


 そしてスズナが言ったようなことも、また。


 彼は、ただ傷ついた自分をどうにか隠したかっただけだった。


 周りで多くの人が傷つき、銃弾に倒れ、あるいは死んだというのに。


 自分が心無い言葉で誰より優しかったあの男を傷つけたというのに。


 それらの自業自得(じぶんのせい)を見せられて、自分が勝手に傷ついたというのに。


 その惨状から逃げたかった。自分のせいではないことにしてしまいたかった。


 その結果、部屋の選択などはおざなりになった。有体に言えばどこでもよかったのだ。ただ一人になれればそれで。


 だがそんなものはダイモン・オブ・ソクラテス=サン・マルクスのやることではない。


 彼は誰より高潔で、誰より暴力を嫌い、誰より大衆のことを考えていなくてはならない。


 何故ならそう、彼を支持する誰もが願っているから。


 そうして、彼らは自分の命を擲った。


 そして、その擲った命のいくらかは、失われた。


『立ち止まっている暇なんかない』


 そう、スズナが言った通りだ。それは分かっている。走り続け、何かを成さなければ死んでいった者たちへの申し開きが立たない。


 だが――水は流れ続けている――彼はそこから動けなかった。じっと立ち尽くして、洗面器に手を突いている。それから彼は水面をじっと見た。そこにある激しい流れの中で、何も映ってはくれない。誰一人として、彼の代わりなどできないらしい。吐き気がする。ゾッとする。崩れ落ちそうに、なる。


(――駄目だ)ナルシスは、しかし、その水面に手を突っ込んだ。(今は、駄目だ)


 そして顔にその冷感を押しつけた。幾分か、ぐるぐるとしていた脳内がクリアになる。活力は出てこないが、義務感は湧いてきた。


(そうだ、こんなことは今日で終わりにする。今日という日を、死んでいった人たちへの手向けにする。そうできるのは自分だけだ。サン・マルクスだけなんだ)


 彼は顔を拭ってからバスルームを出る、着替えるために。


 そして彼はナルシスからダイモン・オブ・ソクラテス=サン・マルクスになる。


 全ては、今日の講和会議のために。

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