闇からの脱却 : 2025年12月
【もう抱えきれないよ】
「分かりました。それで請け負いましょう。」
トールは内心不安で一杯だったが、思った以上に契約内容が好条件であったため、端末越しに荷主と契約を結び、電子署名の交換をした。
トールは自分の判断が正しいかどうか不安であった。この契約が会社を建て直す起爆剤になることが分かってはいたが、いざ契約するとなると手が震えた。余りに好条件でロット数も契約金も莫大すぎて、夢なのではないかとさえ疑っていたからだ。
トールの心は揺れていた。この契約を反故にしても会社はやっていける。しかし、今まで通り堅実な運営では、大きな損失はなくても、将来はジリ貧で衰退の道が待っている可能性が大きい。かといって、この大型契約を受諾したところで、失敗した時のリスクは大きい、いや大きすぎるのだ。もちろん、社員たちが失敗するなんて事は万が一にも有り得ない。それはトールも信頼している。
しかし、万が一は有り得るから万が一なのである。これまで何度も窮地を切り抜けてきたトールは、身を以て知っていた。
これまでも、全宇宙規模での不況に見舞われたことも、運送業界の構造的問題とも言われる人手不足にも、更には、大手による荷主争奪戦に負けたことも、トールはその類い稀なる能力を発揮して乗り越えてきた。いや、トールだけの力ではない。従業員たちがトールに付き従い、粉骨砕身努力してくれたお陰で、会社が持ち堪えてきたのだ。
いずれにせよ、すべてを抱えきれなくなる未来が待っているのであれば、大きなリターンがある方を選択するしかなかったのだ。社運を懸けた大博打と言っても過言ではない。 トールの心の中はぐちゃぐちゃにかき乱れ、手が震えるなんてもので済むはずはなかったが、そんなことはおくびにも出さず、営業スマイルで契約したのだ。
祖父の代に創業し、トールが父親から引き継いだこの〔レイナーコア〕は彼で三代目となる中小運輸会社である。社員規模は1000人強と、それなりに従業員を抱えているとはいえ、業界トップの運輸企業が軒並み億を超える従業員を抱えている事を考えれば、吹いて飛ぶような規模である。
そんなトールが率いるレイナーコアの主力輸送船は、50万TEUの中長距離貨物船である。TEUとは20foot equivalent unitのことで、長さ20フィートコンテナに換算してどれぐらいの輸送力があるかを測る基準である。つまり、50万TEUとは、50万ユニットの20フィートコンテナに相当する輸送力を誇る中長距離貨物船ということだ。
その中長距離貨物船を、レイナーコアは5隻所有している。その最高速度は15パーセク(pc)/ネビュラアワー(nh)で、最高航続距離がおよそ2万pcに及ぶ。
ちなみに、1nhとは、地球時間で約2時間弱となる、緑色光の波長を基準に導き出された時間の単位であり、15pc/nhは時速換算でおよそ20光年/hになる。
レイナーコアはこの主力輸送船を用いて、定期航路を二本と、突発的な大口注文に対応していた。
これだけの輸送力を誇るレイナーコアが零細企業と言われるのは、大手運輸会社の規模が桁違いであるためだ。従業員の数はもちろんのこと、有する貨物船ともなると、100万TEUを主力とし、それ以上の200万、300万の輸送力を誇るものもあり、最高速度も30pc/nh以上、最高航続距離も10万pcに及ぶ貨物船を有しているため、端から勝負にはならないのだ。
しかし、これでも業界にはもっと下の企業も存在する訳で、レイナーコアは大手の隙間を縫うように仕事を取り、小口契約を集めては利益を積み上げ、ここまで維持してきた。
社員にはかなり無理を強いてきた自覚はトールにもあった。会社を維持し、社員の生活を守るためには、多少の無理は致し方ないことであったとしても、無理強いをしていることに代わりはなかった。
そこに降って湧いたのが、今回の大型契約である。定期的な大量一括輸送を請け負い、信頼を勝ち取ることが出来れば、社員にも多少の楽をさせてやることは出来るはずである。その上、軌道にさえ乗れば、福利厚生の改善も設備投資も格段に向上出来るはずである。
取らぬ狸の皮算用と分かってはいても、社員確保が厳しい現代において、離職率を下げるための改善は吃緊の課題なのだ。
今の時代、運輸会社の貨物船船員になろうとする若者など皆無に等しい。なぜなら、仕事はきつくて危険極まりなく、その上薄給とくれば、若者が敬遠し、嫌悪するのも頷けるというものだ。
貨物輸送などという縁の下の作業に金を掛けようとする荷主はほぼいないし、そのせいで輸送費は叩かれに叩かれ捲ってきた。業界はそれに対し何の手立ても講じてこず、荷主の横暴な要求に屈してきた結果がこれである。
物流崩壊などとマスコミが騒ぎ立てるが、業界団体にとっては大手さえ良ければ良いのか、そんなことはどこ吹く風であり、宇宙の秩序を守るはずの宇宙連盟も、物流が停滞していなければ、もちろんそんなことに首を突っ込む人間など存在しなかった。
それもそのはずである。大手は有り余る資金を使ってありとあらゆる方面に根回しをおこなっているのだ。中小を切り捨てるなど造作もない。
その上、薄利多売をしても耐えうる資金力と、顧客数、そして運送業以外の収入源を持つのだから、たとえ運輸業で赤字を垂れ流したとしてもやっていけるのだ。
もちろん、経営健全化のコストカットもその資金力で推し進めることも怠らない。AIの導入もその一つである。旧来のAIとは一線を画す、スーパーAI、ウルトラAIとも呼ばれる人工頭脳を導入しているらしい。
その人工頭脳を業務管理に用いているのはもちろんのこと、最新鋭の貨物船にも人工頭脳は用いられており、貨物の積み卸しからその操船までがほぼオートメーションで、船員は異常を監視する最低限の人数で済んでいるという。
そんな根回し、収入源、運用効率を極限まで極めている大手に、中小企業のレイナーコアが太刀打ち出来るはずもなく、トールは「自分一人ではもう抱えきれない」と嘆く日々だったのだ。
コストカットももう限界で、〔人の手で丁寧に運びます〕をモットーに、荷主に付加価値を見出して貰っていたが、それも限界に達していたのだ。
同じ荷物が大手の1.5倍の料金ならまだしも、2倍、3倍と開いてしまっては、もう太刀打ち出来るはずもなく、一人で抱えてきたトールは、漸く光明が見えたこの大型契約に望みを掛けるしかなかったのだった。
契約を結んだ後、トールはデスクの通信端末を切り、椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げた。
「これで、少しは皆を楽にさせられるか……それとも、全てを失うか。まさに大博打だな。」
オフィスに彼の言葉が虚しく響いた。
彼の心は限界を迎えていたのかも知れない。経営難続きで「もう抱えきれないよ」と常々彼の脳裏に去来していた言葉は、トールの心を執拗に蝕んでいたのかも知れない。
トールの呟きに、傍に立つ秘書のセシルは微笑んだ。
「大丈夫ですよ。社長が負けるはずありませんから。それに、あの方に任せるんですよね。ならば何の心配もないじゃないですか。」
そう言って、トールの不安を拭い去ろうとする。
トールは、抱えきれなかった不安を一掃するべく気持ちを切り替え、この大型契約に臨むことにした。セシルの一言は、一筋の光明を見るようだった。
【落ちていく】
今回の大型契約は、カボリブズ星系第3惑星ポミダと、1.3万pc離れたコロドッキ星系第5惑星ハオベムデを結ぶ航路を開拓し、その後の定期便就航を実現するというものだった。
契約金も破格で、新規開拓の手数料込みとはいえ、通常契約の5倍に達する。
しかし、うまい話には当然大きなリスクが伴う。
両星系の間には、直径約500pcの巨大な暗黒星雲が横たわっており、その内部には強力な重力場が広がっている。この宙域を越えるには、亜空間航行を利用するしかない。
この重力場は過去、多くの名だたる探検家が挑み、帰らぬ人となった宙域であり、現在でも宇宙船が難破する事故が後を絶たない。暗黒星雲の内部は当然光も届かず、重力地場が狂うため、計器類も頼りにならない。唯一の頼みは、船長をはじめとするクルーたちの経験と勘だけだ。
通常なら、この危険な宙域を迂回するのが常道だ。しかし、それには高速艇でも一週間以上を要する。一方で、亜空間航行を成功させれば、たった一日で通過可能となり、輸送コストを大幅に削減できるのだ。
だが、この方法も決して安全ではない。重力場が強大すぎるため、亜空間航行のタイミングを誤れば、船は捕まり、そのまま宇宙の墓場へと驀地に落ちていくこととなるのだ。
万が一事故が起これば、顧客の大切な貨物だけでなく、貴重な輸送船と従業員の命が失われる。延いては顧客の信頼を失い、会社の存続さえ危ぶまれる事態となる。それだけは絶対に避けなければならない。
トールは思い出していた。これまで共に働き、支えてくれた従業員たちの姿を。
業界が低料金競争に突入した際も、彼らはコストカットに協力し、限界まで切り詰めてくれた。慢性的な人手不足に直面しても、文句を言いながらも人一倍働き、業務改善や効率向上に尽力してくれた。
宇宙空間では常に不測の事態がつきまとう。異常な重力場、有害な宇宙線、小さな岩石が船体に衝突すれば、それだけで命を落とす可能性もある。主力の中長距離貨物船は一定の防御力を備えているが、1万TEU級以下の近距離輸送船は、安全な航路を飛んでいるとはいえ、事故が起これば乗員の命を危険に晒す。
それでも、彼らは大きな事故もなく職務を全うしてきたのだ。
秘書のセシルを始めとする内勤部隊、営業部隊、そして何より現場で貨物を運ぶ運送部隊。彼らの存在なしに会社は成り立たない。
レイナーコアの社風として、役職に関係なく互いを尊重し合い、各自が自分の役割を全うする文化が根付いていた。その強い信頼関係こそが、この会社を支えているのだ。
だからこそ、トールは彼らのために、責任を持ってこの舵を取らなければならない。そう、強く決意したのだった。
今回の新規航路開拓は、その舵取りの命運を大きく左右する大型契約である。
トールはその失敗が許されない新規航路開拓を、ベテランのクイミンビに任せたのだ。
クイミンビはトールがレイナーコアに入社したばかりの頃には、既に優秀な船長として群を抜いていた。当時はまだ短距離輸送船の船長として活躍していただけだったが、先代社長であるトールの父も信頼を寄せていた。
あれから数十年経った今では、トール自身が社長になり、クイミンビも中長距離貨物船の船長として舵を取る一方、他の船長たちの教育指導なども手掛けてくれる、心強い人物なのである。
「あなたの手腕に掛かっているんです。よろしくお願いします。」
トールはクイミンビに直接伝えた。従業員の生命を第一に考えているトールにとっては、身を切るような決断であったが、会社のために切れるカードは、ベテランのクイミンビをおいて他にはなった。
「もちろん、期待には応えますよ。難所と言われる場所はこれまでいくつも潜り抜けてきたんです。今回も大船に乗ったつもりで吉報をお待ちください。」
トールの気持ちを知ってか知らずか、クイミンビは力強く応じてくれた。
トールはその自信に満ち溢れたクイミンビの声と表情に安心感を覚え、彼女を全面的に信頼し、任せることにしたのだ。
それから数日後、カボリブズ星系第3惑星ポミダ上空の宇宙ステーションに停泊していたレイナーコアの主力貨物船ランテス号は、出航の時間を今か今かと待ち侘びていた。
大量の貨物を積み終わり、後は予定していた航路を飛ぶだけである。
クイミンビはトール社長から託された今回のミッションを成功させるべく、念入りに準備をしてきた。社運を自分の双肩に預けられたのだ、気合いも入るというものである。
各方面から取り寄せた航路宙域のデータと、遭難事故の履歴を詳細に精査し、これまで蓄積してきた経験に基づいて最適な航路を設定したのだ。
もちろん、宇宙には不測の事態が多分に潜んでいるため、油断は出来ない。そのためにトール社長はクイミンビにこのミッションを任せたのであり、クイミンビが信頼する最高のチームで臨んでいるのだ。
こうして徹底的に準備したクイミンビは、この航海を成功させるだけの自信があった。しかし、不安だけはどうしても拭えなかった。
クイミンビは荒れ狂っていた若かりし頃、先代の社長に拾われた後、気持ちを入れ換え、レイナーコアでがむしゃらに働き、ベテランと呼ばれる程の経験を積んできた。拾って貰った恩義もあったが、ここまで続けてこられたのは、貨物輸送という仕事がとにかく好きだったからだ。
そんなクイミンビが準備を万端にしたのにも関わらず、不安を拭い去れないのは、やはり暗黒星雲を横切るという航路を開拓しなければならないというプレッシャーと、その危険度に対する経験値によるものであろう。
もちろん、暗黒星雲を通過した経験はある。ただし、ここまで大きな暗黒星雲ではないし、重力場にしても命に関わるようなものではなく、捕まったとしても、充分リカバリー出来る程度であった。
だからこそ、今回の暗黒星雲が如何に恐ろしいものであるか、未知の領域、不測の事態が存在するか、経験値が高いからこそ、その恐怖をヒシヒシと感じるのである。
そんな不安を抱えながらも、クイミンビは荷主との簡単な出発式を済ませ、挨拶もそこそこに、いよいよ新規航路へと漕ぎ出した。
出発してすぐに、トール社長から通信が入った。
「いよいよですね。あなたのことだ、問題はないと思うが、くれぐれも道中気を付けて、安全第一で頼みます。もし、万が一皆さんの命が危険に晒されることになったら、何を置いても人命を優先してください。どんなことがあっても、誰一人欠けることなく、無事帰還することを願っています。」
トールはそう言ってクイミンビを送り出した。
クイミンビは通信を切ってから、これまでのことを色々と思い出していた。
先代の息子であるトールが入社してからは、彼を鍛えた時期もあり、貨物輸送のイロハを教え込んだ。それが今や社長となったのだ。時の流れを感じると共に、二代に亘って貢献してきた自分を誇りにも思う。
だからこそ、クイミンビは社長の言葉が胸に響き、心は完全に落ちていた。
先刻まで感じていた不安はトール社長の言葉でだいぶ軽減された。年下の坊やに心を軽くして貰うなど、いい歳した女にとっては屈辱と羞恥でしかないが、それでも、自分たちの生命を最優先に考えてくれるトール社長は、先代の父親もそうだったが、クイミンビがこの会社に人生を賭けようと思った理由の一つでもあり、従業員を思い遣るトール社長の心意気に魅せられ、彼女は完全にこの年若い社長に心酔していたからでもあったのだ。
そして、長年この会社に捧げてきた彼女の人生を、賭けるだけに値する仕事が回ってきたのだ。心は高揚していた。
そんな気持ちを胸に秘めて、クイミンビはスアレス操舵手に指示を出した。
貨物船ランテス号は、コロドッキ星系第5惑星ハオベムデへ向けて速度を上げていった。
【支えられるように】
クイミンビたちを乗せた貨物船ランテス号はいよいよ暗黒星雲を目の前にしていた。
行く手を阻む巨大な暗黒星雲が艦橋の大型モニターいっぱいに映し出されていた。
まだモニターに全体像を映せる距離ではあるが、それでもその禍々しさに身の毛がよだつ思いがした。
クイミンビは全艦放送のスイッチを入れて、艦内にいる全員に告げた。
「我々は10nh後に暗黒星雲へと突入する。
生きて帰れる保障はない。しかし、トール社長は『誰一人欠けることなく帰ってこい』と言った。社長の期待に応えるためにも、我々は全身全霊を以てこの暗黒星雲を越えてみせる。
我々には暗黒星雲航路を開拓するという使命があることを忘れるな。トール社長に吉報をもたらすぞ。諸君の働きに期待する。」
そう言って全艦放送のスイッチを切った。
クイミンビは深く息を吸い、艦橋のクルーたちを見渡した。彼女の視線を受けた者たちは、それぞれの持ち場で姿勢を正し、決意を新たにする。
暗黒星雲の重厚な影が正面の大型モニターに映し出される中、艦内は静寂に包まれていた。だがその静寂は、嵐の前の静けさであり、全員がこれから直面する試練の重さを理解していたのか、艦橋に居並ぶクルーたちの目つきが変わった。
「チセニイル、暗黒星雲のポイント26494-18978-48979から94565-59786-48654間の距離は。」
クイミンビは、全天球レーダーの前に座るチセニイル観測手に確認する。
「現在約193pcになります。」
チセニイルがレーダー脇にあるモニターの数値を読み上げる。
「やはりギリギリか。」
クイミンビは独りごちる。この艦が一回でできる亜空間航行の距離は最長250pcであり、ほぼ余裕は無い。少しでも突入場所と脱出場所を間違えれば、宇宙の藻屑である。
クイミンビは自身のタブレット端末へ目を落として、最終確認をした。そこには、これまでに収集した暗黒星雲のデータと、過去の遭難記録が表示されている。どれだけ準備を重ねても、未知の領域に挑む恐怖は消えない。おくびにも出さないが、内心恐怖で押し潰されそうだった。
それでも彼女は、トール社長の言葉を胸に刻んでいた。「誰一人欠けることなく帰ってこい」。その言葉が、彼女を支える最後の砦だった。
刻一刻と暗黒星雲が近づいてくる。
正面モニターは既に暗黒星雲で埋め尽くされ、光るものは一切見えない。
「スアレス、突入ポイントまでどれぐらいになる。」
クイミンビがスアレス操舵手に突入までの距離と時間を確認する。その声は落ち着いており、僅かな震えも感じさせなかった。彼女の態度がクルーに安心感を与えていることは確かである。
「突入座標到着まで、およそ15pc、1nhになります。」
スアレスが即座にモニターの数値を答える。
「全クルーに告げる。本艦は1nh後に亜空間航行へ移行する。総員亜空間航行突入に備え、準備を開始せよ。繰り返す……。」
クイミンビが全艦放送で注意を促すと、クルーに注意喚起するためのイエローライトが全艦で点灯した。
「チセニイル、暗黒星雲の動きはどうだ。」
「現在、観測ポイントの距離は198pcに膨らみましたが、安定はしています。」
「少し膨らんだか。」チセニイルの報告に、クイミンビは少し緊張したが、「200pcを越えたら報告しろ、重力場の方はどうなっている。」とすぐに切り替える。
「重力場も現在は安定しています。」
「よし、予定どおりの航路で進入する。亜空間航行突入後は通常空間の状況をモニター出来ない。些細な異常も見逃さないよう、何かあれば、すぐに報告してくれ。」
クイミンビは、チセニイルに念を押す。
「亜空間航行突入30ネビュラミニッツ(nm)前。現在航行に異常は見られません。」
スアレスが報告を上げる。まだ少し気持ちに余裕があるのか、操舵桿を握る手にも力は入っていない。
艦内では亜空間航行に向けて、順調に準備が進んでいるようで、様々な報告が逐一上がってくる。
「こちら貨物室、異常はありません。」
「こちら機関室、異常はありません。」
「こちら保全室、異常はありません。」
「突入ポイントまで10nm、速度、軌道共に異常はありません。」
スアレスが報告を上げ、操舵桿を握り直した。
「亜空間航行開始10nm前。総員、最終チェックにかかれ。繰り返す……。」
クイミンビが全艦放送をおこなうと、注意喚起のアラート灯がイエローからレッドになり、警報音が鳴り響く。
「突入ポイントまで5nm、予定突入コースと誤差はありません。」
スアレスが報告を上げる。
「暗黒星雲も依然安定しています。重力場との距離、38pc。重力波の影響はありません。」
チセニイルも報告を上げる。
「よし。予定どおりのコースで突入する。」
クイミンビが指示を出す。
「突入ポイントまで1nm。亜空間航行移行用意良し。」
スアレスが宣言する。
「亜空間航行カウントダウン開始。」
「亜空間航行開始10ネビュラセコンド(ns)前、9、8、……。」スアレスがカウントダウンを始める。「……4、3、2、1……。」
「亜空間航行開始!」クイミンビが宣言する。
「亜空間航行開始!」スアレスが復唱し、亜空間航行の作動スイッチを入れた。
その瞬間、進行方向を映しだしている正面の大型メインモニターの映像が歪み、後方にあった星々は消えてなくなった。
「亜空間航行移行完了!航行に異常なし!」スアレスが宣言をした。
「巡航速度でそのままの航路を維持。……チセニイル、重力場の状況は。」
クイミンビが指示を飛ばし、確認をする。
「現在、最接近している重力場は、1時の方向、仰角32度、距離28pc、重力波は観測出来ません。」
「良し。そのまま重力波に注意して観測を続けてくれ。」
亜空間航行は、順調に進んでいた。
大型モニターには何も映っていなかったし、計器類もほぼ役には立っていなかったが、予定航路はきちんとトレース出来ていた。
クイミンビは安堵しながらも、気を緩めることはない。亜空間航行はこれから10nhも続くのだ。
航路のトレースは、船速と舵取りに依っておこなう。通常空間なら、観測出来る天体によって逐次修正を掛けていくのだが、亜空間ではそれが出来ないため、どうしても誤差は出てしまう。その誤差を最小限に抑えるのが、船長であるクイミンビの経験と勘である。
「針路修正、取舵3度、仰角マイナス1度。」
クイミンビがスアレスに指示を出す。
「了解。進路変更、取舵3度、仰角マイナス1度。」
スアレスが復唱し、操舵桿を操縦する。
スアレスはクイミンビから次々に飛んでくる針路修正に、逐一対応する。操舵桿を握る手には力が入る。
その時、チセニイルが叫んだ。
「重力波を検知。右舷前方、距離約10pc!」
艦橋に緊張が走る。クイミンビは即座に反応した。
「取舵30度進路変更!速度上げろ!」
「了解。取舵30度、進路変更!速度上げます!」
スアレスが復唱し、操舵桿を操作すると、急速転舵に全員の身体が右に引っ張られる。
亜空間航行時、重力波の影響は基本有り得ない。しかし、場合によっては亜空間にまで影響を及ぼすケースがあるのだ。過去の遭難記録は、それを物語っていた。重力波を検出したということは、そういうことなのだ。
艦橋にいるクルー全員に緊張が走った。
クイミンビはモニターに映し出される僅かなデータと、チセニイルから上がる報告を頼りに、最適なコースを割り出し、スアレスに回避指示を出す。
「依然、重力波接近中。距離5pc!」
チセニイルが悲鳴のように声を張り上げる。
(早い。このままでは、重力波に捕まる。)クイミンビは、心の中で決断をする。
「ハイパードライブ起動準備。」
「ハイパードライブ起動準備。」スアレスが復唱する。
ハイパードライブとは、一種のブースト機能で、短時間ではあるが、船速を上げて危険などから回避するための非常用ブースターである。但し、一回の使用で1nh、30pcの移動を可能とするが、一回きりの奥の手であり、その後も暫くは巡航速度が著しく落ちるなどの問題もあるため、諸刃の剣なのである。
「進路前方、53pcまで、障害物はありません。」
チセニイルがすぐさま報告を上げてくる。
「了解。全艦に告ぐ。これより当艦はハイパードライブに入る。全員衝撃に備えよ。繰り返す……。」
クイミンビが全艦放送をおこなうと、レッドアラートが点灯し、警報音が艦内に鳴り響いた。全員がシートベルトを確認し、座席に深く座り直す。
「ハイパードライブ起動準備完了しました。」
スアレスが報告を上げる。
「よし、ハイパードライブ開始5ns前、4、3、2、1、ハイパードライブ起動!」
クイミンビがカウントダウンをし、起動命令を下す。
「ハイパードライブ起動!」
スアレスが復唱し、ハイパードライブ起動スイッチが入れられると、全員の身体が座席の背もたれに押し付けられる程の加速度を感じた。理論値でおよそ5Gあると言われるハイパードライブ起動時の加速度は、訓練を受けたクルーたちでも、かなりキツい。
クルーたちの顔が歪む中、クイミンビだけは、顔を歪めることなくモニターを注視しながら、状況の把握に努めていた。一時的に遠ざかったとしても、いつまた重力波が襲い来るか分からないからだ。
ハイパードライブに入ってから、間もなく1nhが過ぎようとしていた。全員がハイパードライブの終了を、固唾を飲んで待っていた。
「間もなくハイパードライブが終了します。」
スアレスが報告を上げる。
「全艦に告ぐ。当艦は間もなくハイパードライブを終了する。全員衝撃に備えよ。繰り返す……。」
クイミンビが全艦放送をし、再びレッドアラートを点灯し、警報音を鳴らす。
「ハイパードライブ終了、5nh前、4、3、2、1、ハイパードライブ終了。」
スアレスの宣言と共に、ランテス号の速度が急速に落ち、全員が今度は前のめりになり、シートベルトが身体に食い込む。
「亜空間航行に異常ありません。」スアレスが報告する。
「機関部、異常ありません。」ムグルサ機関長が報告する。
「船体、異常ありません。」シガンダス保全長が報告する。
「重力波との距離32pc、現在相対距離は変わりません。」チセニイルが報告を上げる。
「了解。引き続き監視を頼む。」クイミンビが指示を出す。
クルーはチセニイルの一言を聞いて、安堵するが、まだ暗黒星雲の中で亜空間航行を続けているのだ。気を抜ける状況ではない。
ランテス号はその後順調に亜空間航行を続け、無事暗黒星雲を脱した。
亜空間航行を終えた艦橋の正面大型メインモニターには、煌めく星々が画面一杯に映し出されていた。
「我々は、無事暗黒星雲を通過した。諸君の働きのお陰である。この場を借りて感謝する。尚、ハオベムデまではまだある。残りの行程も気を抜かず、引き続き気を引き締めていくように。以上。」
クイミンビはそう言って、全艦放送のマイクを切る。
艦内では歓喜の雄叫びが其処此処で上がっていた。
艦橋のクルーたちも、安堵の表情を隠すことはなく、皆互いに顔を見合わせながら、喜びを分かち合った。
「トール社長、こちらクイミンビ。……暗黒星雲の通過に成功しました。現在、ハオベムデに向けて航行中です。」
彼女の声は疲れを含みながらも、確かな自信に満ちていた。
通信機の向こうから、トールの声が返ってきた。
「無事で何よりです。よくやってくれました。あなたのおかげで、レイナーコアに未来が見えました。本当にありがとう。」
その言葉に、クイミンビの目がわずかに潤んだ。彼女は小さく笑い、「まだ終わってませんよ。無事に荷物を届けて、みんなで帰ります」とぶっきらぼうに答えた。
「そうですね。最後まで気を抜かず、お客様に荷物をお届けしなければなりませんからね。帰還するまでが配達。あなたの教えでしたね。」
トールはそう言って微笑む。
クイミンビは昔、厳しくトールを指導したことを思い出し、懐かしい気持ちになったが、「そう言うことです。復路もあるんですから。」そうぶっきらぼうに言って、クイミンビは笑う。
通信を終えたクイミンビは、モニターに表示された、この先5000pc程の距離が残るハオベムデまでの航路を見つめた。暗黒星雲を無事に越えたとはいえ、まだ、道半ばである。
しかし、そこには確かな光明が見えた気がした。トール社長がクイミンビに託した思いはもの凄く大きなものだったが、クイミンビとクルーたちは、その思いに見事に応えることができたのだ。
今、クイミンビの心は晴れやかだった。彼女たちが乗り越えたハードルの先には、レイナーコアの新たな門出が待ち受けていたのだから。
正面の大型メインモニターには、ランテス号が進む星の海が映し出されていた。
<完>
【後書き:2025年12月】
ご一読いただきありがとうございます。
2025年12月に提示されたテーマは【もう抱えきれないよ】【落ちていく】【支えられるように】です。
今回もご多分に漏れず、なかなか難しいテーマでした。
いつものように、足掛かりは連想ゲームです。抱えきれないという言葉から連想するものをひたすら列挙し、その羅列した言葉から連想したのが、運送業でした。
そして考え出したのが、宇宙を股に掛ける運送業で、主人公は社長です。仕事を投げ出したい社長と、それを阻止する従業員の物語を思い付いたのですが、それではなにかつまらないし、後のテーマにそぐわなくなってしまい、ボツにしました。
そこで、方向転換です。駄目社長ではなく、社員思いの社長に変更し、会社の未来、従業員の生活、そのすべてを抱え込もうとさせました。そうして出来上がったのが、今回の話です。
三つのテーマに無理矢理沿わせた感が強く、正直、内容としては不満が残りますが、社長と、艦長の人間関係などは良い感じに書けたかなと、手前味噌ですが、その辺は満足しています。
この作品をあなたはどう感じましたでしょうか。
この作品が思索のきっかけになれば幸いです。
次回は年明け1月になります。よろしくお願いします。
皆様よいお年をお迎えください。




