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喫茶厨房本能寺 -徳川家康の倹約道-  作者: 本能寺


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第8話「哀愁の店長と今川の亡霊」

第8話「哀愁の店長と今川の亡霊」


第1場:カルテの底と「出がらしの錬金術」


東暦一五七四年、初春。

夕暮れの三河開発・代表室。

本日も室内の蛍光灯は半分だけ消され、薄暗い部屋の片隅で、30代の青年社長・徳川家康はカタカタとノートPCのキーボードを叩いていた。

目元には、ディスプレイのブルーライトを遮断する特注のPC用眼鏡が光っている。


机の上には、1杯800円の無農薬ケール青汁の瓶と、スーパーの見切り品コーナーで手に入れた1パック15円の「もやし」が置かれている。


「社長、本日の節約実績です。昼食はもやし炒めと麦飯、お茶は三回煮出した番茶。

……そして、給湯室のお茶パックの出がらしを天日干しにして、靴の消臭剤として再利用しましたね」

「うむ! 市販の靴用消臭剤を買えば1個300円は下らんが、茶葉のフラボノイド成分を活用すれば資材費は0円!

さらにベランダへ茶葉を干しにいく往復運動でふくらはぎのヒラメ筋を刺激し、下半身のポンプ機能を活性化させた!

資産防衛と血流改善を両立する、極めて合理的な一石二鳥じゃ!」

「事務所のベランダがカラスの餌場みたいになってますけどね」


元忠が冷ややかに集計表にペンを走らせていた、その時だった。


ドガァァァァァンッッ!!!


三河開発の薄いスチールドアが、蝶番ごと吹き飛ぶかのような轟音を立てて蹴破られた。

寒風と共に代表室へ踏み込んできたのは、黒いロングコートをなびかせた男

――本能寺のオーナー、織田信長であった。

その手には、湯気立つ『超高圧野菜ソース仕立ての特製パニーニ』が握られている。


「おい家康ッ!! 部屋にこもってセコセコと小銭を数えておる場合かッ!!」

「の、信長殿!? 器物損壊じゃ! 修繕費はきっちり請求しますぞッ!!」

家康が椅子から飛び退くと、信長はドカッと応接ソファに座り込み、分厚いジュラルミンケースをガラステーブルの上に叩きつけた。


バチンッ! と留め具が外され、蓋が開く。

中には、帯封のついた分厚い一万円札の束がぎっしりと敷き詰められていた。


「な……なんじゃこれは!?」

「追加の特別報酬だ」

信長はギラギラとした瞳で、家康を指差した。

「滝川、利家、勝家、長秀、森兄弟……貴様の手腕で、うちの連中の財布の紐は確かに締まった!

ならば光秀も同じように立て直せるはずだ!

……だが、まだ本能寺の最大の難所が残っておるだろうがッ!!」


第2場:哀愁の店長と「佐久間信盛の影」


元忠が青ざめながら、ジュラルミンケースの横にカルテの束を置いた。

「……社長、本能寺スタッフ家計カルテ、正真正銘の最後の一枚です」


そこには、極限までやつれた顔写真とともに、痛々しい記録が並んでいた。


【明智光秀・本能寺店長】

固定給+店長手当+平蜘蛛稼働連動の青天井成果給(月収:350万〜400万円超)

資産状況:常に残数千円〜数万円(過去の指数先物、仮想通貨、海外FX、バイナリーオプションで全損を反復)

特記事項:平蜘蛛の恐怖から逃れるため「FIRE(早期リタイア)」に執着中。元・本能寺大株主の佐久間信盛(純資産5億超・ハイツ高野山オーナー)に接触し、次は「不動産投資」で脱出を図ろうと画策中。


「……明智店長か」

家康の喉がゴクリと鳴った。

「光秀殿といえば、毎日厨房の最奥で平蜘蛛のバルブを握らされ、『ううっ……追証……ロスカット……』とドス黒い哀愁オーラを放っておるあの御仁ですな……」


「そうだ!」

信長はパニーニを噛み砕き、唸るように吠えた。

「月に三百万以上稼いでおきながら、翌月には残高が数千円だ!

しかも最近、佐久間の隠居ジジイに泣きつきおった!

あいつは親父の会社の未公開株が化けて、たまたま五億を超えただけの男だ。

俺から見れば運任せの天下人よ!

その佐久間の不動産投資の話を真に受け、今度は億単位のローンを組んでアパート一棟買いだと!

そんな危なっかしい借金を背負わせたら、あいつの胃袋が破裂して平蜘蛛の加圧調整が完全に狂ってしまうわッ!!」


信長はジュラルミンケースの現金を家康の目の前に突き出した。

「家康! この金はくれてやる!

貴様のドケチ理論とオルカン積立の理屈で、光秀の頭に巣食った無謀な一発逆転FIREの妄想を粉砕し、あいつの財布と精神を根本から叩き直してこいッ!!」


第3場:家康の断固拒否――「再現性の壁」


だが―― いつもなら「オルカンの積立原資が手に入った!」と狂喜乱舞するはずの家康が、微動だにしなかった。

家康はスッとPC用眼鏡の位置を正すと、ジュラルミンケースの蓋を静かに、パタンと閉じた。


「……お断りいたします」


「……あァ!?」

信長の眉間が跳ね上がり、室内の空気が凍りつくような殺気が放たれた。

「家康……いま何と言った?」


「お断りすると申したのです、信長殿」

家康は一歩も引かず、冷徹な視線を返した。

「わしは投資と経営の再現性を重んじる者。受託する案件は、成果を見込めるものに限ると決めておる」


「何だと!? 貴様、金が足りんとでも言うのか!」

「金の問題ではありませぬ!」

家康は人差し指を突き立てた。


「よくお聞きなさい! 滝川殿、利家殿、勝家殿、長秀殿、森兄弟……彼らの指導が成功したのは、彼らの根底に『行動を変える余地』があったからじゃ! しかし、光秀殿は違う!」


家康はカルテの光秀の写真をバンと叩いた。

「光秀殿の浪費と投機の根源は、単なる金銭知識の不足ではない!

信長殿という巨大すぎる太陽に日々炙られ、平蜘蛛の猛圧に魂をすり減らし、いつ爆発炎上するかわからぬ恐怖から逃れるために、一刻も早くFIREしようと焦っておるのじゃ!

あれは【生存本能の暴走】!

他人の心の闇に踏み込むなど費用対効果が最悪じゃ、わしの健康寿命まで削られるわ!

……それでも、わしが引き受けるとすれば、投資教育ではない。

職場環境の改善案件じゃ。

信長殿がその責任を負う覚悟はありますかな?」


「ふざけるなッ! 俺が直接言ったらあいつの胃に穴が空いて平蜘蛛が止まるわッ!!」

「ならば、わしに押し付けるでないッ!

自分で解決できぬ問題を、金で他人に投げるなッ!」


薄暗い社長室で、二人の怪物が額を突き合わせて火花を散らす。

元忠が小声で「確かに、光秀さんの問題は小手先の節約術じゃどうにもなりませんからね……」と呟いた、その時だった。


第4場:旧主の来訪と「東海道一の提案」


コン、コン、コン。


蝶番が壊れて斜めに傾いたスチールドアを、何者かが扇子の先で上品に叩いた。

「……お邪魔してもよろしいかの、家康殿」


その声が耳に届いた瞬間、家康の背筋に、冷たいものが走った。

「……!? この声は……」

「もうドアは壊れておりますが……」

元忠の小さな呟きは、その場の張り詰めた空気に掻き消された。


ゆっくりとドアを押し開けて入ってきたのは、優雅な仕立ての羽織を着流し、白粉を引いたかのような白皙の美貌を保つ老紳士

――そして、その背後でおどおどと周囲を伺う、高級スーツを着た青年だった。


「い、今川義元……前社長……ッ!?」

元忠が息を呑んで後退りした。


かつて東海エリアの外食産業を支配し、「東海道一の弓取り」ならぬ東海道一の経営者と謳われた大手外食チェーン・【株式会社今川義元】の元代表取締役、今川義元。

そして隣に立つのは、義元の引責辞任に伴い後を継いだ現代表取締役の息子、今川氏真であった。


「ほほほ、相変わらず薄暗い部屋で、慎ましい電卓の音を響かせておるようじゃな、家康殿」

義元は扇子をパチンと鳴らし、部屋の中を見渡した。

「……む、信長殿もおられたか」


信長は不敵に口元を吊り上げ、コートのポケットに手を突っ込んだ。

「……フン、大手外食チェーンの看板を背負っていた怪物が何の用だ。

食中毒事故で引責辞任し、息子に社長の座を譲って優雅に隠居暮らしと聞いていたがな」


「隠居など、名ばかりよ。筆頭株主として、愚息の後見を務めておるに過ぎん」

義元は微笑を浮かべたまま、悠然と家康のデスクの前へ歩み寄った。

「家康殿。そなたがかつて我が社の新規事業室で、誰よりも採算と仕組み化に長けておった手腕を見込んで

……極めて有利な、美味い商談を持ってきてやったのじゃ」


「……商談、ですと?」

家康が警戒露わに眉をひそめると、義元はいかにも親切そうに目を細めて語りかけてきた。


「我が社が愛知県・三河エリアに構える【直営四店舗】

……立地も一等地、内装も最新設備を備えた大型店じゃ。

これを事業譲渡という形で、そなたの三河開発に破格の底値で引き取ってもらいたい。

なに、独立してまだ数年程度じゃろう。

飲食業へ参入するとなれば、店舗を回す人員の確保にも苦労するはず。

四店舗のスタッフについても、移籍希望者をこちらで募っておいた。

既にリストアップも済ませてある。

さらにじゃ……その四店舗にある設備はすべて差し上げよう。

遠慮せず、丸ごと好きに使ってよいのじゃよ」


氏真がおどおどと口を挟みかける。

「ち、父上、本当にそんな好条件で……

あの厨房設備は、まだ償却も終わっていないのに……」

「黙っておれ、氏真。

取締役会の承認は、お前の名で既に得ておる。

必要な手続きも済ませた」

義元の冷徹な一瞥に射すくめられ、現社長の氏真は震えて口を噤んだ。


「一等地の大型店が四つに、移籍希望者のリストまで用意済み……設備の譲渡価格もゼロ。

条件だけ見れば、破格ですが……」

元忠が息を呑みながら、怪訝そうに義元を見つめる。


「どうじゃ家康殿。

かつて我が社に忠実に仕えてくれたそなたへの、わしからの独立祝いのようなものよ。

手ぶらで飛び込める千載一遇の好機、断る理由などなかろう?」


義元の口元には、完璧なまでの好々爺の笑みが湛えられていた。

だが――家康は微動だにしなかった。

PC眼鏡の奥で、家康の瞳が鋭く細められていく。


(……あり得ん。あの義元様が、善意でここまで便宜を図るはずがない……ッ!)


業界の不穏な噂が、家康の脳裏をよぎった。

(……業界の噂では、代表が氏真殿になってから、チェーンの命である厨房設備を一新したという。

そして奇妙なことに、その頃から『全店舗で味が安定しなくなった』と顧客の離脱が始まっていたはずじゃ……)


整いすぎたお膳立て。

手厚すぎる人員の融通。

そして、償却も終わっていない設備を無償で譲渡するという異常な親切。

点と点が結びついた瞬間、家康は静かに口を開いた。


「……身に余る破格のお話、恐れ入ります。ですが義元様――」


家康は薄暗い室内で、義元の穏やかな笑みを真っ直ぐに見据えた。


「――すべての設備を譲渡するのではなく、私が御社を離れてから導入された厨房設備については譲渡対象から除外し、【所有権を御社に残す】としたなら……

その条件でも、なおお譲りいただけますかな?

こちらも設備をお借りする以上、相応のリース料はお支払いいたしましょう。

ただし――設備の不具合に起因する修繕費、ならびに設備の性能不良によって品質が安定せず営業上の損失が発生した場合には、その責任を所有者である御社に問わせていただく形になりますが」


ぴくり、と義元の扇子を持つ指が止まった。

その背後で、氏真の顔がサッと青ざめる。

三河開発の薄暗い社長室に、重苦しい沈黙が落ちた。



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