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喫茶厨房本能寺 -徳川家康の倹約道-  作者: 本能寺


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第1話「信長の私財と健康の複利」

第一話「信長の私財と健康の複利」


第一場:薄暗き社長室と「健康の複利」


東暦一五七三年、夏。


清須市郊外、築古雑居ビルのワンフロアを構える投資会社『三河開発』。


夕暮れ時、薄暗い代表室で眼鏡をかけた徳川家康は、電卓をパチパチと叩いていた。


カチャリとドアが開き、書類を抱えた鳥居元忠が入ってくる。


「社長、暗すぎます。蛍光灯つけますね」


「待て元忠! スイッチに触れるな!」


家康が血相を変えて制止した。


「夕暮れの明かりで帳簿は十分読める! 無駄に電気をつければ、一時間あたり2.4円の純損失じゃ!」


元忠は、机の上の見切り品の納豆巻きを見た。


「社長、今日の昼食も20円引きの納豆巻きですか……」


「ああ。浮いた20円は将来の資産じゃ」


元忠の視線が、その隣に置かれた深い緑色の瓶へ移った。


「ところで……この青汁、一杯800円と書いてありますが」


「無農薬の極上ケールを用いた特注品じゃ。健康を守るための必要経費だ」


「納豆巻きの20円を惜しんで、青汁に800円……?」


さらに元忠は、家康が深く腰掛けている漆黒のオフィスチェアを見た。


背骨の湾曲にミリ単位で沿うよう作られた、異様な威圧感を放つ特注品である。


「……この椅子、まさか請求書にあった60万円の人間工学チェアですか!?」


「うむ! 腰への負担を極限まで減らす特注品じゃ! 腰を壊して運用期間を失ったら、60万円どころの損失では済まん!」


「社長。その60万円をオルカンに回した場合の複利は計算しましたか?」


「…………」


家康の指がピタリと止まった。


「……健康への投資と、金融資産への投資は別勘定じゃ!」


「都合のいい時だけ別勘定にするんですね!」


元忠が呆れて肩をすくめると、家康は青汁の瓶を掲げ、眼鏡の奥の目をカッと見開いた。


「元忠! 投資において最大の武器は何か? 入金力か? 利回りか? 違う! 【運用期間】じゃ! 健康を損なえば、働いて追加投資できる期間も、生活費のために資産を取り崩さずに運用できる期間も短くなってしまう! 130円の缶コーヒー代を削ることには執念を燃やすが、健康寿命を延ばすための支出は一銭も惜しまん!」


「青汁も椅子も、全部複利のためですか?」


「違うと言いたいところだが……健康でなければ、増えた資産を使って美味い飯を食うこともできんからな!」


家康は一瞬だけ真顔になり、静かに言った。


「資産を増やすことと、増やした資産を使える身体を守ること。この二つは、どちらも欠かせぬのだ!」


「……そこだけは、ぐうの音も出ない正論なんですよね」


元忠がため息を吐いた、その時だった。


ドガァン! と雑居ビルの階段を揺るがす乱暴な足音が響いた。


「おい家康! おるかッ!」


扉を蹴破らんばかりの勢いで入ってきたのは、喫茶厨房本能寺のオーナー・織田信長であった。


第二場:信長の悩み――「私財が使えん!」


「……信長殿? 騒々しいですな。アポイントもなしに何事です」


家康が眉をひそめると、信長はドカッと応接ソファに座り込み、持参した缶コーヒー『有楽斎』を机に置いた。


「家康、貴様は金を増やすことにかけては天下一の変人だろう。金の相談に来た! 」


「はあ。融資の相談なら、三河開発の所定の審査書類を――」


「違う! 借金の話ではない!」


信長はポケットから、クシャクシャになった紙切れを放り投げた。


地方銀行の個人口座の残高照会票である。


そこに印字されていた数字を見た瞬間、家康は眼鏡を押さえたまま、目を丸くして残高照会票を凝視した。


【普通預金現在高:金4800万円也】


「よ、4800万……!?」


家康の喉がゴクリと鳴った。


「信長殿……貴方、いつの間にこれほど個人の預金を溜め込んだのですか!?」


「店が儲かっているからだ!」


信長は腕を組んだ。


「秀吉の婚礼特需に、犬山祭の土産需要。店は過去最高の売上を叩き出した。もちろん、店の売上をそのまま懐に入れたわけではないぞ。会社に必要な分の運転資金を残したうえで、長秀の奴が役員報酬と株主配当をきちんと計算し、正規の手続きを経て支払ってきおったのだ! 過去に受け取った分も含めて、気づけば4800万円になっていた!」


信長は残高票を指先で弾いた。


「俺は車も服も豪邸も要らん。飯は店で作るし、欲しいものは厨房にしかない。使い道がないまま口座に積み上がった結果がこれだ!」


「使い道がないのではなく、興味の対象が厨房に限定されているだけでは……?」


元忠の冷静なツッコミをよそに、家康の頭の中では凄まじい速度で算盤の玉が弾かれた。


(4800万円……! これを今すぐオルカンに一括投資し、年利5%で30年運用できれば……税引き前の机上計算だけでも2億円を超える天下人クラスの資産に化けるというのに……ッ!)


「で、その大金がどうしたのです? まさか贅沢でも覚えましたかな」


「馬鹿を言え!」


信長は吐き捨てた。


「金があるなら、至高の料理を作るために使うのが道理だろうが! だから俺は、この4800万円の私財を使って――地下厨房にある【本能寺オーブン】をもう一台特注で買い増し、並列二台稼働の超火力体制をブチ込もうとしたのだ!」


家康は「あちゃあ……」と額を押さえた。


「……で、従業員に止められたと?」


「止められたどころではない!」


信長が机を叩いた。


「見習いの長可の奴は、ようやくオーブンの超火力を制御し始めたところだ! オーブンがもう一台あれば、フレンチトーストの火入れ修行をさらに加速できる! そのうえ、俺の手も空いて、新たな焼き物の開発に取りかかれるのだぞ! なのに光秀の奴が『オーブンが二台になったら清須市が焦土と化す! 店長を辞めて南の島へ逃げる!』と泡を吹いて胃薬をガリガリ噛み砕き、秀吉は『勘弁してください! オーブン二台なんて回したら厨房の人間が消し炭になります!』と泣きつき、長秀に至っては『社長の個人資産の投入は、現場の労務負荷に換算すれば米千俵分の過剰負荷となります』と謎の理屈で発注書をシュレッダーにかけおったのだ!」


「……ごもっともな反応ですな」


家康は深く頷いた。


本能寺の地下厨房はすでに『本能寺オーブン』『平蜘蛛』『楽市楽座』『黄金茶室』という、感情エネルギーで動く危険設備のオンパレードである。


そこへオーナーが個人の小遣いでさらにあの化け物オーブンを買い足そうとすれば、現場が反乱を起こすのは火を見るより明らかだった。


「納得がいかん!」


信長は目をギラギラと怒らせた。


「会社の金を使えと言っているのではないぞ!? 俺が料理で稼ぎ、俺の口座に合法的に入った俺の私財だ! 自分の金で長可を鍛え、厨房を良くしようとして、なぜ部下に怒られねばならんのだ! なあ家康、貴様からも『自分の金を何に使おうが個人の自由だ』と、あいつらに説教してくれんか!」


第三場:家康のFP講義――「生活防衛資金という名の城」


「……信長殿。貴方にとって、金とは何です?」


家康の静かな問いに、信長は即答した。


「決まっておる。至高の料理を生み出すための燃料だ」


「……わしにとっては、未来の選択肢を増やすための種銭です」


家康の脳裏に、証券口座の数字が浮かんだ。


「金があれば、無理に働かずに暮らすこともできる。理不尽な仕事を断ることも、病気になったときに治療へ専念することもできる。だからこそ、今すぐ使わずに残しておく価値があるのです」


「ふむ。だが、金を残すことばかり考えて、料理を一度も極めぬまま死んだらどうする?」


「…………」


家康の指が止まった。


「……健康寿命を最大限に延ばし、資産を最大限に増やす! そうすれば、料理を極めるための時間も、環境も、金も確保できるではありませんか!」


「結局、貴様も自分の好きなことに金を使いたいだけではないか!」


「わしの趣味は、資産が増える数字を眺めることです!」


「料理より安上がりだな!」


「そこは否定しません!」


家康はコホンと咳払いをし、居住まいを正した。


「話を戻しましょう。従業員の方々の言い分は100%正しい。信長殿、貴方の金銭感覚は根本から狂っていますぞ」


「なにぃ!?」


信長が眉を吊り上げる。


「耳の穴をかっぽじって、よくお聞きなさい」


家康は愛用の算盤を引き寄せ、パチリと玉を弾いた。


「人生には、どれほど金を持っていても避けられぬ危機があります。そんな時に生活を守るための現金――それが『生活防衛資金』です!」


「防衛資金だと?」


「然り! 生活防衛資金とは、万が一に備えて確保しておく現金です。これは投資資金でも、贅沢資金でも、ましてや二台目のオーブン購入資金でもありません! 貴方の場合、個人の生活費を月30万円と仮定しましょう。急に収入が途絶えても、最低一年、できれば二年は生活を維持できるだけの現金を、すぐに引き出せる普通預金などに分けて確保しておくのです! 二年分で720万円、余裕を見て1000万円を別口座に確保しておけば、生活が破綻する危険は減らせます」


「ふむ……。1000万円は聖域として残す、と」


信長が腕を組んで頷く。家康はすかさず釘を刺した。


「そうです! 1000万円の防衛資金を確保した上で、残りの金も慎重に使い道を考えるのですぞ! 防衛資金を確保することと、残りの金を自由に浪費してよいことは全くの別問題! 防衛資金があれば何をやっても絶対に安心というわけではありません!」


「なるほど!」


信長がカッと目を見開いた。


「1000万円は絶対に手をつけず、別口座に封印する!」


「ですから、残りの金も慎重に――」


「よし! 防衛線は1000万円! そこさえ割らなければ、残りは俺の自由だな!」


「今、まったく同じことを否定したでしょうがッ!!」


家康の悲鳴のような絶叫が社長室に木霊した。


「聞いておる! 防衛線は1000万円! そこを割らなければ、俺の人生は絶対に詰まらん!」


信長はポンと手を打った。


「素晴らしいぞ家康! 貴様は天才か! 光秀どもは『金を使うな』としか言わんかったが、貴様は明確な防衛ラインを示してくれた! 1000万円さえ金庫に凍結しておけば、俺は飢え死にもせんし路頭にも迷わん! ならば、残りの3800万円全額を二台目の本能寺オーブンにブチ込んでも、何一つ文句を言われる筋合いはないではないかッ!!」


「防衛資金は、無茶をするための免罪符ではありませんぞーーーーッ!!」


家康の絶叫を背に、信長は豪快に笑い飛ばした。


「ガハハハ! 案ずるな! 『1000万円の防衛資金を死守した上での、生活費として必要のない余剰資金だ』と説明すれば、あの几帳面な長秀も文句は言えん! 今すぐ本能寺へ戻って、二台目の注文書を作らせてやるわ!」


信長は意気揚々と立ち上がり、疾風のように部屋を出て行った。


信長が勢いよく飛び出していった後、家康は閉じた扉を確認し、机の上に残された未開封の『缶コーヒー有楽斎』を見た。


「……忘れ物じゃな」


元忠が振り返るより早く、家康は缶を素早く自分の鞄にしまった。


「社長。それ、忘れ物ではなく単なる置き忘れですよね?」


「持ち主が取りに来なければ、実質的にわしの管理下にある! 明日の事務所での一杯分が浮いたわ!」


「管理下に置く前に本人に確認してください!」


第四場:本能寺へ――そして家康の極限節約


「待ちなさい信長殿ッ!!」


家康は鞄をひっつかみ、信長を追って清須の本能寺へと車を走らせた。


信長に「安全な浪費の免罪符」を与えてしまった責任感、そして何より、本能寺の運営会社の株主でもある三河開発にとって、現場が崩壊して店の収益が悪化すれば、安定した配当金が途絶えてしまうという恐怖からであった。


本能寺のバックヤードへ飛び込むと、そこはすでに阿鼻叫喚の修羅場であった。


「長秀ェ! 1000万円を別口座に隔離しろ! これが俺の生活防衛資金だ! そして残りの3800万円で、この二台目の本能寺オーブンを即金で発注するぞッ!!」


信長がカタログと特注見積書を机に叩きつける。


「ぎゃああああああッ!? なんで二台目の発注手続きに入ろうとしてるんですかァァァッ!?」


店長の明智光秀が頭を抱えて床を転げ回った。


「本能寺オーブンの二台目!? 一台だけでも長可君の怒りを吸って火柱を噴いているのに、二台を並列稼働させたら、厨房どころか清須市ごと吹き飛びます! これ以上、長可君の修行を加速させて、信長社長に次の危険設備を開発する時間を与えないでください! 頼むから私の胃を破壊する化け物機械を増やさないでくださいぃぃぃッ!!」


そこへ駆け込んできた家康が、肩で息をしながら割って入った。


「信長殿! わしは生活防衛資金を確保した上で、残りを全部使えなどと一言も申しておりませんぞッ!」


信長は腕を組み、真顔で返した。


「だが家康、防衛資金の1000万円を除けば、残りは生活費として確保する必要のない金なのだろう? ならば、俺が料理に使って何が悪い!」


「生活費として直ちに必要ないことと、無計画に使ってよいことは別ですぞ! 余剰資金だからといって、現場を壊す暴走に使ってよい道理があるかァッ!」


そこへ丹羽長秀が電卓を叩きながら静かに進み出る。


「……信長様。徳川様から知恵を授かったようですが、1000万円の防衛資金は米千俵の備蓄に相当し、極めて合理的です。……しかし、オーブンをもう一台増設した場合、現場の労務負荷は限界を超え、生産性が壊滅します。光秀殿の精神崩壊によって平蜘蛛まで停止すれば、厨房全体の収益に甚大な打撃となりますぞ」


「二台目の導入を阻むか!? 俺の3800万円はどうなるのだ!」


信長が設計図を睨みつけると、光秀は胸ポケットから胃薬を取り出して噛み砕き、珍しく真っ直ぐに信長を見据えた。


「信長様! 設備を増やして長可君を急成長させようと、それを支える周囲の人間が倒れれば至高の料理など出せません! 厨房の人員も、作業スペースも、排熱処理もすでに限界なんです! どうしても新しい機材を入れたいのであれば……せめて、現場が安全に扱える範囲のものにしてください!」


「……料理を作る人間がいなければ、至高の料理も完成せぬ、か」


信長は腕を組み、唸った。


信長にとって金は料理のための燃料だが、その料理を皿へ乗せる部下たちの手腕もまた、信長にとってはかけがえのない仲間だった。


「……フン、仕方あるまい! ならば、本能寺オーブンのもう一台増設は見送ってやる!」


「ほ、本当ですか……!?」


光秀の顔にパッと希望が差す。


しかし信長はニヤリと笑った。


「だが、長可の修行も、俺の料理への探求も止めるわけにはいかん! オーブンを増やせぬなら――既存のオーブンの超火力を制御する、松永久秀考案の特注耐熱鉄板だ!」


「と、特注耐熱鉄板……?」


「そうだ! 松永久秀が感情エネルギーの暴走を受け流す特殊合金を鋳造し、熱を均一に分散させる微細な溝を刻んだ特注耐熱鉄板よ! 量産品とはケタが違う1500万円の逸品だ! このオーブンは怒りを燃料にするがゆえに、出力が安定せず炎が激しく揺らぐ。だが、この鉄板を炉内に組み込めば、激しい熱の揺らぎをなだらかにし、鉄板上の温度ムラと急激な熱変動を抑えられるのだ!」


「熱変動をなだらかに……!」


光秀が息を呑むと、信長は腕を組んで不敵に笑った。


「火力をなだらかにする関係上、ピークの熱量はわずかに落ちる。ゆえに、瞬間の極限超火力で焼き切る俺自身は使わん! だが、火加減のブレが消えて温度が安定するなら、見習いの長可が火入れの基礎を身体に叩き込むにはうってつけの練習台になる! 長可が自分で火入れを調整できるようになれば、俺がつきっきりで指導する必要もなくなり、その間に俺は本来の超火力で新たな焼き物の開発を進められるというわけだ!」


「な、なるほど……! 二台目を増設せずとも、信長社長の手が空く……!」


光秀が目を丸くする。


信長は力強く言い放った。


「これならオーブン自体の出力は増えん。厨房のスペースもほとんど取らず、二台目を増設するほど排熱負荷も増えん! ……ただし、既存のオーブンが吐き出す熱さそのものが消えるわけではないからな。そこは光秀、お前たちの現場管理に頼るぞ!」


「結局こっちの負担は重いままじゃないですか! でも、二台並列で爆発するよりはマシです……!」


光秀が泣き笑いのような顔で頷くと、信長は胸を張った。


「うむ! そして、鉄板の購入費を1500万円差し引いた残り2300万円は、会社への追加出資に回す! そこから必要な手続きを踏み、現場の労働環境改善や、従業員への臨時賞与として還元するのだ! 俺の料理を支える者たちが倒れては意味がないからな!」


「信長様……!」


光秀の目に、ほんの一瞬だけ感動の涙が浮かんだ。


「ただし、長可が修行を終えたら、来年は厨房を増築して巨城にするぞッ!」


「結局、設備を増やす気じゃないですかァァァッ!!」


光秀の絶叫が、厨房に木霊した。


怒号と悲鳴が飛び交う中、家康は呆然と立ち尽くした。


(ダメだ……。この男にパーソナルファイナンスの理屈を説いても、『ここまでは安全に無茶ができる』という踏切板に変換されるだけだ……!)


あまりの疲労感に眩暈を覚えた家康は、ふと尿意を催した。


「……光秀殿、すまぬが奥の御手洗いを借りますぞ」


「ひぃぃ、勝手に使ってくださいぃぃ……!」


家康は足早に本能寺のトイレへ向かった。


個室に入り、鍵をかけると、家康の荒れ狂っていた呼吸がスッと静まった。


(……ふぅ。危ないところであった。事務所を出る前から尿意を我慢していたのだ)


家康の口元に、フッと悦楽の笑みが浮かぶ。


(事務所で用を足せば、水道代が一回あたり約2.4円かかる計算じゃ。他人の店で済ませれば、その分を節約したも同然……!)


家康は入念に手を洗い、備え付けのペーパーは使わず持参のハンカチで拭き、鞄の中を確かめた。


そこには、社長室に置き忘れられていた未開封の『缶コーヒー有楽斎(130円)』が鎮座している。


すっきりと爽快な顔でトイレから出てきた家康は、相変わらず鉄板の仕様を巡って小競り合いを続ける本能寺の面々に深々と一礼し、そそくさと店を後にした。


第五場:薄暗き部屋の勝者


数日後。


三河開発の社長室。


本日も蛍光灯を半分間引き、見切り品の納豆巻きを齧りながら、家康はパソコンに向かっていた。


元忠が呆れ顔で、温めたマグカップを差し出す。


中身は、家康が持ち帰った缶コーヒー有楽斎である。


「社長。本能寺の件、長秀さんから連絡がありましたよ」


「ん? どう決着したのじゃ」


「信長社長は1000万円を生活防衛資金として別口座に確保。オーブンの増設を断念し、松永久秀考案の特注耐熱鉄板を1500万円で購入。残る2300万円は会社への追加出資に回したそうです。長秀さんが資金の受け入れと社内決裁を済ませて、その一部をスタッフへの『臨時防衛達成記念賞与』に充てたとか」


「ほう、賞与か」


「はい。で、臨時ボーナスを貰った光秀さんが『これで借地権アパートの頭金ができた! 不動産投資で脱出だ!』って息を吹き返して、早速怪しい物件の買付証明書を握りしめて走り回ってるらしいですよ。しかも、地主の譲渡承諾や残存期間の条件が厳しく、売りたい時に簡単には売れない物件らしいです」


元忠のため息を聞きながら、家康はカチカチとマウスをクリックした。


画面には、家康個人の証券口座。


「……ふっ、愚かな奴らよ」


家康は目を細め、悦楽に浸った。


「信長殿は手に入った大金を鉄板と出資で綺麗に吐き出し、光秀殿は手に入ったボーナスを不動産で溶かす。だが、わしは違う」


家康は家計簿アプリを開いた。


そこには、誇らしげに節約実績が並んでいた。

缶コーヒー購入回避額(信長殿の置き忘れ):130円

本能寺で浮かせた水道代:2.4円

今日の納豆巻き値引き:20円


「合計、152円40銭!」


家康は家計簿アプリに数字を打ち込んだ。


「よし! 今日の節約効果は150円40銭じゃ!」


「社長、水道代2円40銭は、本能寺が負担しただけですよね?」


元忠が冷ややかに突っ込む。


「細かいことを言うな! わしの帳簿上では立派なコスト削減効果じゃ!」


「帳簿上の節約効果と、実際の財布の中身を混同しないでください! 水道代は現金として手元に増えてないでしょうが!」


「む……。実際に積み立てへ回せる現金は、缶コーヒー代と納豆巻きの値引き分、合計150円か……」


家康は一瞬だけ悔しそうに眉をひそめたが、即座に証券口座を開いた。


「よし! 150円を今月のオルカン積立に追加じゃ!」


「水道代2円40銭は、投資できないと分かっても記録はするんですね……。で、社長、その150円をもし毎月積み立て続けた場合、30年後はいくらになるんです?」


家康は電卓を電光石火の勢いで叩いた。


「年率5%で複利運用できたと仮定すれば……将来は約12万5000円じゃ!」


「30年後に、たったそれだけですか?」


「たった、とは何事かッ!」


家康は身を乗り出し、机をバンと叩いた。


「毎月捻出する元手は150円じゃぞ! 何もせず使えば残らなかった小銭が、12万円を超える未来の資産を生み出す! この差こそが複利の奇跡なのだ!」


「……社長。その計算をするために、何分使ったんですか?」


「…………」


家康は答えず、すっと立ち上がると、社長室の蛍光灯をもう一つパチリと消した。


「電気代も……積み立てるのじゃ……!」


ほぼ真っ暗になった社長室の中、青白く光るオルカンの買付確定画面と、60万円の特注チェアに深々と腰掛けた家康の満足げな笑みだけが、静かに闇に浮かび上がっていた。


その時、暗闇の中から元忠のボソリとした声が響いた。


「……社長。暗闇でパソコン画面を凝視して目を悪くしたら、健康寿命が縮むんじゃないですか?」


ピクリ、と家康の動きが止まった。


カチカチカチカチッ――バチィィィィィンッッ!!


次の瞬間、社長室中のすべての蛍光灯が一斉に点灯し、昼間のような爆光が部屋を満たした!


「健康は最優先じゃああああッ!! 目を労わるのじゃあああッ!!」


「電気代を惜しむ基準、どうなってるんですかァァァッ!?」


元忠の絶叫が木霊する中、家康は特注チェアの上で姿勢を正し、青汁をゴクリと飲み干すのであった。




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