第二十六話 捩れた流れ
大樹の光が遠ざかっていく。
Kの姿も。
名もなき者の姿も。
無数の世界も。
静かに。
まるで朝霧が晴れるように。
世界は再び、
いつもの姿へ戻ろうとしていた。
だが。
ユウは最後に一つだけ気になった。
「K」
振り返る。
Kは立ち止まった。
「何?」
ユウは少し迷った。
言葉にならない。
ずっと気になっていたこと。
ずっと引っ掛かっていたこと。
「もし」
一拍。
「俺たちが来なかったら?」
Kは少し驚いた顔をした。
そして笑った。
懐かしそうに。
嬉しそうに。
「来たよ」
ユウは首を傾げる。
「いや」
「もし来なかったら」
Kは首を振った。
「来た」
静かな声。
断定だった。
「別の流れで」
風が吹く。
大樹の葉が揺れる。
Kは空を見上げる。
「世界は一つじゃない」
その言葉に、
ミナが顔を上げた。
Kは続ける。
「同じ問いを抱えた流れがある」
「少し早く流れる流れ」
「少し遅く流れる流れ」
「遠回りする流れ」
「真っ直ぐ進む流れ」
「途中で迷う流れ」
「途中で立ち止まる流れ」
Kは微笑む。
「でも」
一拍。
「どれも同じ海へ行く」
世界が静かになる。
ユウはその言葉を聞いて、
なぜか胸が苦しくなった。
何かを思い出しそうになる。
だが。
思い出せない。
Kは気づいていた。
そして。
あえて何も言わなかった。
その時。
空中に二本の川が現れた。
光の川。
一本は速い。
勢いよく流れている。
一本は遅い。
大きく蛇行しながら進んでいる。
だが。
不思議なことに。
二本は離れているようで、
時々触れ合う。
交差する。
影響し合う。
そしてまた離れる。
リクが呟く。
「別の世界か」
Kは頷いた。
「そうかもしれない」
「同じ世界かもしれない」
リクは苦笑した。
相変わらずだ。
答えになっていない。
だが。
なぜか納得できる。
Kは二本の流れを見る。
愛おしそうに。
本当に。
愛おしそうに。
「先に進む流れは」
「遅れる流れを照らす」
「遅れる流れは」
「先に進む流れを支える」
一拍。
「だからどちらも必要なんだ」
ミナはその言葉を聞いて、
初めて理解した気がした。
観測。
管理。
人間。
記憶。
忘却。
答え。
問い。
どちらかではない。
どちらもある。
だから世界は続いている。
その時。
二本の流れが、
一瞬だけ重なった。
完全に。
鏡が向かい合うように。
瞳に映る瞳のように。
そして。
その重なった場所で、
ほんの一瞬だけ、
無数の光が生まれた。
新しい世界。
まだ名前のない世界。
まだ語られていない物語。
Kは笑った。
「ほら」
ユウたちを見る。
「また始まった」
世界がほどける。
光が消える。
大樹が遠ざかる。
Kも。
名もなき者も。
見えなくなる。
最後に聞こえたのは、
Kの声だった。
「また会おう」
朝。
教室。
窓から光が差し込んでいる。
ユウは目を開けた。
夢だったのかもしれない。
そうではないかもしれない。
もう確かめようとは思わなかった。
後ろの窓際を見る。
空席。
誰もいない席。
けれど。
今日は少し違って見えた。
空っぽではない。
誰かを待っている席でもない。
そこにあるべき余白。
まだ語られていない物語のための席。
ユウは小さく笑った。
窓の外を見る。
風が吹いている。
世界は今日も不完全だった。
だから。
美しかった。
完
『記憶を失う前の約束』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
覚えていること。
忘れてしまうこと。
それでも、誰かともう一度出会い、続きを話すこと。
この物語を書きながら、約束は、記憶の中だけにあるものなのだろうかと考えていました。
言葉を忘れても、交わした時間が、その人の歩き方に残っている。
理由を思い出せなくても、誰かのために空けておいた場所が、そこにある。
そんな約束も、あるのかもしれません。
Novel Mandriaの一巡目では、人間の世界から、世界を見つめる観測界へと向かいました。
二巡目では、観測界から、人間の暮らしの中へと降りてきています。
上っていく物語と、降りてくる物語。
同じ顔をした人たちが、異なる記憶を抱え、異なる道を歩いている。
それぞれの世界は並行して存在しながら、ときに触れ合い、互いの流れを少しずつ変えていきます。
最終話に現れた二本の川も、そのような流れです。
そして、触れ合った流れは、いつまでも真っ直ぐなままでいられるのでしょうか。
相手の動きを受けて曲がり、離れたあとにも、その曲がり方が残る。
もう一度近づくときには、以前とは違う角度で出会う。
そうして、上る流れと降りる流れが互いに巻きつき始めたら。
その間を歩く人たちには、どんな景色が見えるのでしょう。
二巡目の三作目は、『地下の牧場 ― 疲れた牛はどこへ歩いていく ―』です。
呼吸を取り戻した牛の、その先へ。
そして、同じ場所を行き交う人たちの足音へ。
舞台は、地下へと移ります。
地下鉄に揺られ、いつもの駅へ向かう。
窓の向こうには、見慣れた暗がりが続いている。
けれど、その暗がりの奥から吹いてくる風に、ふと、どこかで触れたような懐かしさを覚えることがあるかもしれません。
どこで吹いていた風なのか。
どうして懐かしいのか。
思い出せないまま、少しだけ顔を上げる。
それもまた、記憶を失う前に交わした何かの、続きなのかもしれません。
この物語の最後に吹いていた風も、まだ、どこかを通っています。
別々の場所で生まれた小さな揺れが、遠くまで届く。
誰かが立ち止まったことで、別の誰かの歩く速さが変わる。
三巡目へ向かう物語は、そんなふうに、互いの気配を受け取りながら、少しずつ捩れていくのだと思います。
今はまだ、それぞれの道を歩いています。
けれど、いつか振り返ったとき、その道筋に一つの大きな流れが見えるかもしれません。
空いている席があります。
そこを通る風に、次の物語の気配が混じり始めています。
また、続きを話しましょう。
Stracchino




