エピローグ
私は、ここ最近ずっと違和感を覚えていた。ロルフが、夕刻になると姿を消すのだ。
休日だろうと平日だろうと関係ない。仕事を終えた頃になると、彼は決まってどこかへ行ってしまう。そして戻って来た時には、ほんのりと甘い香りを纏っていた。
最初は気のせいかと思ったが、それが何日も続けば嫌でも気になる。
「最近、夕方になるといなくなりますよね」
ある日、思い切って尋ねてみたものの、ロルフは「別に」と短く返しただけだった。同僚のレイトに聞いても、
「すみません。分かりかねます」
と首を傾げるばかり。ならばとユリウス伯にもそれとなく尋ねてみたが、返ってきたのは意味深に生暖かい視線だけだった。
――そんな反応をされたら、余計に気になってしまう。
そしてついに、私は決意した。尾行しよう、と。
◇
その日も仕事を終えたロルフは、周囲を軽く確認すると屋敷を出て行った。少し遅れて、私もそっと後を追う。
気配を消しながら尾行しつつ、私は自分自身に少し呆れていた。
……何をしているんだろう、私は。まるで浮気調査みたいだ。
けれど、足は止まらない。ロルフが誰か女性と会っていたらどうしよう。自分の知らないところで、誰かに笑いかけていたら。そんな考えが浮かぶだけで、胸の奥がざわつく。
独占欲。嫉妬。そんな醜い感情を、自分が抱くなんて思わなかった。自分で自分が嫌になる。
でも――確認せずにはいられない。
そんなことを考えていると、ロルフが街の商店へ入っていくのが見えた。物陰から様子を窺う。
すると彼が買っていたのは、異国の菓子だという“チョコレート”だった。さらに卵、牛乳、小麦粉、砂糖。次々と材料を買い揃えていく。
私は思わず瞬きをしてしまう。
……女性との逢引では、なかった。それだけで胸の重石が少し軽くなる。けれど、今度は別の疑問が湧いた。
なぜ、こんなにも隠れて?
◇
屋敷へ戻ったロルフは、周囲を警戒するように視線を巡らせ、そのまま厨房へ向かった。私もこっそり後を追う。
厨房の中では、ロルフが真剣な表情で調理を始めていた。慣れない手つき。ぎこちない動き。時折眉を寄せながら、慎重に材料を混ぜていく。
その姿を見て、私はふと以前の会話を思い出す。『料理は苦手だ』確か、そんなことを言っていたような。
……もしかして。克服しようとしているのだろうか。
ロルフは努力しているところを見られるのは好きではないだろう。だからこうして、人目を避けて練習していたのかもしれない。
本当に――不器用で、頑固で。そして、愛らしい人だと思う。
そして思わず口元が緩む。小さく漏れた笑い声。しまった、と気付いた時にはもう遅かった。
「何をしてる」
気付けば、ロルフが目の前に立っていた。鋭い視線が突き刺さる。
「あの、その……」
必死に言い訳を考えるも、だが頭が真っ白で、何も浮かばない。するとロルフの目がどんどん険しくなっていく。
その視線に耐えきれず、私はぽつぽつと経緯を白状した。話し終えた頃には、ロルフは心底呆れたような顔を見せる。
「俺がリュシアを裏切るわけないだろう」
「……すみません」
しゅん、と肩を落とすリュシア。そんな姿を見たロルフは小さく息を吐き、ぽん、と彼女の頭に手を乗せる。
「まあいい。詳しく説明しなかった俺にも非はある」
そう言って、彼は出来上がったばかりの菓子を差し出す。どうやらチョコレートケーキのようだった。甘く、それでいて少しほろ苦い香りがふわりと漂う。
「これを……ロルフが?」
「そうだ」
ロルフは少しだけ気まずそうに視線を逸らす。
「ずっと頑張ってきたみたいだからな。何か褒美でも与えてやりたいと思った」
その言葉だけで、胸がいっぱいになる。
ロルフと一緒にいるだけで幸せなのに。こうして優しさを向けられる度、胸の奥が熱で満たされていく。
本当に幸せで。少しだけ、怖い。こんなにも幸せでいていいのだろうかと思ってしまうほどに。
私はそっとケーキを口に運ぶ。瞬間、濃厚な甘さと微かな苦味が口いっぱいに広がった。
自然と頬が緩ぶ。
「……美味しい」
ロルフは表情を変えなかった。しかし目元が、ごく僅かに、けれど確かに緩んでいる。それだけで彼も嬉しいのだということは、ちゃんと伝わってきた。
あっという間に食べ切ってしまい、皿が空になる。満足感が体の中にゆったりと広がっていった。
甘いものをそれほど口にしてきた人生ではないけれど、それでも今食べたこのケーキは今まで口にしたどんなものよりも美味しかった。それはきっと味だけの話ではない。
ロルフがこっそりと何日も練習を重ねてきたこと、その不器用な一生懸命さ、そして私のためにという思いやり。そういうものが欠片ほど込められていると感じるから、こんなにも胸に沁みるのだろう。
満足げにしている私を、ロルフが覗き込んできた。そして黙って、私の頬へ指を向ける。
「付いてるぞ」
反射的に、鏡を探して辺りを見回す。するとロルフがその動きをそっと止めた
「取ってやる」
顔がどんどん近づいてくる。そして何をするのかと思う間もなく、柔らかな感触が頬に触れた。
頬への、口付け。そう理解した途端思考が、一瞬にして止まった。そして羞恥と衝撃が入り混じったような表情でロルフを見る。
するとロルフはゆっくりと距離を取り、どこか揶揄うような表情を浮かべて言った。
「追加の褒美だ」
しかし、その耳は真っ赤に染まっていた。彼は照れ隠しのように背を向け、そのまま厨房を出て行く。
残された私は、その場へへたりとしゃがみ込んでしまった。
心臓がうるさいほど高鳴り、体中に熱が巡っている。顔が赤くなっているのが自分でも分かる。立ち上がろうとしても、膝に力が入らない。そして頬に残る感触を思うたびに、鼓動がまた跳ね上がる。
ロルフと一緒にいる度に、幸福が更新されていく。好きが、どんどん大きくなっていく。このままでは、本当に好きすぎて心臓が破裂しまうかもしれない。
そんな馬鹿みたいなことを考えて、少し笑ってしまう。
ロルフと一緒に出かけたい。買い物に行ったり、旅に出たりしたい。二人でまた、夜空を見上げたい。抱きつきたい。キスをしたい。ずっと、ロルフの隣にいたい。
きっと楽しいことばかりではない。辛いことも、苦しいこともあるだろう。それでも。
二人なら、きっと乗り越えていける。そんな確信が、今はあった。
夕暮れの光がキッチンの窓から差し込み、石畳の床を橙色に染めていた。ロルフの足音はもう遠く、廊下の静寂だけが残っている。頬にはまだ、かすかに熱がある。
もうすぐ夕食の時間だ。でももう少しだけここで、この幸福の重さに浸っていたい。それくらいの我儘は言ってもいいはず。




