第3話
宿にいた炭鉱夫たちも、いそいそと仕事の準備を始める。今朝の賑わいが嘘のように沈黙が場に留まり、アンナは皆が出ていくと玄関の扉を閉めて鍵をかけた。また来られても困ると気まずそうに笑って。
「アンナさん。あのマクシミリアンという方は何者なんですか? とても、ただの商人のようには見えませんでしたが……」
目つきは悪いが、温厚な老人。そう映るのであれば善人だ。多くの場合はそうではない。マクシミリアンはひどい悪人にしか見えなかった。実際に彼を悪人だと言って、アンナは恨めしそうにこぼす。
「黒山羊の商会長さんだよ。みんな、あの人に借金こさえてんのさ。最近まではそうでもなかったんだけどね。採掘が軌道に乗り始めたくらいから、よくツルハシだの安全靴だのがぼろぼろにされちまってねぇ。そのたびに商会が道具を補填するから、そりゃまあ、あたしらの稼ぎは一切れのパンすら買うのに苦労するんだ」
黒山羊商会がやった、という根拠はない。証拠もない。ただ彼らは甘んじて今の状況を受け入れ、ときどきやってきては返済の催促をしてくるのを耐えるしかなかった。払えなければ働けとまで言われ、炭鉱に連れていかれることもあった。
衛生環境も最悪の中、体中の煤を落としておかなければ病気にもかかりやすい。ただでさえ長時間労働で体調も崩しがちだ。なのに無理やり連れていかれて、これまでに死人が出たケースもあるが、領主や商会がその責任を負うこともない。生きていても苦しいだけと絶望する者さえいる。
「ありがたいのは、炭鉱の近くに温泉が湧いてることかねえ。おかげで煤汚れなんか落とせるってんで、みんな着替えを持っていくんだよ」
「温泉か……。そりゃいいけど、誰も商会のことは探ったりしねえのか?」
イーリスの言葉に、アンナはぎょっとする。
「んなことできないって。あのマクシミリアンに逆らったら殺されちまうよ。陰口だって聞かれたらどうなるか……。この町は領主よりも連中の方が権力を握ってる。あたしらにはどうしようもないんだ」
逆らわないことだけが炭鉱の町で生きていく道。そんなふうに捉えるのが当たり前。サンドピットの現状には、さすがにイーリスもため息が出た。
「悪いな、色々と聞いちまって。そろそろ行くよ」
「朝飯はいいのかい?」
「ああ。ちょっと用事があるもんでね」
「残念だわ、時間があったらまた寄ってよ。サービスするから」
貧しい生活の中でも明るさを忘れないアンナを見ていると、立ち去るのが申し訳なくなる。それでもイーリスとユディットは宿を出て、寄り道をすることもなく黒山羊商会を目指す。
「うれしいよ、イーリス。君がその気になってくれて」
「状況の把握だけだ。どうにも変な感じがする」
「……変?」
ユディットが首を傾げる。イーリスが視線を落として顎を擦りながら。
「黒山羊商会の下っ端はどう考えてもチンピラだったけど、マクシミリアンはどうも種類が違う気がする。片方の話だけ聞いて断罪なんて馬鹿はしたくない」
自分の直感を信じてみよう、と思った。それだけだ。事実かどうかを確かめれば済む。マクシミリアンは厄介な人間であるという評価は変わらないが、だからといって話を聞かなかったり、頭ごなしに否定するタイプではない気がしたのだ。
黒山羊商会に着いてみると、随分と静かだったが入口は開いている。「誰かいないのか」とイーリスが呼びかけてみれば、入ってすぐの階段の先で、ひとりの男が様子を見にやってきた。カラムの傍にいた男だ。顔は青白く、視線も落ち着かない。ぶるぶると震えていて「魔女様、何か御用でしょうか」と尋ねる声は、今にも消えてしまいそうなほど歯切れが悪かった。
「マクシミリアンに会いに来たんだけど……まさか、忙しい?」
「あっ、い、いえ。もし会いたいと仰られたら通すように言われておりますので、問題ありません。こ、こちらです、どうぞ。ご案内いたします」
宿で会ったときとは打って変わって、ひどく弱々しい。案内されたのは二階にあるマクシミリアンの執務室兼応接室で、広い部屋には高級な家具は揃っているが、無駄な装飾などはない質素な造りだった。
ひとつ派手なことがあるとすれば、カラムが取り囲まれ、蹲っていたことだ。大柄の屈強な男が、今は子犬のように立つこともままならないほど震えて、あざだらけの体で呻き声をあげるので精いっぱいの状況だ。
「……なんだあ、こりゃ?」
「趣味が悪いな。イーリスに見せていいようなものじゃないが」
不愉快な視線を浴びせたユディットに、椅子に座って優雅に葉巻を切って吸い口を作る老紳士が、目を細めながら退屈そうに言った。
「部下の教育はいつだろうとやるべきだよ、お嬢さん。人前だからと甘やかしてなあなあにすると、この男はまた同じことをする。彼の更生の余地を奪ってしまっては可哀想じゃないか。そうだろう、ユディット・ヴァルトシュタイン?」
葉巻を咥えると部下が差し出したマッチを手に取り、火を点ける。ふわっと舞った煙を眺めながら、マクシミリアンは言葉を紡ぐ。
「私は私を裏切らない人間には寛容なつもりだ。最初の一回は見逃そう。二回目は警告しよう。だが三回目はそうはいかない。カラム君は用心棒としては役に立つ男だが、どうも聞き分けが悪い。派手にやるなと言っておいたのに」
ふーっ、と煙を吐く。蹲ったままのカラムに冷たく目を細めて、取り囲んでいた部下たちに指示を出す。残酷に、興味もなさそうな顔で。
「連れていきたまえ。壊すなよ。体格は悪くないから炭鉱で働かせれば、それなりにやってくれるだろう。最近はやけに道具の破損が多くて金にならんのだ。数人分は頑張ってもらわないと……そう思わないかね?」
連れていかれるカラムの懇願が叫びとなって響く。執務室の扉がぱたんと閉まり、遠のく絶叫を聞きながら、マクシミリアンは残酷に笑っていた。
「お前は魔女も恐れないって感じだな、マクシミリアン」
「魔女を恐れれば金が稼げるのかね。愉快な冗談だね、魔女殿」
葉巻を咥えて立ち上がり、窓辺に寄って遠くに見える炭鉱の景色を眺める。あくせく働いているであろう人の影が小さく目に映った。
「およそ君たちが聞きたがっているであろう真実は此処にはないよ。大人しく炭鉱の町を出たまえ。彼らに救いの手を差し伸べても良いことはない」
「助ける価値がないと仰るのですか?」
ユディットが咬みつく。マクシミリアンは下らないと鼻を鳴らす。
「貧しい者は貧しいままにしておきたまえ。彼らの胸の内に溜まった鬱憤を晴らすために利用されるなど目に見えている。大した善行も積まず努力もせず、ただ神が救ってくださると手を差し伸べられるのを待つなど傲慢だろう」
その言葉をイーリスは否定しない。むしろ理解すらできた。だが根底は全く異なる。善行を積もうと積むまいと、人間は神の救いを求めるものだ。そこまで傲慢だとは考えない。マクシミリアンとはすれ違いがあった。
「町の人間を借金なんて鎖で繋いでおいて言うことかよ?」
「不本意だよ。噂は聞いたようだが、道具の仕入れはこちらとて面倒だ」
やれやれ、と肩をすくめてマクシミリアンは苦い顔をする。
「最近になって頻繁に道具が壊れたと揃いも揃って言いに来る。わざとやっているのかと思ったが、調べさせたらそうでもない。何度か仕入れたが、また壊れたとやってくる。私としても迷惑しているんだよ」
最初のうちは構わなかった。壊れることは前提で道具は用意してあった。採掘は過酷な労働環境だ、必要になるときもあるだろう。────問題は、それが最近になって頻発していることだ。それが黒山羊商会には大きな痛手になった。
炭鉱での採掘による稼ぎで黒山羊商会は基本的に黒字だが、炭鉱夫の道具が壊されるようになり、何度も提供するが次の日には壊されている、というような事態が起きている。誰が何のためにかも分からず、最初は炭鉱夫を疑ったものの、彼らこそ食い扶持を失っては困ると商会に押しかけてきたのだ。
そこで調査も行ったが、夜になると視界も悪く、誰かがやったとまでは分かるのだが、いつもその足取りを追えなかった。何度も仕入れたところで日々の生活にすら苦しんでいる炭鉱夫たちが払えるわけもなく、借金ばかりが膨れ上がり、前借りさせて払わせれば、今度は労働力を削られることになる。彼もまた、頭を悩ませている事案で、早々に解決したい思いの方が強かった。
「毎度こんなことをしていては無駄な出費が嵩むばかりだ。採掘は過酷ゆえに、他所から労働者を引っ張ってくるのも楽じゃない。私としては好待遇で彼らを迎えているつもりだがね。温泉で汚れを落とす時間すら賃金が出るように契約まで交わしてやっているのだから。本来ならあり得ない話だ、分かるだろう?」
ただの悪人、というわけではない。与えるべきを与えておかなければ不満が爆発してしまう。その燻りを小さくするための施策で、労働者たちの環境をいくらか整えてやれば『少しは良くしてくれている』という認識を与えて、不満を抑えやすい。マクシミリアンの運営が、ただの支配環境でないことは確かだ。
「では、まだ犯人は見つかっていないのですね」
「その通り。彼らも我々も苦心しているところだよ。……あぁ、そうだ」
マクシミリアンは葉巻をつまんで、机にあった灰皿にそっと置く。
「せっかくだ、依頼でも受けてはもらえないかね。報酬は君たちの望むものにしよう。なに、今後のためと思えば安いものだ。如何かな?」




