エピローグ①
魔女が皇都を去ってから、瞬く間に日々は過ぎていった。テオボルド・ヴォイルシュ子爵とルッツ・ヴァルトシュタイン伯爵の共謀による多額の横領事件は魔女と、その護衛についていたヴァルトシュタイン伯爵令嬢の優れた慧眼と行動力によって暴かれた。多くの人々の記憶に刻まれた歴史に名を遺す事件だ。
それでも、しばらくすれば人々の興味は徐々に薄らいでいった。当然、その感心が消えたわけではない。彼らに待つのは国外追放という生温い刑罰では済まない。特にルッツ・ヴァルトシュタインに関しては、なおさらに。
一時逃亡に加えて、剣を奪って騎士団に危害を加えた罪がある。しかし、ヴァルトシュタイン伯爵夫人および、それに付き従っていた者たちには皇都の追放が命じられるに留まった。理由は殆どの人々には聞かされていない。ただ、知る筋によれば金貨の詰まった袋を持ち、ルッツ本人から『娘がそう願った』とだけ。
それが娘に対する最後の情だったのか、はたまた何かのやり取りを切っ掛けに考え方が変わったのか。いずれにしても、彼らに良い余生は残されていない。
「ふう……。これである程度は済んだかな」
大きなトランクに荷物を詰めて、壁に掛かった騎士の制服を見つめる男がいる。爽やかさに満ち溢れ、今までよりもずっと自然に笑えるようになった。
ネクタイをきゅっと締めて、町を出歩くときの普段着で部屋を出た。周囲が驚く視線の中を堂々と歩き、向かったのは第三騎士団の執務室。厳格で冷徹とまで言われているエーバーハルト公爵が、毎日のように忙しくしている。
「失礼します、公爵閣下。ご挨拶に伺いました」
執務室の扉を開けて覗き込むように顔を出す。
「知らぬ仲でもあるまい。遠慮せずに入れ、話でもあるんだろう」
「はは、これは申し訳ない。ご息女を想えば私は気に入らないかと」
「騎士をやめるから後ろめたいのか?」
「いえ。自分で決めたことですから、さほど後ろめたさはないですよ」
社交辞令の笑顔が、いつもより嬉しそうに言った。ヴェルターは作業の手を止めて、椅子にぎいっと体を預けてひじ掛けに腕を乗せる。
「あの二人が出て行ってから二週間だ。皇帝陛下も、お前を惜しく思って留めようとしたが、そのお考えも虚しいものだな。まったく響かなかったらしい」
「ハハハ! 致し方ありません、魔女は人を惑わせると言いますからね!」
イーリスの影響力は強大だ。これまで動きもしなかった城内の空気を、がらっと入れ替えてしまったのだから。自分の責務を果たそうと努めてきた騎士の心を溶かし、さらには仮面を被り続けてきた男が素顔を晒すほどに。
「それで、ハイデマリーにはもう話を?」
「実はまだ言い出せていなくて。ご息女のことですから、まずは父君であらせられる公爵閣下にお伺いを立てるのが義理かと思いまして」
馬鹿馬鹿しい、とヴェルターが天井を仰いでため息を吐く。
「クラウス、俺はただの親に過ぎない。娘の手綱を握り、その人生を都合よく操るほど下卑た趣味など持っていないつもりだが?」
「……ええ、存じております。ですが、それを聞いて安心したかった」
紛れもない安堵を見て、ヴェルターはクラウスを哀れに思う。
「そういう生き方しかしてこなかったのか。お前もユディットも似た者同士だな、互いに気遣っているように見えたが、なるほど。理解できたよ」
与えられた好きでもない剣を握りしめて戦い続けることの、なんと虚しいことだろうか。騎士であるから、貴族であるからと理由を付けては本来の自分を覆い隠して、苦痛も笑顔で誤魔化してきた。それに気付けば、あまりにも痛々しい。
「閣下もお若い頃はそうだったのではありませんか?」
「まさか。俺は好きで今の地位にいる。まあ、仕事に縛られる退屈はあるが」
一瞬、書類の山に視線を移して、フッと笑う。
「俺もどちらかと言えば模範的な貴族に近い人間だった。自分の生き方を疑ったことはないし、それを嫌だと思ったこともない。ただ、愛すべき女に恵まれて、子供が生まれると考え方も色々と変わるものだ。男としても、親としても」
エーバーハルト公爵家はどの家門よりも長い歴史を持ち、皇家に仕えてきた。その歴史を重んじるのは誇りであり、ヴェルターもまた『優れた人間ほど堕落しやすいものだ』という言葉に従って生きている。与えられた地位や名誉に甘えて、剣の握り方すらろくに覚えられないようではエーバーハルトの恥だと。
そんな考え方から逸脱しているのが、ヴェルターの妻である。長い貴族の歴史から見て、初の平民出身の女性だった。考え方が違うのは当然で、しかしその気の強い立ち振る舞いにヴェルターは惚れ込み、貴族としての在り方を見つめ直すようになった。今の自分があるのは妻のおかげだと、今も強く信じ愛している。
「俺たちは子供にあまり恵まれず、ヴァルトシュタインと同様にハイデマリーという娘しかいない。いつかはお前に公爵位を譲りたかったのだが」
「申し訳ありません。ですが、これも自らを見つめ直した結果です」
クラウスが深く頭を下げると、ヴェルターは嫌そうに眉間にしわを寄せた。
「謝罪は求めていない。さあ行け、ハイデマリーと話をするんだろう」
「……ええ、ですがその前にご報告もありまして」
「報告? まさか、子供でもできたと言うわけではあるまい?」
「ははは、ご冗談を。ただ、私は爵位を返還したのです」
クラウスは満足そうな微笑みを浮かべて言った。
「よってヴィンケルマン領はエーバーハルト公爵家に帰属するものとなります。既に皇帝陛下に進言し、許諾も得ております」
「余計なことを……。わかった、近々そちらに訪問しよう」
自分の領地の運営だけでも面倒なのに、第三騎士団の仕事まで山積みだ。そんなところへヴィンケルマン領まで与えられるとなると、余計な手間ばかりが増える。他の誰かに任せるにしても、手配が進むまでは忙しくなると頭が痛くなった。
「その代わりと言ってはなんだが、あまり娘を悲しませないでやってくれないか。あれでも大切にしてきた娘だ。お前に求婚していたと知ったときは、その首を切り落としてやろうかと思ったこともある。それでもあいつが選んだ男ならと我慢しているだけだということを忘れてくれるなよ」
本気なのだな、と鋭い眼差しにクラウスは小さく頷く。
「当然です。こんなことを堂々と言えば安いと言われるやもしれませんが、私とてハイデマリーを愛して選んだのですから。……空虚だった騎士としての生き方を受け入れられたのも彼女のおかげだと、心の底からそう言えます」
真剣な眼差し。いつもの軽い笑みの中にある。ヴェルターはそれが腹立たしくも認めざるを得なかった。この男らしい、と。
「まったくイーリスめ、いなくなっても引っ掻き回してくれる……」
「退屈しない方でしたよ。今頃はどこで何をしているのやら」
「知ったことか。戻ってきたら苦情を叩きつけてやる、あの女」
ヴェルターがイライラし始めたのを見て潮時だと察した。今、この場に留まれば愚痴大会が始まるのは目に見えている。丁度戻ってきた第三騎士団の部下たちを見て、クラウスはニコリと小さく会釈をした。
彼らが状況を理解するまでに三秒も掛からない。すぐに青ざめた顔で、行かないでくれと首を横に振っていたが、それに付き合うほどクラウスは優しくない。
「では失礼します、皆様。そういえば少々空気が濁っているようですから、換気を忘れずに。────陰ながら応援していますよ。それでは、また」




