第18話
皇帝は年老いてしまった。その席を後進に譲ろうという歳まで生きてきた。多くの罪を断ち、多くの命を奪った。敬意と威厳に生きてきたのだ。王冠は鈍く輝き、手は汚れきっている。せめて思い出くらいは美しくありたいとジーモンは願う。
「アタシは流れ星じゃないんだ、願っても叶わないよ」
「ホッホッ、それは残念だ。明日も来てくれるのだろう?」
「あぁ、もちろん。楽しくなりそうなんでね」
「また何かを企んでおる顔だな。まあ良い、今日は来てくれてありがとう」
イーリスは挨拶が済むと、ジーモンの笑顔に背を向けた。
「じゃあな、爺さん。また明日」
ほんの少しは寂しい気持ちもある。ジーモンは生まれたときから知った顔だ。自分は老いず、彼だけが死へ向かって歩いている姿はどこか切なかった。
会場をあとにして、ユディットに案内を任せて自室へ向かう。テオボルドを馬鹿にするつもりが、思わぬことで気持ちが沈んでしまい、足を止めた。
「ユディット。部屋までの道は分かるから、今日はもういい」
「……? ですが、護衛は必要です。何かあれば責任問題に……」
「お前は本当に堅苦しいな。今度は本当にただの散歩だぞ?」
「ええ、ついていきます。お独りは寂しいでしょう」
わざとらしく微笑むので、イーリスはぐぬぬ、と唇をかむ。
「お前がアタシをからかうまでの歩み寄り方が早すぎる」
「元々、こうで愉快な性格だとは思っているのです」
「実に愉快で退屈しないよ。間違いなくアタシ好みではあるさ」
自室へ戻るのを取りやめて、道を変えて城内を歩く。すれ違う第一騎士団の何人かと軽い雑談を交わすと、第二騎士団の苦言に喧嘩が起きそうなので離れた。いつもこんな空気なのかとイーリスは呆れる。
「よくもまあ、騎士同士でああも喧嘩ができるよ。派閥じゃあるまいに、栄えある皇国騎士団が纏まるどころかいがみ合ってるとはね」
「皆、譲れないものがあるのです。……おや、何か聞こえませんか?」
ふとユディットが足を止めて耳を澄ませる。イーリスも、中庭から微かに聞こえてくる声に反応した。最初は草木の擦れ合う音だと思ったが、そうではない。確かに声がしていて、それは怒りを含んだものだった。
「ユディット、こっち。アタシの手を握れ」
「え、はい。こうですか?」
「いだだだだ! 握り潰せとは言ってないだろ!」
「す、すみません……! 加減が下手で……!」
危うく骨が折れるところだった。涙目で睨みつつも仕切りなおす。
優しく手を握りあい、イーリスが指を鳴らした。
「アタシたちの周囲の音を消した。喋っても気付かれる心配はないし、足音も分からない。ただ、見えたら台無しだからデカい図体で覗き込むなよ」
「承知いたしました。しかし、いったいどこの誰が話しているのでしょう」
見てからのお楽しみだとイーリスがワクワクして近付いていく。
「おいおい、嘘だろ?」
思わず目を見張ってしまった。そこにいるのはルッツとテオボルドの二人だ。しかも、かなり空気が悪い。あのテオボルドが、子犬のように縮こまっていた。
「言ったはずだぞ、些細でも問題は起こすなと! 貴様がああも間抜けな行動を取れば、おのずとヴァルトシュタインの名を汚すとなぜ理解できん!?」
「も、申し訳ありません……。まさか皇帝陛下が庇われるとは思わず」
言い訳するテオボルドに迫り、ルッツは胸を突いて怒鳴った。
「品格は行動に出るのだ、公に顔を晒しているときくらい常識を纏ったらどうだ!? 歴史だけの家門の分際でユディットをくれてやると言ったら、私の方が格下にでも見えたか、この間抜けが! 貴様のような名だけの家門とは違うと忠告した意味が分からなかったのか!」
会場でのテオボルドの失態は目に余る。それはイーリスから見ても納得だ。ルッツが怒り狂って荒れるのも理解できた。他の貴族たちは『酒の飲み過ぎだ、あれでは平民のようではないか』と汚いものを見る目を向けていたのだから。
大した話ではなかったとイーリスとユディットは引き返そうとして────。
「この愚か者め。ただでさえギャンブルなぞに傾倒しおって頭を悩ませているというのに、情けないと思わないのか。お前の失態がヴァルトシュタインの恥となるのだぞ。少しは慎重に動け」
「それは心配に及びません。ご指南頂いた方法で金を集めております」
思わぬ会話が聞こえてきて、イーリスたちはまた聞き耳を立てる。ルッツは呆れながらも、テオボルドの言葉に納得して襟を正しながら。
「やり過ぎてはいないだろうな。ツッカークランツで借金を増やしているという報告もある。私が教えてやったのはその場しのぎの回収手段だ。何度も繰り返していれば誰かに目を付けられてもおかしくない」
「問題ありませんよ。我々の訓練場には誰も入れませんから」
自信満々なところが心配だ、とルッツはため息を吐く。とはいえ、実際に長く誰の介入も許していない以上、その言葉を信じざるを得ない。
「警戒だけはしておけ。エーバーハルトの介入を許せば、お前の首は間違いなく広場でカラスの餌にでもされるだろう。奴らの権限は皇帝に次ぐと言っても過言ではない。特に現エーバーハルト公爵は恐ろしい人間だ、くれぐれも敵に回すな」
話が終わって二人が中庭を立ち去るのを待ち、イーリスは静けさが広がったところで魔法を解く。とんでもない話を聞いたなとユディットを見たとき、彼女が怒りにわなわな震えているのを見て言葉が出てこなかった。
「……ユディット」
「分かっています。ですが、これは……信じたくない」
実の父親なのだ。暴力による支配があってもなくても、ヴァルトシュタインの名を冠する立派な騎士の出身であるのは否定しようがない事実だと信じてきた。たとえ恐ろしくてもそれが騎士の使命だと自分を奮い立たせてきた。
正しさを愛し、国への忠誠を誓う。民を守り、悪を裁く。騎士とはそうあるべきで、にも拘わらずルッツは家門を守るために、あろうことか不正に手を染めていたのだ。ユディットは自分を守ってきた何かが、音を立てて崩れた気がした。
「私の……私の信じてきたヴァルトシュタインとはいったい……?」
たとえ辛くても。嫌なことがあっても。自分は誇りと誉れに輝くヴァルトシュタインの騎士として生きるのだと顔をあげて、苦痛に耐えてきた。今は、その名を聞くだけで吐き気すら催してしまう。
「まあ、気にしなくていいんじゃねえの」
「気にしなくて……っ、イーリスには分からないでしょう?」
貴族でもないくせに。足枷もないくせに。背負うものもないくせに。そんな黒い感情が胸の中に渦巻き、絶望の中でもがく苦しさを知らない魔女に毒を吐く。
わざとではない。だから、ハッとして口を押さえたが、出て行ったものは戻ってこない。やってしまったと後悔する。だがイーリスは気にも留めない。
「お前、踏み潰されて泥まみれのパンの味を知ってるか。ありゃ最高に不味い。砂粒ごと飲みこんで、のたうちまわったことないだろ。でも生きてる。だから気にしなくていいんだよ。なんかこう、生きてる限りはなんとかやっていけるもんさ」
背中をバシバシと叩いてイーリスは笑う。慰めるでもなく、ただそんなことがあったと思い出を可笑しいことだと話して。
「生きてりゃ死にたくなるほど苦しいことなんざ、いくらでもある。たとえヴァルトシュタインが誤りの歴史そのものだったとしても、お前の二十数年は間違っちゃいねえよ。アタシが、魔女イーリスが保証する。だから、」
ユディットの大きな手をぎゅっと握り、引っ張って歩き出す。
「もっと笑って気楽に行こうぜ? アタシが見せてやるよ、最高の景色を」




