ある運送会社の喫煙室での会話
「禁煙しようかな」
気がつけば口が勝手に動く。もう何回目だろう、この台詞を吐くのは。
「また言ってんすか。いつもそれ言ってるけど、やめる気ないでしょ」
何回目だろう、この生意気な台詞を吐かれるのは。ちらりと横を見ると、消えていく煙をぼんやり眺める若造がいる。喫煙室は二人ぼっち。否定できないおれは「うるせぇ」とだけ言って新しい煙草に火をつけた。
煙草休憩。それはおれにとってはなくてはならない時間だ。
仕事に対するモチベーションが常にゼロのおれにとって唯一の心のオアシス。もう仕事なんてせずにずっと喫煙室にいられたらいいのにとも思う。いや、正しくは思っていた。五月になるまでは。
五月。山崎がいなくなった。山崎とは同期入社だ。入社式の時に隣の席だったことがきっかけでおれたちは仲良くなった。業務スキルが同じぐらいだったおれたちは、違うエリアで働いていたものの、ゆるゆるとほぼ同じペースでキャリアを積み重ねてきた。
四年前にたまたま同じタイミングで同じ営業所配属となり、山崎が事務部門のマネージャーに、おれが営業部門のマネージャーになった。その時二人で盛大に祝いあったのはいい思い出だ。あいつもおれも愛煙家のため、毎日一緒に煙草休憩をとっていたんだが、その山崎が五月の連休明けに消えた。
会社を辞めたとかでなく、捜索願が出される完全な行方不明。おれと違って既婚者で子どももいる山崎が、家族にも何も言わずゴールデンウィークが明けて何日かした頃に消えてしまった。
行方不明になった当初は業務上の不祥事、もしくは不倫による失踪疑惑が社内のあちこちで囁かれていた。でも、失踪から一カ月経った今ではどちらの可能性も低いことがわかり、社員の多くが興味を失いつつあった。突貫で決まった山崎の後任マネージャーもようやく仕事のペースを掴んだようで、事務部門の混乱は少しずつ終息に向かっている。
山崎が行方不明になった時、おれはというと最初から不祥事も不倫も疑ってなかった。そもそもあいつはそんなことをする人間じゃない。あいつはいいやつなんだ。それに行方不明の原因はたぶん例の件だと思う。
「これ、かなりやばい案件だったかもしれない……」
四月末、煙草休憩中に山崎が言っていた。『これ』というのは、うちの営業所によくかかってくるクレーム電話の内容のことだった。
クレームの内容は、うちの不在通知に似た迷惑メールが届いたり、本物そっくりの不在票がポストに入っているというもの。しかも、うちの制服を着た男が家まで来て、インターフォンを鳴らしまくって帰るらしい。
そりゃそんなことをされたらクレームを入れたくなるかもしれない。でも、それ絶対うちじゃないだろ。自分の勤務先にクレームが来ることをわかって、わざわざそんな迷惑行為をするバケモノみたいな人間なんていねぇよ。とはいえ、クレーム主にうちは関係ないなんて言えるはずもなく、電話を受ける事務部門のスタッフ達が疲弊していた。
このクレームの話は煙草休憩の時にちょこちょこ山崎から聞いていた。くそ面倒な話だなと思いながら聞いていたんだが、あいつはこの件について色々と気になることがあるみたいだった。
全ては教えてくれなかったけど、ちらっと聞いたのはクレーム主のところ入っていた偽の不在票の担当者欄に『村上』の名前があったらしい。
よくある名前だからスルーしていいような気もするが、村上という名前の配達員は実際にうちの営業所にいた。しかし、村上は去年配達中の事故で既に死んでいる。
もし迷惑行為をしているやつがうちの営業所に村上という社員がいたことを知っていたとする。尚且つ既に死んでいることまでわかった上で村上の名前を使っているとしたら、そいつは相当いかれている人間に違いない。
おれはわざわざ厄介ごとに関わるなと忠告したんだが、山崎はどうしても気になるようだった。おれの忠告を無視したあいつは、「真相がわかったら教えてやるよ」とよく言っていた。
真相なんて興味がないおれは、山崎の調査がどこまで進んでいたのかはわからない。でも、どうやらあいつはへまをしたようだ。四月末の金曜日、喫煙室に入って早々「おれはミスったかもしれない」と山崎に言われた。
目の下に大きなくまを作った山崎。あいつは、誰が何のためにうちの配達員のふりをして迷惑行為をしているのか調べた結果、どうもやばい案件だと気がついたみたいだった。おれのことを気遣ってか詳細までは言わなかったけど、「酒田が言う通り関わらない方が良かったのかもな……」と言っていた。
山崎の様子が普段と違っていたので、おれはちょっと心配になっていたんだが、その矢先の行方不明。あまり考えたくはないけど、山崎の行方不明の原因は、うちに扮した迷惑行為をするいかれ野郎のことを調べたからじゃないかと思っている。
「酒田さん、酒田さん。火を貸してもらえません?」
山崎のことを考えていると、隣の若造に声をかけられた。
「え、またかよ……」
おれは仕方がないのでライターを貸してやった。
「佐伯、お前ライター忘れすぎだろ。もうやるよそれ。おれライター二個持ってるし、百均のだから気にせず持っとけよ」
昨日も一昨日もその前もたぶんライターを貸した気がする。別に貸すのは嫌じゃないけど、おれがいない時に吸えないのは可哀想な気がして。なのに佐伯は「いやいや、いいっすよ。大丈夫っす」と言って笑いながらライターを返してきた。
佐伯が喫煙所に来るようになったのは最近のことだ。山崎が行方不明になり、喫煙室で一人で休憩しているとふらりとやってきた。
ちょうどその時おれは山崎のことが心配で頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。でも、それまで喫煙室で見かけたことがなかった人物の登場に、おれの意識はそっちに向いた。
名前は知っているけどあまり話したことはない。顔の整った若造で去年亡くなった配達員の村上と仲が良かったはずだ。村上の事故の後、たしか一週間程休んでいた気がする。休みの理由は知らないけど、その後は普通に働いている。おれの中ではその程度の認識だった。あと煙草を吸うのは知らなかった。
佐伯はおれと対面する位置に立ち、慣れた手つきで煙草を吸っていた。でも、不思議と佐伯の煙草を吸う姿を見ていると「不味そうだな」と思った。その理由が表情なのか雰囲気から感じるのかはわからない。ただ、美味そうには見えなかった。
「あんまり考えない方がいいっすよ」
なんで不味そうに見えるんだろうと思っていると、佐伯に声をかけられた。おれはびっくりして、「すまん、でもそんなに不味そうに煙草を吸うやつをあまり見たことがなくて……」と、素直に謝った。
おれの謝罪に佐伯はぽかんとした表情になり、そしてすぐ笑い出した。
「そっちじゃないっすよ。山崎さんのことっす。さっきまでめっちゃ考えてたでしょ?」
おれは自分の勘違いに思わず赤面した。なんだそのことかよ。おれは舌打ちしたくなった。でも、なんでこいつにそんなことを言われなきゃいけないんだ? と気になり佐伯を見た。すると佐伯はまっすぐにおれを見ていて、おれが口を開く前に話し始めた。
「やばすぎるんすよ。あれは関わりを持つだけで危険っす。山崎さんのことが心配かもしれませんが、踏み込み過ぎたら酒田さんも引っ張られちゃいますよ」
何言ってるんだ? おれには佐伯の言っている言葉の意味がわからなかった。でも、わからないけど、何を伝えようとしてくれているのかは感覚的にわかった。
「なあ、村上が死んだのもこの件に関係があるのか?」
佐伯が『酒田さんも引っ張られちゃいますよ』と言ったことにおれは引っかかっていた。引っ張られるという言葉の意味はわからない。でも、普通に考えて山崎は引っ張られたんだろう。しかし、引っ張られたのは山崎だけなんだろうか? 山崎から聞いた話に村上の名前が出ていた。関係ないかもしれないけれど、もしかしたら村上も? おれは気になった。
佐伯はおれの質問に対してただ苦笑いをしただけで肯定も否定もしなかった。そしておれから視線を外すと独り言のように「煙草、久々に吸いたくなったんすけど、やっぱ不味いっすね」と言ったが、煙草の火を消すことなく吸い続けていた。
あの日以来、おれが煙草休憩をしていると佐伯によく会うようになった。山崎との煙草休憩のように会話が弾むことはない。でも、何故か佐伯はわざわざおれの隣で不味そうに煙草を吸う。最初は変なやつだなあと思っていたが、今では煙草休憩の時に佐伯が来ないと物足りなさを感じるから不思議だ。
何気なく隣を見ると、佐伯がポケットからライターを取り出して煙草に火をつけていた。佐伯のライターは明らかにブランドのもので、くすみを帯びたシルバーカラーがお洒落だった。
「おい、お前ライター持ってんのかよ! しかも絶対高いやつだろそれ」
「ライター忘れたなんて一言も言ってないっすよ」
おれの非難に対して佐伯はにやにやしながら生意気を言いやがった。こいつ、おれを舐めてやがる。腹が立ち灰を落とす動作が無意識のうちに乱暴になる。
「酒田さん、山崎さんのことばっかり考えてると、まじで危ないっすよ」
隣でぼそりと声がした。二人ぼっちの喫煙室。換気扇の音に紛れながらも声の中にどこか寂しさを感じた。
「わかってるよ、お前に言われなくても……」
おれは見られなかった。今、佐伯がどんな顔をしているのか、おれには見る勇気がなかった。
おれは何もわからない。山崎がどうなったのかも、村上の死と山崎の失踪の関係も、佐伯が何を知ってるのかも。おれがわかっているのは、そのどれをおれが知ろうとしても危ないということだけだ。
ちびた煙草を灰皿に捨てる。でもまだなんとなく仕事に戻る気持ちになれなかったおれは新しい煙草に火をつけた。
佐伯のお洒落なライターを見たせいだろう。チープなデザインの百均ライターを見ていると新しいライターが欲しくなった。子どもっぽい思考の自分に対して思わず笑いたくなる。
「禁煙しようかな……」
吐き出した煙の後を追うように、言葉が勝手に出ていった。独り言にしてはでかい独り言だった。おれが気まずくなって黙っていると佐伯が鼻で笑った。
「さっきも言ってたけど、どうせやめる気なんてないでしょ?」
隣を見ると不味そうに煙草を吸いながら佐伯が小さく笑っていた。