この世界の終わり Ⅷ
「聞いた?607号室の神倉さん、過労で倒れて緊急搬送だったんだって」
「聞いた聞いた。怖いよねぇ、神倉グループの御曹司だからって甘やかされる訳じゃ無いのね」
「ほんとほんと、でも過労って軟弱すぎじゃない?私達みたいな看護師の方がよっぽどサラリーマンより忙しいんだけど」
「ほんとそれ、あーこの後の回診マジめんどいわー」
「すみません……通してもらっていいですか?」
廊下を塞ぎ口をこぼす看護師二人に、俺はそう口を開いた。
「あ、あぁごめんなさい!ついうっかりしてました!」
「すみませ〜ん」と焦った様子で看護師達は廊下の奥へと消えて行った。
なんだか申し訳ない事をしてしまったみたいだ。
「それにしても過労で病院搬送か……俺も気をつけよう」
さっきの看護師達から漏れ聞こえた事を思いながら、俺は目的への場所へと歩く。
階段を登り、5階へと上がる。
エレベーターを使わないのは俺なりの健康志向だ。それと、彼女に会う為の心の準備でもある。
こうしてこの病院に通うようになって、もう半年の月日が過ぎたというのに、まだ妙な緊張感があった。別段何か怒られるような事をする訳ではないが、彼女と会う時は胸が高鳴るというか、緊張してしまう。
「…………」
階段を登り切ってすぐ、目の前にある501号室の前で俺は一度立ち止まり、深く深呼吸する。
「……よし!」
俺は覚悟を決めると、ゆっくりスライド式の扉を横へと開ける。
「こんばんは。三日月さん」
俺はそうベッドの上で眠る三日月弓流さんに一礼する。
彼女は先週来た時と一寸変わらず同じ姿勢、同じ表情で静かに眠っていた。
「……⁉︎」
俺が入って来たのに気づいた瞬間、先に病室にいた星空さんが机の上にあった紙を慌ててポケットへと隠した。
何か見られたくない物だったのだろうか。
「またキミか、歩夢くん」
星空さんが訝しげに俺を睨んだ。
「はは、ごめんなさい。何度もおしかけちゃって」
「別に構わないよ。弓流も私とだけ話しているのも飽きているだろうしね」
と言って星空さんは嬉しそうに微笑んだ。
「だがキミはいいのかい?貴重な10代の夜を、こんな辛気臭い病院なんかで過ごして。それにキミの両親より歳上の私では、話も合わないし面白くないだろう?」
「いえ、そんな事ないですよ。星空さんと三日月さんの二人といると、俺は心が落ち着くんです。だからこうしているだけで満足です」
チラリと三日月さんの方を見る。
彼女は人工呼吸器に繋がれ、いつもと変わらない一定のリズムで呼吸を行っていた。
「全く、本当に不思議な奴だよ。キミは。職業柄色々な面々とは出会って来たつもりだが、キミのような子は初めてだよ」
「弓流もそう思うだろう?」と星空さんが三日月さんに向かって問いかける。
「…………」
当たり前の事だが、三日月さんから返事は返ってこない。
けれど、
「弓流も『そうだ』と言ってるよ」
「な……本当ですか三日月さん⁉︎酷くないですか?」
俺のその返事に「ははは」と星空さんが笑う。
この半年、変わったのは玲美との関係だけでは無い。
この三日月弓流を中心とした星空さんと俺の関係も変わった。
俺は週に一回、三日月さんのお見舞いに来るようになった。
何故だか自分でもよくは分からないけれど、どうしてか三日月さんの隣にいると気持ちが落ち着くから無理やり押しかけている。
星空さんはいつも軽口を叩きはするが、すぐに嬉しそうに招き入れてくれる。
星空さんはこの近くの高校で非常勤講師をしている。三日月さんの義理のお姉さんだ。
元々は普通に教員として今の高校に勤めていたらしいのだが、12年前に三日月さんが病気で目覚めなくなってから、少しでも三日月さんの側にいられるようにと転身したらしい。
「そういえば今日初めて知ったんですけど、俺の友達が1000年に一度の天才サッカープレイヤーだったみたいなんですよ」
三日月さんに会いにきたからって、何か特別なことがあるわけじゃない。俺と星空さんはいつもこうして他愛無い話をするだけだ。
だがその他愛無い会話が心地よく、いつの間にかこうして過ごすようになっていた――
そうしてしばらく経って話が一旦落ち着いたところで、
「そういえば、さっき隠したのは何だったんですか?」
と俺は星空さんに切り出した。
その問いかけに、難しそうに星空さんは顔を顰めた。
「キミ、デリカシーが無いって言われないかい……?」
「言われますよ。特に星空さんに」
「フッ、そうだったな」
そう言って鼻を鳴らすと、星空さんは先程にしまった1枚の紙を取り出した。
「これだよ」
そう言って手渡されたその紙を俺は見る。
「ドナー提供申請書……?」
その用紙に書かれていたタイトルを読み上げると、星空さんはゆっくりと頷いた。
「前々から医者には勧められていたんだ。『弓流の命を、誰かの為に使う気はないですか?』ってね……」
遠くを見つめる様に星空さんは話す。
「神経萎縮性鈍化睡眠症なんていう大層な学名を付けられているが、医学的にはもう脳死判定なんだそうだ。治療法の無い病気であるからこそ、もしかしたら目覚める可能性もあるかもしれないが、それは10年後かも知れないし、50年後なのかも分からない――あまりにも不確定なものなんだ」
「だから三日月さんにドナー提供のお願いを……」
「あぁ」と星空さんは頷く。
「細胞劣化の関係で、臓器を提供出来るのは20代の間までらしいんだ。だから来月で三十路になる弓流に最後通達って形で、さっき渡されてな……」
「そんな事が……」
横で眠る三日月さんを見つめる。
彼女はいつもと変わらず、人工呼吸器によって息をし、心臓を動かしていた。脈拍はいつもと変わらず70の一定のリズムを刻み、メーターが音を刻む。
医学的には脳死――星空さんが言う様に、本当に三日月さんが今後目覚める可能性は限り無く低いのだろう。だからドナー提供を促す医者の気持ちも分かる。
三日月さんの臓器で助かる命があるのなら、それは星空さんの気持ちを救うことにも繋がる気もする。けれどそんな事、頭でわかっていても簡単に割り切れるものじゃない。
「もちろん分かってはいるんだ。そうした方が正しいって事は……」
星空さんも俺と同じ考えの様だった。
悔しそうに奥歯を噛み、眠る三日月さんの顔を見た。
三日月さんはいつもと変わらず、人工呼吸器による規則的な呼吸音を響かせる。
「この病気と診断されて、二十歳を超えて目を覚ました前例は無い。弓流も随分前に脳死の判定を受けた。もう奇跡でも起こらない限り目覚めるなんてことは無い。頭では分かってはいるんだ……ッ!」
「けど……」と話す星空さんの頬を、一雫の涙が伝った。
「ドナーとなってしまえば――そうしたらもう、私は弓流の顔を見る事が出来ない。一方的なんだとしても、こうして弓流と話をする事が出来なくなってしまうんだ……!」
両手で項垂れるように顔を覆い、星空さんは悲鳴をあげた。
白髪混じりの長い黒髪が、ひどく疲れた様に見える。
「弓流は人工呼吸器が無ければ自分で呼吸も出来ず死んでしまう。もしかしたら弓流は生きて欲しいと願う私の気持ちとは正反対に、死にたいと思っているのかも知れない……」
「けれど……」と星空さんは声を震わせ、涙ぐんだ。
「けれど私は、弓流の命が終わってしまう事が自分が死んでしまうのではないかと思えるほど恐ろしく、怖いんだ…………この10年、私は弓流の為だけに生きてきた。弓流がいなくなってしまえば私はどうすればいい?そう疑問を持ってしまうと、私はこの紙にサインを書く事が出来ない」
今まで堰き止められていた感情が溢れ出し、星空さんは泣き叫んだ。
「だから弓流を生かしているのは、私が一人になりたくないという願いを満たす為のエゴなんだ。酷い奴と罵ってくれ……」
「そんな事しませんよ……」
星空さんの顔は、憔悴しきっていた。
いつもニヒルで大人な余裕を感じる星空さんが、そんな風に自虐的に笑うのなんて初めてだ。
「俺は、どれだけ星空さんの気持ちに寄り添っても部外者でしかない。だから星空さんの気持ちが分かるなんて事は思いません」
ハッキリと俺はそう伝えた。
生半可に同意しても、きっといたずらに星空さんを傷つけてしまうと考えたからだ。
けれど、部外者なのだとしても――寄り添う事が迷惑なのだとしても、どうしても伝えたい事があった。
「けど俺は、星空さんが三日月さんのドナー提供書にサインしないのは、きっとエゴなんて酷い物では無いと思うんです。それはきっと、三日月さんと一緒に三日月さんと生きていきたいっていう“愛情”なんだと俺は思います!」
「エゴじゃなく、愛――」
星空さんは俺の瞳を真っ直ぐに見据える。
ふいに一雫が瞼から溢れ、星空さんの頬を伝った。
「そんな風に言ってもらえるなんて、思いもしなかったよ」
「俺も妹がいますから、きっと俺の妹が三日月さんと同じ状況なら、俺も星空さんのように迷って苦しんでいると思います。だから、そんなに自分を責めないでください」
「ありがとう。歩夢くん……」
星空さんは鼻を啜ると、恥ずかしそうに俺から顔を逸らしハンカチで涙を拭った。
「キミは本当に優しい青年だ。歳がもう少し上だったら、弓流の婿に欲しかったよ」
「ははっ、それは光栄です」
そう笑う俺に、星空さんも笑い返した。
その時だった――
「退いてください。急患です!」
突然、廊下の方から医者の叫び声と共に、何人もの人間が走る足音が響いた。
「神楽崎さん!神楽崎真直さん聞こえていますか!」
ストレッチャーに乗った患者へ医者が必死に呼び掛けながら、廊下の奥の方へと走って行ったのが、少し空いた扉の隙間から見えた。
「急患か……心配だな……」
星空さんが深刻な顔つきで廊下の方を見た。
「はい……無事だといいんですけど……」
そうどこか他人事のように俺は呟いた。
だが、その瞬間だった――
「お兄ちゃん!しっかりして!目を覚まして!」
二つに結えた長い黒髪を揺らし、中学生ぐらいの少女が同じ方へ走って行った。
「文那…………?」
俺はその少女の姿を見て、そう呟いた。
何年も兄として隣にいて間違えるはずがない。今見えた少女は二階堂文那で間違いがなかった。
「ごめんなさい星空さん、三日月さん。ちょっと今運ばれた人見て来ます」
「……?知り合いなのか?」
「はい……きっと」
「きっと……?」
「よく分からないけど、そんな気がするんです」
星空さんにそう答えた。
「すぐに戻って来ますので!」
そう言って、俺は患者が運ばれて行った方へと走る。
あの少女は文那で間違いない。自分の妹の横顔を間違える俺では無い。
けれどあの少女が文那であると確信すればするほど、どうしても拭えない疑問があった。
あれが文那だというのなら、何故文那はあの急患人をお兄ちゃんと呼んだいたんだ――
廊下をしばらく走り、一番奥にある『集中治療室』と書かれた病室へと入る。
「文那ッ!」
殺風景な白いその部屋は、手術室とはガラス越しに仕切られており、手術室にいる医者達の声が漏れ聞こえて来た。
「駄目だ……内臓の損傷が酷い。脈拍もこれではもう……すぐに人工心肺の準備を!」
「はい!」
少年の溢れ出る血液を白い手術着に浴びせながら、医者が看護師へと叫んでいた。
「お兄ちゃん――死なないでッッ!」
その部屋の中央――そこで少女がガラスに張り付くように体をあずけ、ガラスの向こうにいる少年に向かって泣き叫んでいた。
その後ろ姿は間違いなく文那で間違いが無い。
「文那!大丈夫か⁉︎」
俺は文那達に呼びかける。
だが相当動揺してるのか、俺の言葉に文那は振り返らない。
「その子は誰なんだ?文那の友達なのか?」
続けて問いかけるが、やはり返答は無い。
「お兄ちゃん……!お兄ちゃん……!」と文那は泣いているだけだ。
「誰なんだよ、お兄ちゃんって」
痺れを切らし、俺はガラスの方へと一歩近づいた。
また一歩。
そしてまた一歩――
ようやく少年の顔が見える所まで近づくと、俺はゆっくり視線を上げ、ガラスの向こうを覗き込んだ。
俺は覗き込む。
「…………」
「………………………………」
その少年の顔を見て、俺は言葉を失った。
いや、正確には言葉を失った訳じゃ無い。訳が分からなさ過ぎて、思考が止まった。
それぐらいに目の前にある光景は非現実的で、意味不明で、信じられないものだった。
「は………………………………?」
俺はかろうじて喉の奥から疑念の音を発する事が出来た。
手術着を着込んだ医者達。その中央には酷く体を刺され、大量の血を流す少年。
呼吸器に繋がれ、心拍を示すメーターは横ばいで、心音が聞こえない状態で今にも息絶えてしまいそうだった。
その残酷なまでの絶望的な状況にある少年。その少年とは――
俺だった。
間違いようも無いほどに。
「どういう事だよ……なんで俺が目の前で血流して倒れてるんだよ……!」
力無く瞳は閉じられているが、その鼻も、口も、少し細めの髪も――毎日鏡で見る自分そのままの姿だった。
そして今、その自分が内臓を切り裂かれ、今にも死んでしまいそうに項垂れていた。
状況が分からない事への苛立ちから、心臓の鼓動が早まるのを感じる。
「文那、どういう事なんだよ!あれは誰だ?俺に双子の兄弟なんていたか?」
問いかけるが、文那は両目を強くつぶり何かを祈っている様で、俺の声は全く聞こえていなかった。
「なぁ文那!無視しないで答えてくれよ!」
だがやはり文那は俺の言葉になど気付いていないようだった。
その苛立ちから文那に俺の事を気づかせようと、乱暴に肩を掴み揺すろうとした時だった。
「……⁉︎」
突然の事に、俺はバランスを崩しこけそうになったのを必死に堪えた。
文那の肩を掴もうとした俺の腕が、半透明に透け、文那の体を透過したのだ。
「は……?何でだよ。どうなってんだよ、これ」
まるで自分が幽霊になってでもしまったかのような恐怖感が襲う。
さっきまで普通に玲美達と話していたのに、どうしてこんな事に――
現実とは思えないその状況にたじろいでいると、病室の扉が開け放たれた。
「神楽崎!」「神楽崎さん!」
聞き慣れた声が聞こえ、背後へ振り向く。
「戸塚!白草!」
入って来たのはクラスメイトの戸塚と白草だった。
二人とも息を切らしていて、ここまで相当走って来たのがうかがえる。
「良かった――二人に会えるなんて思ってなかったよ」
俺は二人の顔を見て俺は安堵の息をついた。
「なぁ、なんか変なんだ。文那に俺の事が見えていなくて、それにそこに倒れている奴が俺そっくりで――」
だが俺は全く予想だにしていなかった。
よく考えてみれば、文那に俺が見えていない時点で有り得ない話では無いはずだったのに。
「…………ッ⁉︎」
恐怖に息を呑んだ。
生身の人間が、自分の体を突き抜けていく感覚――なんとも言えない温もりがあり、気持ちの悪いものだった。
「そんな…………」
俺は絶句した。
その事象――戸塚と白草が俺に気付かず、体を通過していた事に。
「文那ちゃん!大丈夫か⁉︎」
思考が止まり、立ち尽くす俺の背後で戸塚と白草が文那に近づき声をかけた。
「戸塚さん、白草さん……お兄ちゃんが……お兄ちゃんがッッ!」
文那は今まで見たこと無いほど泣き叫び、悲鳴をあげていた。
「知らない人に刺されて……通り魔だって……警察の人が……!」
「そんな……なんで神楽崎さんが……。人から恨みを買うような方では無いのに……」
文那の言葉に二人は絶望の表情を浮かべた。
「神楽崎さん……どうか目を覚まして下さい。こんな所でお別れなんて嫌です!」
白草はふらふらと立ち上がると、祈るようにガラスの向こうにいる少年――神楽崎真直へと涙を流した。
「おい真直!委員長のお前が倒れてどうすんだよ!お前がいなきゃ始まらないだろ!」
戸塚も同じように神楽崎真直へと叫び、泣いていた。
いつもクールな感じの戸塚が、こんな風に感情を表に表しているのは初めてだった。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
文那も再び、神楽崎真直を見ると祈りを捧げるように両手を握った。
「神楽崎さん!」「お兄ちゃん!」「真直!」
3人とも、ガラス側の向こうにいる神楽崎真直に向かって、必死に呼び掛けていた。
きっとその人物が白草の尊敬する人物であり、戸塚の親友であり、文那の兄であるから――
きっとその人物が、彼等と尊い時間を歩んできた人物だから――
その現実を俺はむざむざと見せられ、ようやく理解した。
「コイツが……俺なのか……?この神楽崎真直っていう奴が……」
心臓の鼓動が強まるのを感じる。
理解した瞬間に、自分の今まで立っていた地面がなくなってしまうかのような不安が俺の心を襲った。
「じゃあ俺は誰だ?二階堂歩夢って…………」
自分の手を見つめる。
今まで当たり前のように存在していたはずの俺の腕が、どうしても存在しているとは信じられなった。
急に自分の存在全てが嘘だったのではないかという疑念がさす。
「俺は一体…………何者なんだ?」
『――――――!』
「……⁉︎」
突然脳内に、誰だか知らない少女の声がこだました。
「誰かいるのかッ⁉︎」
俺は叫び、周りを見渡す。
だがそこに文那達以外の人影はない。
『――――、―――――!』
ノイズが混じった小さな声で、何を伝えようとしているのかは分からない。
けれどその少女が俺の事を呼んでいるという事だけは、何故だか理解出来た。
「そうだ!俺は二階堂歩夢だ!」
自分の存在を認知しているその少女に俺は、助けを乞うように必死に叫んだ。
『――堂、――堂歩夢』
次第にノイズが薄れ、脳に響く声が鮮明になっていく。
だがその声はさっきまで聞こえていた少女の声とは違い、どこか大人びた感じがした。
「ここだ!俺はここにいる!」
だが誰であろうと構わない。
この悪い夢から醒ましてくれるというのなら、関係の無い事だった。
『――――歩夢』
「二階堂――、二階堂――』
「二階堂歩夢くんッッ!」
「…………ッッ⁉︎」
突然強く体を揺すられ、俺は意識を覚醒させた。
「大丈夫か?酷い汗だぞ」
目の前にあるのは、心配そうに俺を見つめる星空さんの顔。
「ここ……は……」
辺りを見渡す。
横には三日月さんが眠っていて、いつものように呼吸器から一定のリズムで呼吸音を漏らしていた。
その隣に置いてある机には、さっき星空さんが変えたばかりのコスモスの花が花瓶に入れられていた。
「俺は文那を追いかけて……それで、そこに俺がいて……通り魔に刺されて死にそうで……」
さっきまで目の前で見ていた光景を思い出す。
自分の存在が無くなった恐怖感が、今も鮮明に心に残っている。じゃあ何で俺は今、こうして三日月さんの横で座っているんだ。
そう疑問に持った直後、星空さんが口を開いた。
「夢でも見ていたのか?キミは弓流の隣でずっと眠っていたぞ」
「夢……?」
星空さんの発したその言葉を俺は繰り返した。
星空さんは「あぁ」と頷く。
「私が弓流のドナー提供の事で悩んでる、という話をしていたらいつの間にか眠っていたよ。全く、キミは本当にデリカシーが無い。結構深刻な話だったんだぞ?」
と言って星空さんは俺の頭を軽くこづいた。
「すみません…………」
俺は弱々しく頭を下げた。
そして理解した。さっきまで見てた光景が、ただの夢だったという事を。
「まぁいいさ。眠っている人間に話しかける事は慣れているからな」
と言って星空さんは笑った。
「きっと色々あって疲れてるんだろう。今日は早く帰って休みなさい」
そう言って星空さんが俺の手を引き、立ち上がらせる。
「今日はありがとう歩夢くん。弓流の事を話せて少し楽になった。ドナー提供について真剣に考えて、私なりの答えを出そうと思うよ」
「そ、そうですか……。お力になれたなら何よりです」
寝起きで頭が回らず、俺はぎこちない感じで言葉を返した。
「いつまでかは分からないけど、またこうして弓流に会いに来てくれ」
星空さんが俺に右手を差し出した。
「はい、もちろんです」
俺はその手を握り返す。
その自分の手が星空さんの手を透けずそのまま触れられた事に、夢の醒めた実感と、自分の存在がある喜びを感じた。




