γ Postlude
楽しげに横切って行く桃香を後にして、ぼくは立ち上がった。
すると、道行く人の一人が、ぼくをちらりと見る。
驚いた──あの人は、ぼくが見えるのか。
自殺して幽霊になった、このぼく──原根一馬を。
小説を書いても書いても結果が出ないことにうんざりしていたぼくは、とある決断をした。
次の賞に応募して芳しい結果が得られなかったら、死んでやろうと。
結果は一次落選。なんの言い訳もできない。それを見てしまって、ぼくは親元に一本電話をかけたあと、ほぼ衝動的に首を吊った。今でこそ早計だったと思っているけど、それはぼくが幽霊になれたから。奇跡のような現象である。
実は、ぼくのことを見ることができる人というのは、少しはいる。さっきのあの人も多分そうだし、以前も三人ほどいた。皆、ぼくが生きている人間だと思っていたけれど。
だが、さっきここを横切って行った桃香や、その友人──雪見君、服部さんだと把握している──は、ぼくが見えない。つらいことだ。
特に桃香については本当に申し訳ないことをしたと思っていて、どうやらぼくには幽霊として、この世に多少干渉することができるようなので、桃香とコンタクトを取ろうと思ったのだけれど、それは止めてしまった。孝介さんのことを、ぼくの幽霊だと思い込んでしまっているから、ここでぼくが出ていったらややこしくなる、と考えたのだ。
幽霊は、いる。ぼくがそうだ。
しかし、今の桃香には、いないことにしておいたほうがいい。
幸い、雪見君の尽力のおかげで、桃香はしかるべき医療機関にかかることになった。ぼくもこっそり付き添ったが、時間はかかりそうとはいえ、どうやら功を奏しそうだ。
勝手に自殺した身なのだから、会いたい一心で干渉するのはやめよう。
ぼくはそう考え、今まで傍観者を貫いてきた。今通り過ぎて行ったのも、見送るだけ。楽しそうで何よりだ。あの二人には、桃香を支えて行ってほしい。そんなわがままな思いを抱いてぼくは歩き出した。
幽霊になってからも、人とぶつからないようにして歩いてしまうのは、生前の感覚が抜けきっていないからなのか。ちなみに人に触れることができるのは、ぼくのことが見えている人だけなのは実証済みだ。基本的に誰かとぶつかろうとしても、すり抜けるだけ。
それから、ぼくは縊死したはずなので、死に顔もそれなりにグロテスクになっているはずだが、今は普通の表情である。自分の「見せ方」は、イメージ通りに自由が効く。服装も頭に残っているなら好きにコーディネイトできるし、なんとぼくは、執筆に使っていた自分のノートPCを具現化できた。これは生憎、電源を入れるまでは叶わなかったのだけれど。
逆に、自分のデスマスクをぼくは知らないので、そのようなものを表出できるかどうかは疑問である。今度試してみよう。
建物を突っ切ったりはせず、ごく普通に歩く。壁抜けは、自分にできるイメージがないとなかなか上手く行かない。跳ね返されるとかではなく、単純に進めなくなるのだ。同じ理由で、飛行もぼくはできない。できる幽霊もいるけれど、ぼくはなり立ての新米だし。
そうそう、幽霊になればたくさん幽霊を見かけるのかとも思ったけれど、それは違った。どうやら幽霊同士ですらも、互いに見えたり見えなかったりするようなのだ。というのも、幽霊になってからというもの、「あ、この生者、今幽霊見てるな」というのが分かるようになったのだけど、当の幽霊自体を、ぼくが認識できないことがあるからだ。
とまあ、幽霊の報告は置いておいて。
目的地に到着。法学部図書館横の、人のいないベンチだ。
ここに、ぼくとコミュニケーションをとれる数少ない存在がいる。
「……やあ。君か」
「こんにちは。なんとなく暇だったので──理穂さん」
立入理穂、と名乗る彼女は、ミステリアスな笑みを漏らした。なんだかんだで幽霊としては話し相手が重要だ。ぼくが見える人もいるけれど、その人々と仲良くなるのは、やっぱり難しい。その点理穂さんは、敬意を表すべき存在だと言えるだろう。
「今さっき、彼と話していたところだよ」
「ええ。ぼくもさっき見かけました。桃香や服部さんと一緒でしたよ」
「そうか。それはなによりだな」
理穂さんは雪見君のことを、単純に「彼」と呼ぶ。代名詞がすでに、個人を表象しているのだ。理穂さんの彼に対する思い入れはかなり強い。きっと雪見君は、それに気づいていないだろう。どこか内面の似ているところのある身としては、そう感じていた。
「彼、幽霊なんていない、なんて立場に戻りやがったがね。どうするね?」
「それでいいんじゃないですか? さすがに雪見君に干渉するのは気が引けますよ」
ここひと月で、雪見君は「幽霊の仕業」っぽい出来事にいくつか遭遇したようだが、それらにぼくが関わったことはない。しいて言うなら、理穂さんの幽霊談義だろうか。彼女は自信のある推測という形をとっていたが、大したペテンだ。そもそも理穂さんは全部知っている。この世界における、幽霊のルールをすべて。
しかしいつだったか、理穂さんが雪見君に向かって、ぼくを指しながら「ここに原根一馬がいたとして」なんて言い出した時はびっくりした。雪見君には見えていなかっただろうが、あのときぼくはそこに居合わせていたのである。
「まあ、理穂さん、雪見君といるとき、本当楽しそうですねえ」
ぼくがしみじみ言うと、理穂さんは素直に頷いた。しかし、
「だが、わたしにこれから、彼に会う資格があるのかどうか、悩んでいるといえば事実なのだよ。ずうっと彼には、嘘をついていることになるしな」
「いいんじゃないですか? そのときは、そのときで」
理穂さんがそのことで思いつめていることは知っているので、明るく受け流す。ぼくとしては、それは仕方のないことだと思っているからだ。さっさと話題を変えることにする。
「ときに理穂さん」
「ん? なんだね」
「前に、これまた雪見君としゃべっているとき、原根一馬は仲間外れだ、なんて意味深なこと言ってましたよね。あれ、どういう意味ですか? ぼく、ちゃんと聞いていたんですからね」
「ああ、そういえば言った気もするな。ほら、君だけ幽霊だったし」
「えー、まあ、そうですけど。雪見君とは面識すらないまま人生終えましたけど」
「はは、まあそれだけでは無くてだね、原根一馬のローマ字haranekazumaをアナグラムさせたらnakamahazureとなるだけさ。ただの言葉遊びだよ」
「ええっ! ……ホントだ! うわ、これは空しい」
ちょっとどんより。それにしてもこの人の頭の回転はどうなっているのだ。
「むう……しかし困ったなあ。色々気は遣ったつもりなのだよ、これでも。だが、彼のクラスメイトとやらの噂話は、捨て置けない……」
「まーだ悩んでるんですか。いいじゃないですか、独り言で。独り言、多い方だと思いますよ、雪見君は」
「でもねえ」
「雪見君はそんなに弱い人間じゃないですよ! なんだったら、明日にでも話してみてはいかがですか?」
「いや、それは、まあ」
まったく。この人は何でも知っているようで、そこらへん奥手である。
まあ、その辺りもこれからか。ぼくは溜息をついて、困った人だと呟く。
それを耳ざとく聞きつけた理穂さんは、ぼく相手には配慮する必要がないため、ぼくをきっと睨んで大声で返す。
「仕方ないだろう! わたしは所詮、ミステリオタクと中二病を引きずり倒して自殺した面倒くさい女だよ!」
そう、彼女もまた幽霊なのだ。雪見君が相手なら、彼の発する声をできるだけ小さくさせるために、ボソボソと話さざるを得ないのが大変なところ。
「あーっ! もーう!」
雪見君には絶対に見せない葛藤から、理穂さんは突如叫んで十メートルほど浮き上がった。さすが年季の入った幽霊。七年ものだっけか。ぼくにはまだ、あれはできない。
「もう知らん! もーう知らないからな、わたしは!」
そのコミカルな仕草に忍び笑いをしながら、ふとぼくは気づいた。
──なんだ、理穂さんもやっていたんだ、自分の名前のアナグラム。
五月の陽気は人間・幽霊を問わず、温かくそこらじゅうを包んでいた。
tateri riho⇔hattori rei
"You lay ghosts on your head" closed.
Thank you for reading!




