草原の姫から帝国の賢母へ:孝荘文皇后(ブムブタイ):㉒
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康熙二十七年、清の紫禁城の奥深く、孝荘文皇后こと布木布泰は、静かに病床に臥していました。七十有余年という長き歳月の重みに耐えかねたその身体は、まるで今にも消え入りそうな灯火のようでした。意識は朦朧とし、現実と夢の境を行き来する中で、彼女の心は、遥か遠い故郷、モンゴルの大草原へと誘われていきました。
瞼の裏に浮かんだのは、目を見張るような鮮やかな緑の絨毯が、地平線の彼方まで広がる光景でした。そこには、幼き日の自分が、草原の姫として、風を切って馬を駆る姿がありました。まだ宮廷の厳しいしきたりも、国を背負う重責も知らなかった、無邪気な少女の面影が、そこにありました。髪をなびかせ、歓声を上げながら駆けるその姿は、あまりにも自由で、あまりにも輝かしい過去の象徴でした。
遠くから、朗らかな笑い声が聞こえてきました。父であるホルチン部の首領、ジャイサンの、力強くも温かい声です。
「さあ、みんな!今日は家族全員で、日が暮れるまで馬を駆けようではないか!太陽が沈んだら、新鮮な羊を屠って、腹いっぱいご馳走を食べようぞ!」
父の言葉に、幼い彼女は、歓喜の叫びを上げました。その横には、誰よりも慕っていた姉、ハルジョルが、優しい眼差しで立っています。姉は、そっと手を伸ばし、大切にしている一連の首飾りを、彼女の細い首にそっとかけてくれました。その首飾りは、姉の温もりと、変わることのない愛情の証でした。
「今日だけは、私のお気に入りの首飾りを貸してあげるわ。あなたによく似合うもの」
その瞬間、少女の心は、この上ない幸福感で満たされました。「こんなに幸せな日が、この世にあっていいのだろうか?」と、思わずにはいられませんでした。風に靡く馬の鬣の感触、弾むような家族の笑い声、そして、温かい日差しに包まれる柔らかな草原の匂い。そのすべてが、まるで永遠に続くかのように思えたのです。
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日が傾き、空が茜色に染まる頃、家族は一つの大きなゲル(パオ)に集まりました。中央には、こんがりと焼けた羊肉が盛られた大皿が置かれ、香しい匂いが辺り一面に満ちています。モンゴル族ホルチン部の名物である、豪快な羊の丸焼きは、皆の顔をさらに笑顔にしました。熱気を帯びた肉をちぎり、口いっぱいに頬張ると、野性味溢れる旨味が広がり、体中に温かさが染み渡ります。その温かさは、肉の熱さだけでなく、家族の絆と、故郷の懐かしさが織りなす、幸福な温もりでした。ゲル(パオ)の中は、笑い声と幸福な熱気に包まれ、まるで時間が止まったかのようでした。
しかし、その幸福の絶頂で、突然、彼女は、自分の頬を伝う温かい雫に気づきました。はしゃいでいたはずなのに、どうしてこんなにも涙が溢れてくるのでしょうか。それは、まばゆいばかりに輝くこの幸せな時間が、もう二度と戻らない、儚い過去の…そして、実現できなかった出来事であるという、どうしようもない悲哀の感情でした。
「どうか、この幸せな瞬間が、終わらないでほしい……」
心の底からの叫びが、言葉にならない祈りとなって、喉の奥で震えました。抗う術もなく、布木布泰は、止めどなく流れる涙の中で、ゆっくりと、そして静かに、意識の闇へと深く沈んでいかれたのです。
彼女の顔には、微笑みとも悲しみともつかない、複雑な表情が浮かんでいました。それは、長きにわたる激動の生涯を全し、清朝の礎を築いた一人の女性が、最後に見た、最も(もっとも)美しく、そして切ない夢の跡でした。草原の風が、遠い記憶の扉をそっと閉じ、静かに、そして永遠に、その魂を包み込んでいくかのようでした。
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布木布泰は、康熙27年(1688年)の厳しい初春、病の床に静かに臥していました。76歳(満74歳)という長きにわたる生涯が、今まさに終わろうとしています。彼女の呼吸は浅く、その白い頬には、生きてきた歳月が刻んだ深い皺が、くっきりと浮かび上がっていました。意識は朦朧とし、遠い記憶と現実の間を行き来するかのようでした。
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そのかすかな意識の中、ブムブタイは、最も愛しい孫、康熙帝こと玄燁の温かい手が、自分の手をそっと包み込んでいるのに気づきました。玄燁は、その若い顔を祖母の枕元に近づけ、声を震わせながら、絞り出すように言葉を紡ぎます。
「あなたは祖母でしたが、私にとっては、まさに母であり父でした。あなたがいなければ、今日の私は決してここに立っていません。その大いなる教えに、ただ感謝しかありません」
その言葉は、ブムブタイの胸の奥底に、温かな灯を灯しました。長きにわたり、幼い孫を導き、厳しくも愛情深く育ててきた日々(ひび)が、走馬灯のように脳裏を駆け巡ります。
その時、閉されていたはずの寝室の扉が、きしみ音を立てて静かに開きました。皆が息を呑んだその先に立っていたのは、まさか、と誰もが思う人でした。五台山の奥深い場所で、俗世を離れ隠遁生活を送っていたはずの、ブムブタイの息子、順治帝です。彼の顔には、長い旅の疲労と、母への深い思い、そして抑えきれない後悔の色が、はっきりと刻まれていました。
「五台山を降りないという誓いを破ってしまいました。どうしても、母上にもう一度お逢いしたかったのです。この親不孝をお許しください、申し訳ありません」
順治帝の声は、悲しみと懺悔に震えていました。その震える声は、静かな寝室に痛いほど響き渡ります。ブムブタイは、全身の力を振り絞るように、かすかに微笑みました。愛しい息子が、こうして自分の最期を看取ってくれる。その事実だけで、彼女の心は満たされ、長い人生の苦労が報われたかのように感じられました。
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朦朧とした意識の中、ブムブタイは最後の力を振り絞って、愛しい息子と孫に語りかけました。その声は、かすかに震えながらも、確かな響きを持っていました。
「あなたたちは…私の誇りです。玄燁…後のことは頼みましたよ」
その言葉を終えると、まるで長い旅から帰ってきたかのように、布木布泰は静かに息を引き取りました。享年76歳。清の建国と隆盛を陰で支え続けた、偉大なる女性の生涯は、ここに静かに幕を閉じたのです。
康熙帝は、祖母の死を深く悲しみ、その場に崩れ落ちました。日が暮れるまで、いや、何日も何日も、連日墓所を訪れて孝を尽しました。彼は、祖母の功績を称え、「孝荘仁宣誠憲恭懿翊天啓聖文皇后(こうそうじんせんせいけんきょういくてんけいせいぶんこうごう)」という長い諡号を贈りました。この長大な諡号は、後に「孝荘文皇后」と簡略化されることになります。彼女の遺体は、すぐには埋葬されませんでした。それは、康熙帝の祖母への深い愛情と、別れを惜しむ心の証として、長く宮中に留め置かれたのでした。
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遠い昔、1725年(雍正3年)のことでした。清の皇帝陵がある東陵の隣に、「昭西陵」という墓がありました。そこに、孝荘文皇后こと布木布泰が埋葬されました。彼女が亡くなってから、実に38年もの歳月が流れてからのことでした。
布木布泰は、モンゴルのホルチン部の首領であるジャイサンの次女として、1613年に生まれました。幼い頃は草原を馬で駆け、羊に囲まれて育った、まさに草原の姫でした。姉のハルジョルとは特に仲が良く、ある日、布木布泰が姉のお気に入りの首飾りを借りたいと願うと、姉は「だめよ。貴方がもっと大きくなってからね」と優しく言いました。
時代は流れ、1625年、数え13歳になった布木布泰は、後金の四大ベイレの一人であったホンタイジ(後の(のちの)太宗)の側室として嫁ぎました。慣れない宮廷での生活が始まりましたが、彼女は持ち前の利発さと聡明さで、次第に宮廷に馴染んでいきました。
ホンタイジが皇帝となり、国号を「清」と改めた後も、布木布泰は荘妃として、彼を支え続けました。特に1638年に息子の福臨(後の(のちの)順治帝)を産むと、ホンタイジは大いに喜びました。しかし、1643年にホンタイジが急逝すると、後継者争いが勃発します。布木布泰は、幼い息子フリン(当時6歳)を皇帝にするため、叔父のドルゴン(睿親王)と密約を結び、フリンは順治帝として即位しました。布木布泰は皇太后となります。
順治帝が亡くなり、孫にあたる康熙帝が8歳で即位すると、布木布泰は太皇太后として、幼い孫の教育に尽力しました。康熙帝は彼女の厳しい教えを受け、聡明な皇帝へと成長していきます。
康熙27年(1688年)の冬、布木布泰は病に倒れ、その生涯を閉じました。享年76歳でした。康熙帝は祖母の死を深く悲しみ、連日墓所を訪れて孝を尽しました。彼女が亡くなる直前に、五台山で隠遁生活を送っていた順治帝が密かに北京を訪れ、母と最後の別れを告げたと言われています。
布木布泰の遺体は、すぐには埋葬されませんでした。康熙帝は、祖母の棺を自らの手で移動させ、埋葬することを望まなかったと言われています。
ある日、康熙帝は重臣たちと話し合っていました。
「祖母上は、私にとって母であり、父でもあった。そのお棺を、今すぐ遠い場所へ移すなど、私にはできぬ」
康熙帝は、深い悲しみと、祖母への尽きせぬ思いを込めてそう語りました。
ある老臣が、恐る恐る口を開きました。「陛下、孝荘文皇后様は、ご生前から質素を好まれました。きっと、盛大な儀式よりも、静かに見送られることを望まれているはずです。」
しかし、康熙帝は首を振りました。「わかっておる。しかし、わしは祖母上を、今少しでも、己の近くに置いておきたいのだ。この思い、誰にも止めることはできぬ。」
彼の声には、普段の冷静な皇帝からは想像できないほどの、個人的で強い感情が滲み出ていました。布木布泰を自らの手元に留めておきたいという、別れを惜しむ康熙帝の深い愛情の表れでした。
そして、康熙帝が亡くなってから3年後の1725年(雍正3年)、ようやく曾祖母にあたる布木布泰の埋葬が決定されました。決定を下したのは、康熙帝の息子である雍正帝でした。




