草原の姫から帝国の賢母へ:孝荘文皇后(ブムブタイ):⑳
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清の康熙帝の御代、康熙22年(1683年)のことでございます。
前年に三藩の乱が鎮圧され、ようやく国内に平静が訪れつつありました。しかし、清の天下統一を阻む最後の大きな壁が残されておりました。それは、明の遺臣である鄭成功の子孫たちが台湾に築いた「鄭氏政権」でございます。
康熙帝様は、この残された課題を解決するため、智勇兼備の将軍、施琅を派遣することを決断されました。施琅はかつて鄭成功に仕えながらも、清に投降した経緯を持つ人物で、台湾の地理や鄭氏の状況に詳しいことが評価されたのでございます。
「施琅よ、台湾の平定、そなたに任せる。必ずや、清の版図に加え、真の統一を成し遂げてまいれ!」
康熙帝様は、施琅にそう命じられました。
施琅は、康熙帝様のご期待に応えるべく、大艦隊を率いて台湾へと向かいました。激しい戦い(たたかい)の末、鄭氏の勢力は次々(つぎつぎ)と敗れ去り、ついにその政権は完全に平定されました。台湾は清の版図に編入され、これにより、清朝に抵抗する主要な勢力は一掃され、中国の統一が完成したのでございます。
この吉報が北京に届くと、宮廷は再び歓喜に包まれました。孝荘文皇后様こと布木布泰様は、康熙帝様の偉業を心から喜ばれました。
「陛下……これで、長きにわたる戦乱も、ようやく終わりを告げましたね。誠に、お見事でございます」
孝荘文皇后様がそうおっしゃると、康熙帝様は、深く息を吐かれました。
「ええ、祖母上。これでようやく、民も安らかに暮らせるようになるでしょう。しかし、まだやるべきことはございます」
康熙帝様のお言葉には、次なる治世への強い決意が滲み出ておりました。
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康熙23年(1684年)。台湾の平定を受け、康熙帝様は、それまで行われていた「海禁政策」、すなわち海上貿易を厳しく制限する政策の解除を決定されました。この政策は、かつて鄭氏政権への支援を絶つ目的で実施されておりましたが、もはやその必要がなくなったからでございます。
「海禁政策の解除を命じる。これからは、沿海地域の貿易を再開し、四方の国々(くにぐに)との交流を盛んにせよ!」
康熙帝様の号令により、広州、アモイ(廈門)、寧波、上海など、主要な港が次々(つぎつぎ)と開かれ、外国貿易が許可されました。活気が戻った港には、遠く異国からの船が行き交い、中国経済は目覚ましい発展を遂げることになります。
同時に、かつて「遷界令」によって内陸への移住を強制されていた沿海住民たちにも、故郷への帰還が許されました。これを「展界令」と申します。
ある日、孝荘文皇后様は、宮中の庭を康熙帝様と共に散策されておりました。
「陛下のおかげで、民は再び故郷に戻り、豊かな生活を送ることができるようになりました。これほど喜ばしいことはございません」
孝荘文皇后は、穏やかな表情で微笑みました。
康熙帝様もまた、清々(すがすが)しい表情で空を仰がれます。
「ええ、祖母上。これこそが、朕が目指した太平の世でございます。しかし、まだ道半ば。清が真の意味で揺るぎない大帝国となるには、これからも弛まぬ努力が必要です」
若き皇帝の瞳には、未来への希望と、果てなき野心が輝いておりました。孝荘文皇后様は、その頼もしい(たのもしい)お姿を静かに見守りながら、心の中で、清の更なる発展を祈られたのでございます。
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康熙24年(1685年)のことでございます。
中国の広大な領土を統一した清にとって、北の国境では、新たな問題が持ち上がっておりました。遠く西方から勢力を伸ばしてきたロシア帝国との間で、国境紛争が続いていたのでございます。特に、ロシアがアムール川流域に築いたアルバジン城は、清にとって無視できない存在となっておりました。
康熙帝様は、この問題の解決に頭を悩ませておられました。武力で解決すべきか、それとも交渉を優先すべきか。若き皇帝は、その決断に苦慮されておりました。
ある日、康熙帝様は、長年にわたり自身を支え、導いてくださった祖母である孝荘文皇后様、こと布木布泰様の元を訪ねられました。
「祖母上……ロシアとの件で、どうにも決断できずに悩んでおります。アルバジン城を包囲してはおりますが、その次の一手をどうすべきか……」
康熙帝様は、心の内を吐露されました。布木布泰様は、孫である皇帝の言葉を静かに聞いておられました。彼女の顔には、長き人生の歳月が刻んだ皺が寄っておりましたが、その瞳は依然として澄み切っており、深い知恵を宿しているかのようでした。
布木布泰様は、優しく微笑みかけ、康熙帝様の手を取られました。
「陛下……貴方はもう一人前の皇帝です。わたくしは、貴方を心から認めております」
その言葉に、康熙帝様は、はっと顔を上げられました。祖母の温かい手と、信頼に満ちた眼差しが、心の重荷をそっと解き放つかのようでした。
「わたくしが申し上げることは、もう何もございません。貴方は、これまで数々の困難を乗り越えてこられました。三藩の乱を鎮圧し、台湾を清の版図に加えられたのは、他ならぬ貴方様ご自身の力でございます」
布木布泰様は、語り続けられました。
「自分を信じなさい。そして、貴方が思うようにやりなさい。その決断こそが、清にとっての最善となるでしょう」
布木布泰様の言葉は、康熙帝様の心に静かに染み渡りました。幼い頃から厳しくも愛情深く教育してくれた祖母からの、何よりも力強い励ましでした。
康熙帝様は、深々と頭を下げられました。
「祖母上……ありがとうございます。祖母上のその言葉で、迷いが晴れました」
この日、康熙帝様は、単に(たんに)国境紛争の解決策を見出しただけでなく、皇帝としての自信をさらに深められたのでございます。後に、清とロシアの間で国境が画定され、通商が始まる(はじまる)礎が築かれることになりますが、その決断の裏には、いつも康熙帝様を信じ続けた祖母の温かい支えがあったのでございます。
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清の康熙帝の御代、康熙24年(1685年)のことでございます。
皇帝としての務めを果たす康熙帝様には、ある確固たる信念がございました。それは、子を育てる上で、学問と教養こそが何よりも重要である、という信念でございます。
この信念は、他ならぬ(ほかならぬ)祖母である孝荘文皇后様、布木布泰様からの教え(おしえ)に深く(ふかく)根差しておりました。布木布泰様は、幼い(おさない)康熙帝様を自らの手元で厳しも愛情深く(ふかく)育て(そだて)、皇帝としての資質を磨かせるために、多岐にわたる教育を施されたのでございます。
「勤勉に働き(はたらき)、学問を重んじなさい。それが、この国を治める者の道です」
かつて布木布泰様から聞かされたその言葉を胸に、康熙帝様は皇子たちの教育に全力を注がれました。
紫禁城の一角には、「無逸斎」と呼ばれる(よばれる)学問所が設けられておりました。その名の通り(とおり)「余暇のない部屋」とされ、皇子たちは朝早くから夜遅くまで、厳格な時間割に沿って学問に励むのでございます。
ある日の夕暮れ(ゆうぐれ)時、無逸斎を訪れた康熙帝様は、勉学に励む皇子たちの様子をご覧になっておられました。
「皆の者、本日の勉学は捗っておるか?」
康熙帝様が声を(こえを)かけると、皇子たちは一斉に筆を止め、恭しく頭を下げました。
その中の一人が、緊張した面持ちで答えました。
「はい、父上。今は満洲語の歴史について学んでおりました」
康熙帝様は、その皇子の傍らに歩み寄られ、書物を覗き込みながら尋ねられました。
「うむ。満洲語は我々(われわれ)満洲族の根幹を成すもの。疎かにしてはならぬ。して、漢語や儒学の習得はどうか?」
別の皇子が、はきはきと答えました。
「父上が選ばれた教師の方々は、皆優れておりますゆえ、日々、新たな発見がございます」
康熙帝様は満足そうに頷かれました。
「よろしい。だが、座学ばかりでは真の学とは言えぬ」
康熙帝様はそうおっしゃると、皇子たちを連れて、広い庭へと出られました。そこには、弓や矢が用意されておりました。
「さあ、皆の者、騎射の訓練だ! 馬の上で弓を射ることは、単なる武芸ではない。集中力と判断力、そして決断力を養うものだ」
康熙帝様ご自身も、かつては祖母である布木布泰様から、草原での生活や遊牧民の知恵について教えられ(おしえられ)ておりました。座学と実践のバランスの取れた教育こそが、真の指導者を育むと信じておられたのでございます。
皇子たちは、康熙帝様の言葉に呼応するように、元気よく馬に飛び乗り、弓を構えました。庭には、矢が的に当たる(あたる)小気味よい音と、皇子たちの活気ある声が響き渡り(ひびきわたり)ました。
康熙帝様は、その様子を満足そうに眺めながら、心の中で布木布泰様に語りかけておられました。
「祖母上……貴方様の教え(おしえ)は、今もこの康熙の世に生きております。この子たちも、やがては貴方様のように、国を支える立派な人物となることでしょう」
康熙帝様は、祖母から受け継いだ教育への情熱を、次の世代へと確かに繋いでおられたのでございます。その厳しくも愛情あふれる教育は、後の清朝の繁栄を支える礎となったことでしょう。




