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草原の姫から帝国の賢母へ:孝荘文皇后(ブムブタイ):⑫

1647年(しん順治じゅんち4年)、北京ぺきん紫禁城しきんじょうに、皇太后こうたいごう布木布泰ブムブタイ宛先あてさきとした、一通いっつう密書みっしょとどきました。差出人さしだしにんは、みん時代じだい女将軍おんなしょうぐんとしてせた秦良玉しんりょうぎょくという人物じんぶつからでした。


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四川しせん悲鳴ひめい


布木布泰ブムブタイは、その密書みっしょすすめるにつれて、顔色かおいろえていきました。そこには、四川しせん張献忠ちょうけんちゅうという反乱軍はんらんぐん首領しゅりょうが、たみ支配しはいし、想像そうぞうぜっする大虐殺だいぎゃくさつひろげているという、みみうたがうような内容ないようしるされていたのです。


「まさか……このようなことが……」


彼女かのじょこころは、ふかかなしみにつつまれました。おな女性じょせいとして、秦良玉しんりょうぎょくつづったたみ悲鳴ひめいともえるうったえは、布木布泰ブムブタイむねおもひびきました。


その午後ごご布木布泰ブムブタイ摂政王せっしょうおうドルゴンをし、秦良玉しんりょうぎょくからの密書みっしょせながら、真剣しんけん面持おももちかたりかけました。


「ドルゴンさま、この密書みっしょをごらんください。四川しせんたみは、いま地獄じごくのようなくるしみのなかにいます」


ドルゴンは密書みっしょとおし、眉間みけんしわせました。かれもまた、張献忠ちょうけんちゅう残虐ざんぎゃくおこないについてはみみにしていましたが、これほどの惨状さんじょうであるとはりませんでした。


「これは……まさしく看過かんかできない事態じたいでございますな」


布木布泰ブムブタイは、ドルゴンのをまっすぐにつめていました。


「ええ、まさにそのとおりです。しんは、いま中華ちゅうかべようとしています。たみくるしみをすくうことは、我々(われわれ)のつとめではないでしょうか。四川しせんたみすくうためにも、張献忠ちょうけんちゅう討伐とうばついそいだほうがいいのでは?」


彼女かのじょ言葉ことばには、つよ決意けついと、たみへのふかいつくしみがめられていました。


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四川しせん攻防こうぼう激戦げきせん


ドルゴンは、布木布泰ブムブタイ言葉ことばに深くうなずきました。


皇太后こうたいごうさまのおっしゃるとおりでございます。しん支配しはいにあるものたちが、これ以上いじょうくるしむのを看過かんかすることはできません。ただちに、各地かくち討伐隊とうばつたい四川しせん集中しゅうちゅうさせましょう」


ドルゴンは即座そくざ行動こうどううつしました。各地かくち分散ぶんさんしていた清軍しんぐん討伐隊とうばつたいは、一斉いっせい四川しせんへとかいました。その軍勢ぐんぜいは、張献忠ちょうけんちゅう反乱軍はんらんぐんにとって、圧倒的あっとうてき脅威きょういとなりました。


四川しせん盆地ぼんち集結しゅうけつした清軍しんぐんは、その進軍しんぐん張献忠軍ちょうけんちゅうぐん各地かくち衝突しょうとつさせました。張献忠ちょうけんちゅうひきいる反乱軍はんらんぐんは、かずこそおおいものの、規律きりつとぼしく、略奪りゃくだつしゅとした烏合うごうしゅうでした。一方いっぽう清軍しんぐんは、長年ながねんいくさきたげられた精鋭せいえい部隊ぶたいであり、八旗はっきへい統率とうそつれていました。


はじめは、張献忠軍ちょうけんちゅうぐん人数にんずうおおさに苦戦くせんする場面ばめんもありました。張献忠軍ちょうけんちゅうぐんは、その残虐ざんぎゃく行為こういたみ恐怖きょうふおとしいれ、その混乱こんらんじょうじて勢力せいりょく拡大かくだいしていたのです。かれらは、地域ちいき住民じゅうみん強制きょうせい的に徴兵ちょうへいし、かず圧倒あっとうする戦術せんじゅつりました。しかし、訓練くんれんされていない兵士へいしたちは、清軍しんぐん規律きりつある攻撃こうげきまえには無力むりょくでした。


清軍しんぐん騎馬隊きばたいは、広大こうだい四川しせん盆地ぼんちめぐり、張献忠軍ちょうけんちゅうぐん各拠点かくきょてんを次々(つぎつぎ)と攻略こうりゃくしていきました。とくに、張献忠ちょうけんちゅう本拠地ほんきょちとしていた成都せいとへの進軍しんぐんは、熾烈しれつきわめました。清軍しんぐん将兵しょうへいたちは、張献忠軍ちょうけんちゅうぐんによる虐殺ぎゃくさつ報告ほうこくいかりをやし、たみすくうためという使命感しめいかんえていました。


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反乱はんらん終焉しゅうえん平穏へいおん


ついに、清軍しんぐん張献忠ちょうけんちゅう本隊ほんたい激突げきとつしました。張献忠ちょうけんちゅうみずか陣頭じんとう指揮しきり、狂気きょうきてきいきおいで清軍しんぐんおそいかかりました。しかし、清軍しんぐん周到しゅうとう戦略せんりゃくと、練度れんどたか兵士へいしたちの一糸いっしみだれぬ連携れんけいまえに、張献忠軍ちょうけんちゅうぐんは徐々(じょじょ)に劣勢れっせいたされていきました。


そして、あるいくさ最中さなか張献忠ちょうけんちゅう清軍しんぐんはなったたおれ、その生涯しょうがいえました。首領しゅりょううしなった張献忠軍ちょうけんちゅうぐん総崩そうくずれとなり、清軍しんぐんはついに反乱軍はんらんぐん鎮圧ちんあつすることに成功せいこうしたのです。


布木布泰ブムブタイは、討伐とうばつ成功せいこう報告ほうこくけ、安堵あんどのためいきをつきました。とおはなれたくるしんでいたたみが、すくわれたことをこころからよろこんだのです。彼女かのじょこころ宿やど慈愛じあい精神せいしんは、清朝しんちょう安定あんていおおきく貢献こうけんしていくことになります。


張献忠ちょうけんちゅう反乱はんらん鎮圧ちんあつされたことで、四川しせんにはようやく平穏へいおんもどり始めました。しかし、破壊はかいされた国土こくど疲弊ひへいしたたみ生活せいかつ再建さいけんするには、まだなが時間じかん必要ひつようでした。清朝しんちょうは、これからしん意味いみ中華ちゅうか統一とういつげるための、おおきな一歩いっぽしたばかりだったのです。




1647年(しん順治じゅんち4年)、紫禁城しきんじょう一室ひとしつで、皇太后こうたいごう布木布泰ブムブタイは、摂政王せっしょうおうドルゴンからの予期よきせぬ言葉ことばみみうたがっていました。


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摂政王せっしょうおう求婚きゅうこん


そのも、れかかったころのことでした。政務せいむ報告ほうこくえ、いつものように淡々(たんたん)とせきとうとするドルゴンを、布木布泰ブムブタイはいつものように見送みおくろうとしていました。しかし、ドルゴンは布木布泰ブムブタイまえひざをつき、ふかあたまれました。その真剣しんけん様子ようすに、布木布泰ブムブタイおもわずいきみました。


布木布泰ブムブタイさま……いえ、荘妃しょうひさまわたくしは、あなたを正式せいしきつまとしてむかえたいとねがっております」


その言葉ことばに、布木布泰ブムブタイ困惑こんわくしました。ドルゴンは、おっとホンタイジ(こうたいじ)のおとうとであり、おいにあたるおさな順治帝じゅんちてい摂政せっしょうとして、すでにしん事実上じじつじょう最高権力者さいこうけんりょくしゃでした。かれ言葉ことば真意しんいれません。


「ドルゴンさまいま、そのようなことをおおせられるのは、いかなる思惑おもわくからでしょうか……。わたくしは、先帝せんていホンタイジ(こうたいじ)のきさきであり、皇帝こうていははでございます。このは、しん皇室こうしつのためにくすものでございます」


布木布泰ブムブタイは、冷静れいせいよそおいながらも、こころなかでははげしい動揺どうようはしっていました。


ドルゴンは、かおげ、布木布泰ブムブタイをまっすぐにつめました。そのひとみには、普段ふだん冷徹れいてつ政治家せいじかかおとはことなる、あつ感情かんじょう宿やどっていました。


「これは、わたくし皇帝こうていちちとなり権力けんりょくにしたいわけではないのです。権力けんりょくはすでにわがにあります。いまわたくしがまだにしていないのは、あなたのこころだけだ。あなたのすべてがしいのです。母上に似た貴女を…」


ドルゴンの言葉ことばは、率直そっちょくで、いつわりのないひびきがありました。布木布泰ブムブタイは、かれ以前いぜんから自分じぶんせるおもいには気付きづいていました。しかし、立場たちば責任せきにんが、その感情かんじょうれることをゆるしませんでした。


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皇太后こうたいごう決断けつだん


沈黙ちんもくつづきました。布木布泰ブムブタイ脳裏のうりには、おさな息子むすこ順治帝じゅんちていかおかびました。しんは、まだ天下てんか完全かんぜん統一とういつしたわけではありません。各地かくちにはみん残党ざんとうのこり、反乱はんらん火種ひだねえていませんでした。そんななかで、摂政せっしょうであるドルゴンとの関係かんけいをこじらせることは、幼帝ようてい未来みらい、ひいては清朝しんちょう命運めいうんかかわります。


彼女かのじょは、個人的こじんてき感情かんじょうよりも、なによりも息子むすこ将来しょうらいと、しん天下てんか統一とういつ優先ゆうせんしなければならないとさとりました。ドルゴンとの婚姻こんいんは、政治的せいじてき安定あんていをもたらし、おさな皇帝こうてい地位ちい盤石ばんじゃくにするうえで、不可欠ふかけつ選択せんたくなのかもしれません。


ながかんがんだのち布木布泰ブムブタイしずかにくちひらきました。


「ドルゴンさま……あなたのおもい、らせていただきます。しかし、これは、わたくし個人の(こじんてきな)感情かんじょうだけではございません。おさな息子むすこ順治帝じゅんちていと、しん未来みらいのため。そして、このくに平穏へいおんのため。そのすべてをかんがえ、この婚姻こんいん受諾じゅだくいたします」


布木布泰ブムブタイ言葉ことばに、ドルゴンは感極かんきわまった様子ようすで、ゆっくりと彼女かのじょりました。


「ありがとう、布木布泰ブムブタイ……。けっして後悔こうかいさせません。わたくしは、このしんを、そしてあなたと、順治帝じゅんちていをおまもりすることをちかいます」


こうして、摂政王せっしょうおうドルゴンと皇太后こうたいごう布木布泰ブムブタイ婚姻こんいん成立せいりつしました。この政略結婚せいりゃくけっこんは、清朝しんちょう歴史れきしにおいて、おさな順治帝じゅんちてい帝位ていい確固かっこたるものとし、しん天下てんか統一とういつをさらに加速かそくさせる、重要じゅうよう節目ふしめとなったのでした。布木布泰ブムブタイは、そのこころ複雑ふくざつ感情かんじょういだきながらも、ははとして、そして一国いっこく皇太后こうたいごうとして、自身じしん使命しめいまっとううしようと決意けついしたのでした。



1648年(しん順治じゅんち5年)、紫禁城しきんじょう奥深おくふか宮殿きゅうでん一室ひとしつで、皇太后こうたいごう布木布泰ブムブタイは、むすめ将来しょうらいあんじていました。


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むすめ再嫁さいかははこころ


広々(ひろびろ)とした宮殿きゅうでん廊下ろうかを、布木布泰ブムブタイしずかにあるいていました。彼女かのじょこころなかには、一抹いちまつさびしさと、むすめへのふか愛情あいじょう交錯こうさくしていました。数日前すうじつまえ彼女かのじょ次女じじょである固倫淑慧公主ゴルン・シュフイ・グンジュが、故郷こきょうモンゴルのバリン部(巴林部)(バリンぶ)のジャサク郡王ぐんおう色布騰セブテン再嫁さいかしたばかりだったのです。


固倫淑慧公主ゴルン・シュフイ・グンジュは、以前いぜんおっとソエルハをくし、わかくして未亡人みぼうじんとなっていました。むすめ波乱はらんちた人生じんせいおもうと、布木布泰ブムブタイむねは締めしめつけられるようでした。再嫁さいかは、しんとホルチンだけでなく、周辺しゅうへんのモンゴル部族ぶぞくとの関係かんけい強化きょうかするうえ重要じゅうよう意味いみっていました。それはわかっていても、やはりははとしては心配しんぱいせずにはいられませんでした。


布木布泰ブムブタイは、窓辺まどべち、とおかすそら見上みあげました。故郷こきょうモンゴルの草原そうげんが、いまむすめまもっていることをねがわずにはいられませんでした。


その午後ごご布木布泰ブムブタイは、長年ながねんつかえている侍女じじょ恵蘭けいらんびました。


恵蘭けいらん固倫淑慧公主ゴルン・シュフイ・グンジュからのふみとどきましたか?」


布木布泰ブムブタイこえには、普段ふだん毅然きぜんとした皇太后こうたいごうとしてのひびきではなく、一人のははとしてのやさしさがにじんでいました。


恵蘭けいらんうやうやしくこたえました。


「はい、皇太后こうたいごうさま先日せんじつ無事ぶじとどきました。公主こうしゅさまは、あたらしい生活せいかつにもれ、健康けんこうにおすごしだともうしておりました」


その言葉ことばに、布木布泰ブムブタイはホッとむねろしました。


「そうですか……それならばかった。わたくしも、むすめあたらしいしあわせにらしてくれることをねがうばかりです」


恵蘭けいらんは、布木布泰ブムブタイ表情ひょうじょうて、そっと言葉ことばつづけました。


公主こうしゅさま再嫁さいかは、しんとモンゴル(もんごる)の関係かんけいをより強固きょうこにするためにも、重要じゅうようなことでございました。きっと、公主こうしゅさまもそのことを理解りかいしておられます」


布木布泰ブムブタイは、うなずきました。理屈りくつではわかっていても、親心おやごころべつでした。それでも、むすめくにのためにも役立やくだっているとかんがえると、すこしは気持きもちがかるくなるのでした。


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伯母おばふかまる悲しみ(かなしみ)


1649年(しん順治じゅんち6年)のはる宮廷きゅうていかなしいしらせがとどきました。ホンタイジ(こうたいじ)の正室せいしつであり、布木布泰ブムブタイ伯母おばにあたる孝端文皇后こうたんぶんこうごうジェルジェルが、崩御ほうぎょしたというのです。


布木布泰ブムブタイは、そのしらせをくと、っていた書物しょもつゆかとし、じました。ジェルジェルは、布木布泰ブムブタイがまだおさなころにホンタイジ(こうたいじ)のもとへとついで以来いらいながきにわたり宮廷きゅうていでの生活せいかつささえてくれた、大切たいせつ存在そんざいでした。故郷こきょうモンゴルをはなれ、異郷いきょう生活せいかつおく布木布泰ブムブタイにとって、ジェルジェルはおやのような存在そんざいでもありました。


ホンタイジ(こうたいじ)の側室そくしつとしてとついで以来いらい彼女かのじょ宮廷きゅうていきびしい規律きりつ人間関係にんげんかんけいなやむこともありました。しかし、いつもジェルジェルがやさしくべ、彼女かのじょささえてくれたのです。


布木布泰ブムブタイは、しずかになみだながしました。かつて、あねハルジョル(はるじょる)をうしなったときおなじように、こころにぽっかりとあないたような気持きもちになりました。


「ジェルジェル伯母おばさま……」


彼女かのじょは、ふるえるこえ伯母おばびました。しん天下てんか統一とういつすすなかで、布木布泰ブムブタイ皇太后こうたいごうとして、息子むすこである順治帝じゅんちていははとして、おも責任せきにん背負せおっていました。しかし、どんなに立場たちばわろうとも、彼女かのじょは一人の人間にんげんであり、あいするものうしなかなしみからはのがれられませんでした。


ジェルジェル(じぇるじぇる)の葬儀そうぎは、おごそかにとりおこなわれました。布木布泰ブムブタイは、終始しゅうしかなしみにえながらも、気丈きじょうにそのくしました。彼女かのじょこころなかには、あいする人々(ひとびと)とのわかれが、また一つきざまれたのでした。


それでも、布木布泰ブムブタイまえかなければなりませんでした。おさな息子むすこ順治帝じゅんちていが、まだ彼女かのじょささえを必要ひつようとしていたからです。彼女かのじょは、かなしみをむねおくにしまいみ、清朝しんちょう未来みらいのために、そして息子むすこのために、あゆつづけることをちかうのでした。

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