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草原の姫から帝国の賢母へ:孝荘文皇后(ブムブタイ):①


モンゴルの風に抱かれて


北の草原にまだ春の兆しが見え始めた頃、それはみん万暦ばんれき四十一年ねんのことでした。西暦にして1613年、旧暦の二月二十三日、モンゴルのホルチンという地に、ひとりの女の子が生まれました。彼女の名は布木布泰ブムブタイ。後に、しんという国の歴史にその名を深く刻むことになる、小さな命でした。


父は、ホルチン首領しゅりょうであるジャイサン(寨桑)。母は、科爾沁大妃コルチンだいひというお方でした。そして、布木布泰ブムブタイには、優しく聡明そうめいな姉のハルジョル、頼りになる二人の兄、烏克善ウクシャン満珠習礼マンジュシリがいました。広大な草原を馬で駆け巡り、羊たちとたわむれる日々は、幼い布木布泰ブムブタイにとって、何よりも大切な宝物でした。


________________________________


遊牧の暮らしの中で


1623年、後金こうきん天命てんめい八年ねんの頃、布木布泰ブムブタイはホルチン遊牧地ゆうぼくちすこやかに過ごしておりました。ホルチンはモンゴル高原こうげんの東部に位置し、遊牧ゆうぼくを主とした生活を送っています。布木布泰ブムブタイもまた、家族と共に、季節ごとに移動する天幕ゲルの中で生活していました。


ある日の夕暮れ時、ゲルるの中では、姉のハルジョルが布木布泰ブムブタイに優しく話しかけました。


「ブムブタイ、今日の羊たちは、ずいぶん元気だったでしょう?」


布木布泰ブムブタイは、嬉しそうにうなずきました。


「ええ、お姉様ねえさま!特にあの黒い子羊は、私から離れようとしないのです!まるで、私の妹みたいですわ。」


兄の烏克善ウクシャンが、楽しげに笑いながら口を挟みました。


「それは、ブムブタイが一番優しく接しているからだろう。動物たちは、お前の心の温かさを知っているのだ。」


もう一人の兄、満珠習礼マンジュシリも、穏やかな表情ひょうじょうで続けます。


「お前は、この草原の恵みを誰よりも大切にしているからな。父上ちちうえ母上ははうえも、お前たちの成長をいつも喜んでいらっしゃる。」


父のジャイサン(寨桑)と母の科爾沁大妃コルチンだいひは、子どもたちの賑やかな(にぎやかな)声に包まれながら、静かに微笑んでいました。布木布泰ブムブタイは、特に姉のハルジョルとは非常に親密しんみつな関係でした。二人で羊の毛をったり、馬の世話をしたり、時には遠くまで駆け比べをしたりと、常に一緒に過ごしていました。


ある夜、満天まんてん星空ほしぞらの下、二人はゲル(げ)るの外に出て、静かに横たわっていました。


「お姉様ねえさま、この星はどこまで続いているのでしょう?」布木布泰ブムブタイが尋ねました。


ハルジョルは、妹の手を握りながら、遠くを見つめて答えました。


「さあ、どこまでだろうね。でも、この星空ほしぞらのように、私たちの世界も、もっともっと広がっていくのかもしれないね。」


布木布泰ブムブタイは、姉の言葉に、漠然ばくぜんとした未来への期待と、少しばかりの不安を感じていました。しかし、この家族に囲まれ、広大な草原で自由に生きる日々が、永遠に続くものだと信じていたのです。遊牧民ゆうぼくみんの生活は、厳しい自然との共存でありながらも、布木布泰ブムブタイに豊かな感性と、揺るぎない家族への愛を育んでいました。




〇姉の首飾り


1623年、後金こうきん天命てんめい八年ねんの頃、布木布泰ブムブタイはモンゴルのホルチン遊牧地ゆうぼくちで健やかに(すこやかに)過ごしていました。広大な草原の東部に位置するホルチンでは、人々は季節ごとに移動する天幕ゲルの中で、遊牧ゆうぼくを主とした生活を送っています。布木布泰ブムブタイも、父のジャイサン(寨桑)と母の科爾沁大妃コルチンだいひ、そして兄の烏克善ウクシャン満珠習礼マンジュシリ、優しい姉のハルジョルに囲まれ、家族の温かい愛情の中で育っていました。特に姉のハルジョルとは、まるで双子のようにいつも一緒でした。


ある日の午後、ゲル(げ)るの中で、ハルジョルは大切にしている首飾り(くびかざり)を磨いていました。それは、草原の夕陽ゆうひを閉じ込めたような、琥珀こはくの輝きを持つ美しいものでした。幼い布木布泰ブムブタイは、その輝きに目を奪われ、じっと見つめていました。


「お姉様ねえさま、その首飾くびかざり、とてもきれいですね。」


布木布泰ブムブタイは、控えめに(ひかえめに)声をかけました。ハルジョルは顔を上げ、優しく微笑みます。


「ええ、これは母上ははうえが大切にしていたものなの。」


布木布泰ブムブタイは、思い切って尋ねてみました。


「あの、少しだけ、私に貸していただくことはできますか?ほんの少しだけでいいのです。」


ハルジョルは、布木布泰ブムブタイの澄んだ(すんだ)ひとみをじっと見つめ、それから柔らかく(やわらかく)首を横に振りました。


「ごめんなさい、ブムブタイ。これはまだ、あなたには少し早いわ。あなたがもっと大きくなって、もっと素敵な女性じょせいになったら、その時、きっと貸してあげるから。」


布木布泰ブムブタイは、少しだけ肩を落としましたが、すぐに顔を上げ、決意けついめたひとみで姉を見つめました。


「はい、お姉様ねえさま。私、きっと立派な女性じょせいになります!そしたら、その首飾くびかざりを貸してくださいね。」


ハルジョルは、そんな妹の健気けなげさに、そっと頭をでてあげました。この小さな約束は、幼い布木布泰ブムブタイの心に、未来への希望きぼうともしたのでした。草原の風がゲル(げ)るの天幕てんまくらし、家族の温かい声がひびく中で、布木布泰ブムブタイは、いつか来るその日を夢見ていました。



学びと憧れの狭間で


1624年、後金こうきんの天命九年のこと。布木布泰ブムブタイは、モンゴル高原の東部に広がるホルチン部の地で、草原の姫として活発な日々を送っていました。朝日にきらめく露を纏った草の上を、まだ夜の冷たさを残す風が吹き抜ける中、布木布泰ブムブタイは愛馬にまたがり、広大な大地を駆け巡りました。地平線まで続く緑の絨毯じゅうたんの上を、風を切って進む馬の蹄の音が、彼女の胸を高鳴らせました。羊や馬、牛といった家畜たちを追うのは、日課でありながらも、布木布泰ブムブタイにとっては遊びの延長でした。きらきらと輝く瞳で、まるで彼らと会話でもしているかのように、家畜たちを巧みに誘導し、時には弓を取り、狙いを定めて的に当てる練習にも励みました。


ホルチン部の遊牧民の生活は、自然と共にあり、大地と空と動物たちが、彼らの日常のすべてでした。布木布泰ブムブタイもまた、その環境の中で、五感を研ぎ澄まし、自由な精神を育んでいきました。太陽の恵みを受け、風の歌を聞き、星空の下で眠る。すべてが、彼女の血肉となっていました。


しかし、この頃から、布木布泰ブムブタイの生活には新たな変化が訪れていました。父であるジャイサン(寨桑)は、未来を見据え、娘に単なる遊牧民の姫としてだけでなく、より広い世界に通じる知識を身につけさせたいと願っていました。そのため、布木布泰ブムブタイは、これまで親交の深かった女真族じょしんぞくの風習や、遠く離れた漢族かんぞく儒学じゅがくについても学ぶようになっていたのです。


ゲルの片隅に設えられた簡素な机に向かい、布木布泰ブムブタイは、これまで手にすることのなかった書物を開きました。羊の革に記された文字や、筆で書かれた漢字は、幼い彼女にとって、まるで絵のように神秘的に映りました。漢族かんぞく儒学じゅがくは、礼儀や道徳、社会の秩序について説くもので、広大な草原の自由な気風とは異なり、静かで厳格な世界でした。時には難解な思想に頭を悩ませることもありましたが、新しい知識を得る喜びは、それに勝るものがありました。筆の運び方や、墨の匂い、そして書物の中に広がる見知らぬ世界は、布木布泰ブムブタイの好奇心を刺激しました。


ある晴れた日の午後、布木布泰ブムブタイは、いつものようにゲルのそばで、遠く広がる地平線を眺めていました。青い空と緑の草原が交わるその境界線は、どこまでも続き、彼女の想像力を掻き立てました。夕暮れが近づき、太陽がゆっくりと地平線へと沈んでいく光景は、息をのむほど美しく、布木布泰ブムブタイの心に、ある純粋な願いが芽生えました。


「ああ、家族みんなで馬に乗って、この地平線の向こうまで駆けてみたいわ。日が暮れるまで、ずっと。きっと、誰も知らない素晴らしい景色が待っているはずです。」


そう呟いた布木布泰ブムブタイの背後から、父のジャイサン(寨桑)が静かに声をかけました。


「ブムブタイ、何か考え事をしているのかい?そんなに遠くを見つめて。」


布木布泰ブムブタイは、振り返り、その願いを父に伝えました。彼女の瞳には、草原を駆ける情景が鮮やかに映し出されているかのようでした。


父上ちちうえ、私、家族みんなで日が暮れるまで馬を駆けてみたいのです。この地平線の向こうまで、ずっと遠くへ。」


ジャイサン(寨桑)は、娘の無邪気な願いを聞くと、少し困ったような顔をして、柔らかな口調ながらも、きっぱりと言いました。


「お前はまだ幼いから、それはだめだ。日が暮れるまで馬を駆ければ、迷ってしまうかもしれん。そんなことよりも、今は勉学に励みなさい。女真族じょしんぞく風習ふうしゅうや、漢族かんぞく儒学じゅがくは、これからの世を生きる上で、必ずお前の助けとなるだろう。知識は、お前を遠くまで導く光となるはずだ。」


布木布泰ブムブタイは、一瞬、むっとしました。草原の姫として、自由に生きてきた彼女にとって、勉学は時に堅苦しく感じられることもありました。しかし、すぐにその気持ちを抑え、父の言葉に耳を傾けました。父の言葉には、娘への深い愛情と、彼女の未来を見据える確かな思慮が込められていることを、幼いながらも感じ取っていたからです。父が自分に、ただの遊牧民の娘としてではなく、もっと大きな役割を期待していることを、漠然と理解し始めていました。


「はい、父上ちちうえ。」


素直に返事をしながらも、布木布泰ブムブタイの心の中では、「いつか、この願いを必ず叶えたいな」という密かな思いが、静かに燃え続けていました。草原の自由と、書物から学ぶ知識。その二つの世界が、幼い布木布泰ブムブタイの心を豊かに育んでいく、大切な時期でした。彼女はまだ知りませんでしたが、この学びが、後に彼女を大きく支える力となるのでした。

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