↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/22

草原の姫から帝国の賢母へ:孝荘文皇后(ブムブタイ):②

〇

遥か昔、1624年のことでした。広大なモンゴルの草原には、ホルチン部という遊牧の民が暮らしていました。その首領(しゅりょう)であるジャイサンは、誇り高き、そして優しさを持つ人物でした。


ある日、彼の遊牧地に、大勢の兵(へい)を率(ひき)いた後金(こうきん)の汗(ハーン)、ヌルハチという方が訪(おとず)れました。ヌルハチは、後に清(しん)という大きな国を作る、とても偉(えら)い人でした。ジャイサンは、そのヌルハチをもてなすため、盛大(せいだい)な宴(うたげ)を開きました。


草原には、陽(ひ)の光がさんさんと降り注ぎ、風が草を揺(ゆ)らす音が心地よく響(ひび)いていました。宴は和(なご)やかな雰囲気(ふんいき)で進み、肉が焼ける香(かお)りがあたりに漂(ただよ)いました。


ヌルハチは、その宴の席で、一人の少女に目を奪(うば)われました。彼女は、ジャイサンの次女、布木布泰(ブムブタイ)でした。当時、まだ幼い彼女は、草原の風を吸い込み、太陽を浴びて育った美しさと、年(とし)に似合(にあ)わぬ利発(りはつ)さを兼(かね)備(そな)えていました。彼女は、目を輝(かがや)かせながら、大人たちの会話に耳を傾(かたむ)けていました。


ヌルハチは、そんな布木布泰(ブムブタイ)の姿(すがた)を見て、静かに微笑(ほほえ)みました。


やがて、宴が終わりを告げる頃、ヌルハチはジャイサンに語りかけました。


「ジャイサン殿(どの)。今日(きょう)は誠(まこと)に、もてなし感謝(かんしゃ)いたします。」


ジャイサンは深々と頭を下げました。


「いえ、とんでもございません。ヌルハチ様(さま)がお越しくださり、光栄(こうえい)の至(いた)りでございます。」


ヌルハチは、ゆっくりと布木布泰(ブムブタイ)の方へ視線(しせん)を移(うつ)しました。


「そなたの次女、布木布泰(ブムブタイ)殿(どの)は、美(うつく)しいばかりでなく、利発(りはつ)な光(ひかり)を宿(やど)しておる。わしの息子(むすこ)、ホンタイジの側室(そくしつ)として、迎(むか)え入(い)れることはできぬであろうか。」


ジャイサンは、ヌルハチの言葉に一瞬(いっしゅん)驚(おどろ)きましたが、すぐに顔(かお)を上げて答えました。


「ヌルハチ様(さま)のような偉(えら)い方(かた)に、娘(むすめ)を認(みと)めていただけるとは、親(おや)としてこれ以上(いじょう)の幸(しあわ)せはございません。娘(むすめ)がもし、ホンタイジ様(さま)のお役に立てるのであれば、喜んでお嫁(よめ)に出(だ)させていただきます。」


その横で、布木布泰(ブムブタイ)は、父とヌルハチの会話を、少し戸惑(とまど)いながら聞いていました。まだ幼い彼女にとって、それは遠い国の、大きな話に聞こえたことでしょう。しかし、この瞬間(しゅんかん)が、彼女の、そして後(のち)に続く清(しん)という国の運命(うんめい)を大きく変えることになるのです。



〇

1625年3月、後金(こうきん)の都(みやこ)が、赫図(ヘトゥ)アラから盛京(瀋陽)(しんよう)へと移(うつ)されることになりました。汗(ハーン)であるヌルハチは、その理由を「盛京(しんよう)の地(ち)には、王(おう)の力(ちから)を高(たか)める龍脈(りゅうみゃく)があるからだ」と説明したと伝えられています。


しかし、この大きな決定(けってい)には、ヌルハチの第八子(だいはっし)であるホンタイジ(後の太宗(たいそう))をはじめ、一部の王子(おうじ)や重臣(じゅうしん)たちが、心(こころ)の中で賛成(さんせい)していませんでした。彼らはそれぞれの思惑(おもわく)を胸(むね)に秘(ひ)めていたのです。


盛京(しんよう)は、赫図(ヘトゥ)アラに比(くら)べ、より広々としており、交通(こうつう)の便(べん)も良い場所でした。新しい都(みやこ)へと荷物(にもつ)が運(はこ)ばれ、人々が慌(あわ)ただしく動(うご)き回(まわ)っていました。


ヌルハチは、新しい都(みやこ)の様子(ようす)を満足(まんぞく)げに眺(なが)めていました。その隣(となり)には、第八子(だいはっし)のホンタイジが立っていました。ホンタイジは、父(ちち)の決定(けってい)に反対(はんたい)する一人(ひとり)でした。彼の顔(かお)には、わずかながらも不満(ふまん)の色(いろ)が浮(う)かんでいました。


ヌルハチが静かにホンタイジに語りかけました。


「ホンタイジよ。そなたは、この遷都(せんと)に納得(なっとく)いかぬようだな。」


ホンタイジは、一瞬(いっしゅん)びくっとしましたが、すぐに姿勢(しせい)を正し、口(くち)を開(ひら)きました。


「父上(ちちうえ)の深(ふか)いお考(かんが)えを、私(わたし)のような者(もの)が理解(りかい)できるはずもございません。しかし、赫図(ヘトゥ)アラは、我(われ)らが祖先(そせん)から築(きず)き上(あ)げてきた都(みやこ)。そこを離(はな)れることに、少々の寂(さび)しさを覚(おぼ)える次第(しだい)でございます。」


ヌルハチは、その言葉に小さく頷(うなず)きました。


「わしにも、その気持(きも)ちは分(わ)かる。しかし、大(おお)いなる志(こころざし)を抱(いだ)く者(もの)は、時(とき)に、これまでの慣(なら)わしを捨(す)て、新(あたら)しい道(みち)を選(えら)ばねばならぬ時(とき)がある。この盛京(しんよう)こそ、後金(こうきん)がさらに大(おお)きな力(ちから)を持(も)つための地(ち)なのだ。」


ホンタイジは、父(ちち)の力強(ちからづよ)い言葉(ことば)に、何も言(い)い返(かえ)すことはできませんでした。彼は、内心(ないしん)では不安(ふあん)や不満(ふまん)を抱(かか)えていましたが、父(ちち)の決定(けってい)に従(したが)う他(ほか)ありませんでした。


盛京(しんよう)は、これから後金(こうきん)の中心(ちゅうしん)となり、やがて「清(しん)」という大(おお)きな帝国(ていこく)の礎(いしずえ)となる場所(ばしょ)です。この地(ち)で、ヌルハチの夢(ゆめ)はさらに広がり、彼(かれ)の息子(むすこ)たちや、後に嫁(とつ)いでくる草原の姫(ひめ)、布木布泰(ブムブタイ)の運命(うんめい)も、新(あたら)しい都(みやこ)と共に動(うご)き出(だ)すのでした。



〇

1625年(後金(こうきん)・天命(てんめい)10年)、数えで13歳になったばかりの布木布泰(ブムブタイ)は、後金(こうきん)の四大ベイレの一人であるホンタイジ(後の太宗(たいそう))の側室(そくしつ)として嫁(とつ)ぐことになりました。草原の風(かぜ)を肌(はだ)で感じて育った彼女にとって、王宮(おうきゅう)での生活は、まるで別(べつ)の世界(せかい)のように思(おも)えました。


新しい都(みやこ)、盛京(しんよう)の王宮(おうきゅう)は、ホルチン部のゲルとは比(くら)べ物(もの)にならないほど、壮麗(そうれい)で広大(こうだい)でした。布木布泰(ブムブタイ)は、案内(あんない)されるままに歩(ある)きながら、壁(かべ)に描(えが)かれた鮮(あざ)やかな絵(え)や、天井(てんじょう)の高(たか)さに目を奪(うば)われていました。


「こちらでございます、布木布泰(ブムブタイ)様(さま)。」


侍女(じじょ)の声(こえ)に、彼女ははっと顔(かお)を上(あ)げました。そこには、温(あたた)かい笑(え)みをたたえた一人の女性(じょせい)が立っていました。彼女の顔(かお)を見(み)た瞬間(しゅんかん)、布木布泰(ブムブタイ)は思わず声(こえ)を上(あ)げました。


「伯母(おば)様(さま)!」


そこにいたのは、ホンタイジの正室(せいしつ)である孝端文皇后(こうたんぶんこうごう)ジェルジェルでした。ジェルジェルは布木布泰(ブムブタイ)の伯母(おば)にあたり、幼い頃(ころ)から可愛(かわい)がってくれた、優しい親族(しんぞく)でした。


ジェルジェルは、布木布泰(ブムブタイ)の手(て)を取(と)り、優(やさ)しく微笑(ほほえ)みました。


「よくいらっしゃいました、ブムブタイ。長旅(ながたび)、お疲れでしょうに。」


布木布泰(ブムブタイ)は、不安(ふあん)でいっぱいの胸(むね)に、温(あたた)かい光(ひかり)が灯(とも)るのを感じました。


「伯母(おば)様(さま)がおいでになるとは思(おも)いませんでした。心細(こころぼそ)うございましたが、お顔(かお)を拝見(はいけん)できて、安堵(あんど)いたしました。」


ジェルジェルは、布木布泰(ブムブタイ)の肩(かた)をそっと抱(だ)き寄(よ)せました。


「心配(しんぱい)いりませんよ。これからは、ここがあなたの家(いえ)です。慣れないことも多々(たた)あるでしょうが、私(わたし)がついていますから。」


布木布泰(ブムブタイ)は、ジェルジェルの優(やさ)しさに、涙(なみだ)がこぼれそうになりました。 その夜、ヌルハチ(太祖(たいそ))が主催(しゅさい)する宴(うたげ)が開(ひら)かれました。後金(こうきん)の王宮(おうきゅう)は、明(あか)るい光(ひかり)と賑(にぎ)やかな笑(わら)い声(ごえ)に包(つつ)まれていました。布木布泰(ブムブタイ)は、ホンタイジの隣(となり)に座(すわ)り、まだ見慣(な)れない人々(ひとびと)の顔(かお)をそっと見回していました。


ホンタイジが、布木布泰(ブムブタイ)にそっと語りかけました。


「ブムブタイ、何か困(こま)ったことはないか? 遠慮(えんりょ)なく申(もう)しつけるのだぞ。」


布木布泰(ブムブタイ)は、顔(かお)を赤(あか)らめながら答(こた)えました。


「はい、ホンタイジ様(さま)。おかげさまで、伯母(おば)様(さま)が優(やさ)しくしてくださるので、心強(こころづよ)うございます。」


ホンタイジは、その言葉(ことば)に満足(まんぞく)げに頷(うなず)きました。


「それは何(なに)よりだ。ジェルジェルは、昔(むかし)から面倒見(めんどうみ)の良(よ)い者(もの)だからな。今後(こんご)も、分からぬことがあれば、何(なに)でもジェルジェルに聞(き)くといい。」


宴(うたげ)は夜遅(よるおそ)くまで続(つづ)きました。布木布泰(ブムブタイ)は、慣(な)れない環境(かんきょう)の中(なか)で、疲(つか)れを感じていました。しかし、伯母(おば)であるジェルジェルの存在(そんざい)が、彼女の心(こころ)を支(ささ)えていました。


この新しい場所(ばしょ)で、彼女の人生(じんせい)はこれから始(はじ)まるのです。故郷(こきょう)の草原(そうげん)を離(はな)れ、異国(いこく)の地(ち)で生きていくことへの不安(ふあん)と、新(あたら)しい生活(せいかつ)への期待(きたい)が、彼女の胸(むね)の中で交錯(こうさく)していました。ヌルハチが存命中(ぞんめいちゅう)である後金王宮(こうきんおうきゅう)での生活は、彼女に何(なに)をもたらすのでしょうか。布木布泰(ブムブタイ)は、静(しず)かに夜空(よぞら)を見上(みあ)げ、これから歩(ある)む道(みち)に思(おも)いを馳(は)せるのでした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。