敵意探索
赤山の中から見える紅蓮の葉木は、チャティスにとって新鮮な光景だった。
「すごい……」
感嘆の息を漏らすチャティスにクリスが解説する。
「アラジエの赤山には炎の精霊が眠っているとされている。山の草木が紅いのは、その影響を受けているからだそうだ」
「父さんから聞いたことあるけど実物を見るのは初めてだよ!」
はしゃぐチャティスが草を散らす勢いで駆け回る。その様子を見て呆れ果てるキャスと、面白そうに笑みを浮かべるシャル。
転移術式でティルミの村から赤山までショートカットしたフォーリアスが目を細めている中で、クリスはふと視線を木々の先へ移し――警戒を色濃くした。
「……」
「どうしたの、クリス」
希薄な変化を目ざとく見咎めたチャティスが訊く。
クリスは答えずずっと遠方を眺めている。鋭い視線の先に何があるのか気になったチャティスは、遠眼鏡を取り出し正体を確かめる。
「……なに、あれ」
か細く呟いたチャティスから、赤山への興味関心が吹き飛んだ。
視線の先にあったのは黒い霧のようなもの。遠眼鏡からでははっきりと確認できないが、それでもその霧がとても大きく、そして邪悪なものであるとはわかる。
「――腐海だな。俺も実物を目視するのは初めてだ」
クリスが先程のチャティスと正反対の口調で述べる。
その声に喜怒哀楽は窺えない。いや、注意深く声へと耳を傾けるべきだ。
よく耳を凝らせば、クリスの声音に――怒りと悲しみが含まれていることに気付く。
「と、とにかく今は赤山の調査でしょ。ね、クリス」
チャティスが自身の目的と照らし合わせて言う。
「いや、今はアレの調査が最優先だ」
クリスが己の理想を実現するため答える。
「でもクリス、腐海は危険だって言ってたでしょ? それに、腐海の中で生き残れるバーサーカーはいないって。なら……」
「あの腐海が早期なのか末期なのかで対応は変化する。……フォーリアス、お前は知っていたか? あそこに腐海があることを」
クリスの問いかけに腐海を長年調べてきた老魔術師は首を横に振った。
「いや、ワシは知らん。最近できたばかりのモノじゃな。まだ数日も経っていないできたてほやほやの新鮮物じゃ」
「……ならば、念のため探る必要がある」
クリスはいっしょに転移してきた馬車の中へ入り、マスケット銃とピストルを装備して戻ってきた。
臨戦態勢を見やり、チャティスは止めようとして諦める。
こうなったクリスは止まらない。何が何でも腐海へと潜り、狂戦士の生死を確認するだろう。
以前から知っていたこと。自分と同じようにクリスは頑固なのだ。
チャティスは己にそう言い聞かせ、クリスを笑顔で送り出す。
「……じゃあ、少しの間別行動だね。私はこの山で使えるものがないか調べるから、しばらくこの辺りを散策する。早めに戻ってきてね、クリス」
「もちろんだ。すぐに戻ってくる」
首肯で応じたクリスはフォーリアスとキャスベル、シャルに注意喚起した後、チャティスへと向き直った。
「……気を付けろ、チャティス。敵はどこにでも現れる」
「わかってるよ、クリスこそ」
警句を残し、チャティスから離れ腐海へとクリスは向かう。
その背姿を見送った後、一瞬置いて行かれたという想いが脳裏をよぎったが、すぐにそんなことはないと思い直す。
いつものことだ。いつも通り、チャティスもまた行動をする。そう、いつもの通りに……。
「で、どうするの? 赤山のふもとにあるヤクドでも行く? あそこは大した資源もないから、狂化戦争の対象にならない稀有な国の一つよ。ま、少数民族のちっぽけな国だから役に立つものなんてないかもしれないけど」
「そうでもないよ、キャス。意外なところにこそ発見がある。鎮静花がバーサーカーの女の子が住む森の中にあったようにね」
問いを答えたチャティスにふーんと相槌を打ちながら、キャスベルはフードを被る。
「確かにあなたの幸運なら思いも寄らぬ発見があるかも。先行して偵察するから馬車を安全なところに移しといて」
「うん、いってらっしゃい」
キャスベルが身軽な動作で木の上へと素早く登り、枝を伝って森の中へと消えて行く。
チャティスはシャルに頼んで馬を大人しくさせ、御者席へと座り手綱を握る。
「フォーリアス、中に乗る?」
「いや、ワシは魔術を行使するんでの、先に行っててくれい」
はーいと元気よく返事をし、チャティスは手綱を動かした。
※※※
チャティスが馬車を移動させている間、フォーリアスは術式を組み上げていた。
杖を掲げ、ぶつぶつと呪詛を並べ立て、自らを世界の傍観者へと昇華させていく。
(腐海が発生した……どの国も指導者も腐海の出現だけは忌避していたというのに)
口を動かしながら頭は違うことを考える。心と身体は別物だと言わんばかりに術式を構築し、頭の中では腐海について思いを馳せる。
(有り得んな。人間の手ではない。バーサーカーの暴走とも考えづらいの。赤山の先にある諸国は“道具”の手入れを怠ってはいなかった……ということは)
ある考えに辿りつき、フォーリアスはその裏付けのため魔術を発動させる。
フォーリアスほどの魔術師ならば、通常数人の補助を必要とする大魔術も単独で使用できる。
無論、使用には多大な負荷がかかり、単独行使は急務の場合に限る。
それほど切羽詰まった案件だとフォーリアスは断定していた。いや、間違いならばそれでいい。
自分の予想が外れていて欲しいと、これほど願ったことはない。
だがフォーリアスの願い虚しく、彼の予感は見事的中してしまった。
「やはり、奴が動いたのか。クリスに知らせねば。敵は今までの連中より上手だと」
フォーリアスは冷や汗を掻きながら、通信術式の組み立てに入った。
※※※
馬車を安全な場所と思われる茂みへ移し終わったチャティスがフォーリアスの元へ戻ろうとすると、なぜかフォーリアスがやってきた。
どこか焦った風に見える老人は馬車へ刻印を刻み始める。どうしたのとチャティスが問う。
「なに、ただの保険じゃよ。念のためのな」
朗らかに笑うフォーリアスだが、不穏な影は拭いきれない。
実際、チャティスも嫌な感覚をひしひしと感じている。
あの黒い霧のせいだ。国一つを包み込むほどの巨大な霧は、ポジティブなチャティスにネガティブな感情を付与させる。
クリスの行動に関しては、常に不安よりも安心が勝っているが、今回ばかりは不安の方が優勢だ。
どうしても嫌なイメージが湧いて来て、チャティスは汲み捨てるのに必死だった。
考えるな、考えるな。クリスは大丈夫、問題ない……。
ずっと同じようなことをチャティスは繰り返している。堂々巡りとはまさにこのこと。
「ねぇ、フォーリアス」
不安という湧水を無視するためにチャティスは口を開く。
「なんじゃ、チャティス」
「腐海ってさ、バーサーカーが原因というより、たくさんの人が理不尽に死んだから発生するんだよね」
「如何にも。お前さんの言う通りじゃ。ティロイは教え良き父親じゃな」
「……苦しんでるのかな、みんな」
同情的な感想を口にし、顔を暗くする。
そんなチャティスを励ますように、フォーリアスは言葉を続けた。
「うむ、確かに“狂しんで”はいるだろうのう。悲しいことじゃが、人は感情で動く生物じゃ。理性的に振る舞っている者は多い。しかしの、最終的な決定を下すのは心なのじゃよ。人間である限り、例外は存在しない。理性だけなら狂うことはない。心があるから、狂うのじゃ」
「……心があるから、狂う」
「苦しみからの解放には時間が必要じゃ。永遠に続く――」
「――苦しみなんて存在しない。……あなたの言葉だったんだね」
幼き頃に父から聞いた言葉の受け売り元を知り、チャティスはにこりと微笑む。
悩んでいる暇はない。さっさと用事を済ませ、クリスを驚かせるぐらいにしなければ。
「シャル、行こう。……フォーリアスも」
「うむ。若いおなごとの旅路は愉快じゃのう」
フォーリアスは心底喜んでるような口調で言う。しかし、瞳には決意のようなものを秘めている。
「で、まず何を探すの、チャティス」
「とりあえず珍しいものを片っぱしから。他で採れるようなものには興味ないかな」
「わかった、探してみる」
シャルは二つ返事で応じてくれた。
キャスベルを待つ間、周辺の植物について調査する。フォーリアスは目を光らせて何やら辺りを窺っているので、協力を求めなかった。
ただ、いくら野生児シャルがお供でも、植物探しは骨が折れる。せめて何か話題が欲しいとチャティスは大声で呼びかける。
「誰か面白い話ない――?」
「……無茶振り」
当然の反応を聞いてチャティスは肩をがっくしと落とす。
旅は楽しいものだが、やはり時間が経つにつれて話題が限られてくる。いくら自己愛の強い少女チャティスと言えども、何度も何度も同じ自慢話をするわけにはいかない。
「ジジイなら話はできるぞ。面白いかどうかは知らんがのう」
「この際何でもいいよ。お話聞かせてー」
「ジジイの扱いも雑になってきたのう……。さてはて、一体何を話そうか」
フォーリアスの話は真偽の怪しいものが多かった。
一番は魔術師になった理由だ。おなごにモテると思ったからだという。
そんな不埒な理由で魔術を志すとも思えず、チャティスはずっと怪訝さを顔に張り付けていた。
「嘘! 絶対に嘘!」
「ジジイの性格を知っておるじゃろう。ワシはおなごが大好きなのじゃ。なぜ男なんて不純物が産まれるのかと真剣に研究していたこともあるぞい」
「それは気持ち悪いよ。吐き気がするよ」
「もう少し言い方を考えてくれんかのう……」
ずばりと斬り捨てたチャティスにフォーリアスが弱弱しい声を出す。
その会話を聞いてシャルが無邪気に笑う。フォーリアスが名誉挽回のため別の話を口にする。
「そうじゃ、そうじゃ。これでもワシはの、大陸中の魔術形態を一新したのじゃ。言わば、今の魔術師はワシが育てたのじゃよ」
「……つまり、傲慢な魔術師が増えたのはあなたのせいなんだね……」
「ぬぅ?」
突然暗い瞳となったチャティスに戸惑う老魔術師。見かねたシャルが口を挟む。
「チャティスは魔術師が嫌いなんだよ、知らなかった?」
な、なんと……と、フォーリアスは狼狽しチャティスを励まそうと躍起になった。
「いやの、ワシはちゃんと魔術師たる在り方もいっしょに広めたのじゃよ? ところがのう、大抵の者たちは魔術にしか興味がなく、ワシの教えを破ったのじゃ。言わば、傲慢な魔術師はアホたれのバカたれなのじゃよ。奴らの行いはワシのせいではなく――」
「……ふふ、わかってるよ。そんな言い方はみっともないよ、魔術師のおじいさん?」
からかうように片目を瞑り、フォーリアスの口元に指を当てるチャティス。
少女特有の小悪魔な笑みを目にして、フォーリアスは思わず苦笑する。
「ふほ、これは一本取られたの。以前の仕返しかのう?」
「そんなとこ。傷心の私に手を出そうとしたこと、私は忘れてないからねーっ」
「チャティスはねちねち根に持つ性悪なひとだからね」
ぼそりと言われたシャルの解説が引っかかり、チャティスはシャル? と妹分を言い咎める。
そのやりとりを見つめつつ、フォーリアスは独り言を呟いた。
「弟子……いや、やはり孫娘かの。いいもんじゃなぁ」
「とうとうボケて、身近な人間すら誤認するようになったのかしら?」
挑発的な言動にフォーリアスと、シャルに自分がどういう人間かを説いていたチャティスが振り返る。
そこには、キャスベルが舞い戻っていた。服に赤い汁を滴らせて。
「……キャス!? 怪我してるの!?」
「してないわよ。向こうはぼこぼこだけどね」
さして気にした様子もなく平然とキャスが答える。手をひらひらさせて、どこか得意げな風の彼女は、フォーリアスに血を魔術で拭き取るようお願いして、武勇伝を披露する。
「はっ! 相手をガキでしかも女だと舐め腐った報いよ。私はアサシンなのよ? ちょっと鍛えただけのへなちょこ男に負けるわけないじゃない。……ヤクドの戦士たちに手は出さないよう言い聞かせておいたから、安全に入れるわよ」
「……そ、そう」
ありがとうと言うべきかチャティスは悩んだ。
チャティスはてっきり、キャスなら血生臭さくならないのではと彼女に任せたのである。
だが、実際には彼女は自分をバカにした民族戦士を半殺しに近い状態までぼこぼこにしていた。アサシンとは、不意打ちでしか敵を殺せないのではなく、不意打ちが敵を殺す上で最適だから暗殺を選択しているに過ぎない。
舐めてかかればどうなるかは火を見るより明らかである。とはいえ、もう少し何とかならなかったのかと思わずにはいられない。
「感謝なんていらないわ。アサシンがどれだけ恐ろしいかその身を持って教えてあげただけだし」
「う、うんそうだね……」
偵察だけではなく交渉まで取り計らったキャスは、自分の役目を十二分に発揮できてご満悦だ。
チャティスと似たような不満を彼女も抱いていたのかもしれない。キャスベルは、隠密偵察という役柄をクリスに取られて不服そうだった。
「……この辺りで目ぼしいものはなさそう」
「ん、シャルが言うなら間違いないね。先に進もうか」
自分が天才であると同時に、度を過ぎたバカであるとは、チャティスも薄々感づいている。
ゆえに自分ではなくシャルの言葉で安心して、先に進むことにした。
努めて、クリスを心配しないように意識しながら。
共和国とされているヤクドには国王がいない。
というより、ヤクドは国としては規模がかなり小さい部類だった。
魔物避けの外壁に囲まれた大きな村……というのがチャティスの目測だ。
木製で作られた簡易な門を通り抜けると、大量の民が一行を迎え入れた。
大集結によるおもてなしにチャティスは目を白黒させる。なぜだろうというチャティスの疑問には、微かに聞こえてくる囁き声が解決の鍵となった。
「……来た、来たぞ……上級戦士を半殺しにした蛮人ども……」
「恐ろしや、恐ろしや。目を合わせるな、食われるぞ……」
「あはは、は」
苦いモノが込み上げてきて、チャティスはぎこちない笑みを浮かべる。
横ではシャルが不思議がり、キャスベルは胸を張って威張り散らしている。
フォーリアスが若い女性に色目を使いだしたところで、チャティスは手近な人へと声を掛けた。
「あの」
「ひいやっ!!」
「お、怯えすぎ……。宿ってどこにありますか? 泊まりたいんですけど」
チャティスの質問は、ヤクド民に物議を醸し出した。
あちこちで発生する緊急会議。独特な衣装のヤクド民族は、チャティスたちを自分たちを捕食しに来た悪魔だと思い込んでいる。
たはは……と呆れるしかないチャティスは、目ざとく薬屋らしき店を見つけ歩き出した。
「こんにちはー。ここって薬屋で合ってます――?」
「うわぁああああきたぁ怪力ゴリラぁ!!」
唐突のゴリラ認定にチャティスがぎょっとしていると、後ろから顔を覗かせたキャスが笑みに怒りを添付させた。
「ゴリラ? へぇー、面白いこと言うわね」
ひぃいいい! と情けない声を上げる包帯男は、どうやらキャスベルに返り討ちにされた哀れな被害者らしい。
部屋の奥まで逃げ惑う男に素敵すぎる笑顔をみせるキャス。顔は満面の笑みなのに目は全く笑っていないところが恐怖心を煽る。
キャスの表情はおいておき、チャティスは店内を物色し始めた。男を治療していた薬師がカウンターの前に立ち、何用かと尋ねてくる。
「ここら辺でしかとれない珍しい薬材を探してるんです。……あなたは脅えないんですね」
「まぁ、事の顛末を知ってるからな。このバカが年端もいかない少女に喧嘩を吹っ掛けて返り討ちにされた。怯える必要がどこにある」
淡々と応じながら薬師は近辺でしか採れない素材をかき集める。一瞬だけ財布の中身が心配になったチャティスだが、両親からの餞別として金貨をたくさん貰っている。無駄遣いならともかく、研究材料の購入なら何の文句も言われないだろう。
「……まぁ、悪く思わんでくれよ。ヤクドは小国で、文化も独特ときた。他国とは技術レベルでも遅れてる。そのおかげで助かっちゃいるが、いつ火の粉が降りかかってくるかはわからない。よそ者が現れるとみんなぴりついちまうのさ」
「だからって――ふぐ!」
割り込もうとしたキャスの口をシャルが塞ぐ。ナイスアシストとチャティスが胸中で感謝しながら言葉を紡ぐ。
「私たちは争いが嫌いです。ここに寄ったのは薬に使える材料がないか探しに来たから。そちらが何もしない限り、買い物をしてお泊りをするだけです。みなさんに伝えてもらえませんか? あなたから」
「……ま、俺が説明するしかないだろうな。礼儀正しいように見えて、図々しいお嬢さんだ」
「すみません」
「謝ることはないさ。全部このバカのせいだ」
薬師はカウンターの上に材料の入った籠を置き、チャティスの仲介役を快諾してくれた。
材料を購入した後、チャティスたちは荷物を置くために宿屋へ向かった。
馬車を持ってこようかとも思ったが、ヤクドの民は馬を食す習慣があるという話を聞き、しばらく放置しておくことに決めた。
これもシャルのおかげである。馬と会話できるシャルが、色々と馬たちに言い聞かせておいてくれたからだ。
「でも意外、チャティス」
「急にどうしたの?」
あてがわれた部屋に購入品を置くチャティスが問う。
「前テェンソーで買い物した時は、あそこまでスムーズにいかなかった」
「……シャル、私は天才なんだよ? どうすれば自然に事が運ぶか、胸の内にある心の瞳で見通せるんだよ!」
「百三十二回」
いきなりキャスベルの口から提示される数字。ん? ときょとんとするチャティスにキャスは呆れ声を出す。
「私と出会って、あなたが自分を天才だと言った数。……ここまで自意識過剰な人間、初めてだわ」
「止めてよ、照れるなぁ……」
照れ笑いを浮かべて後ろ髪を掻くチャティスに絶句し、キャスベルは部屋の出入り口へと向かう。
と、突然ドアが開き、キャスは身構えて、すぐに構えを解く。フォーリアスが女部屋に堂々と侵入してきたからだ。
「何しに来たのよ」
「これを渡しに来ただけじゃ。本当のところは相部屋にして欲しかったがのう。ジジイを一人部屋にするとは血も涙もない」
「ふん、血が欲しけりゃいくつでも量産できるけど?」
「止めておこうかの。血と涙まみれになってしまいそうじゃ」
フォーリアスは冗談を言いながら、折り畳んである紙を手渡す。何やら刻印が記されているそれを荷物の中に入れておいて欲しいという。
何でこんなものをとぼやきながらも、従順に言いつけを守るキャスが可愛らしい。
「でも、本当に何で? 様子が変だよ、フォーリアス」
「何でもない。ジジイは基本的に偏屈なのじゃよ、チャティス」
そう嘯きながら、フォーリアスは部屋を出て行く。
いつもなら適当に言葉を並べつつ部屋へ居座る老人があっさりと退室して、さらにチャティスの疑念を助長させる。
その日の行動はそれくらいで、せいぜいヤクドの民から逸話を聞くぐらいだった。
ヤクド民は大陸国家群と違う見方で世界を俯瞰しており、いくつか不安にさせる終末予知も教えてくれた。
曰く、世界の終末は、人が思うよりも突発的に訪れるらしい。
気付いた時にはもう、世界は終わっているそうだ。その危険性に気付けるかどうか。それが人類が生き残るための解決策なのだという。
急な終わりを迎えるのは、世界だけではない。人や狂戦士も、死ぬ時は一瞬だとヤクド民は言っていた。
安心とは、人が勝手に作り上げる虚構だと。安心も安全も、人が気を狂わないようにするための予防策に過ぎない、と。
(ミュールやノアの思想と同じ。……わざわざ指摘されなくても、わかってる。わかっているとみんな勘違いしている。当たり前すぎて、それが当たり前だと感じられなくなってるんだ。異常を通常だと誤解して、自分が壊れないよう心を守っている。だから狂化戦争が起きて、人は人が死んでも、何も感じなくなる)
はぁー、とチャティスは深く嘆息した。もうすっかり夜も更けて、シャルもキャスベルも、ヤクドの民たちも寝静まっている。
妙なことを考え耽り、寝るタイミングを完全に逃した。今から寝ようにもぐるぐるぐるぐる同じ考えが頭の中で渦巻いて、気分を落ち着かせるまでは眠れそうにない。
「散歩でもしてこよ」
起き上がったチャティスは外出用の衣服へと着替えを済ませ、そそくさと部屋を後にした。
廊下を進み、外へと出る。月明かりに目を細め、耳ざとく小声を聞き取った。
「フォーリアス……?」
声の主を呼びながら、聞こえる方向へと足を動かす。外でぶつぶつ呟いていたフォーリアスの姿を見つけ、ゆっくりと接近。
「――ということじゃ。ワシも念のため準備しておく。いざアレを発動すれば、大平原に転移する。……最適なのはティルミじゃが、そこまで詠唱の余裕があるかはわかりはせん。お前さんも早めに戻ってきてくれ……奴の狙いがイマイチ掴めんからの」
「何の話?」
フォーリアスはハッとして、行使していた魔術を中断した。
なぜ中断したのかとチャティスが訊くと、ぬほほほと老人は誤魔化すように笑みを作る。
「昔よろしくやったおなごと秘話をしていたんじゃ。よもや、お前さんに盗み聞きされるとは……ジジイに気でもあるのかの?」
「嘘はいけないよ。話せないことなの?」
「……わざわざ話すまでもないことじゃ。ジジイは歳を取るにつれて段々弱気になるのでのう。取るに足らないようなことでも不安になってしまうのじゃ」
「……私も不安だよ」
チャティスは星を見上げながら本音を漏らした。
どうかしたかの、とフォーリアスは真摯な態度で訊き返す。
「この冒険は私が望んだもの。でも、結末が思い通りになるかは、私にはわからない。私ができるのは予測と行動だけで、結果は終わった時に突きつけられるものだから。あらゆる生命が行えるのは過程だけ。結果は神が唐突に知らせる。……人を小馬鹿にして」
「チャティスは神様が嫌いなのか」
「嫌いだよ! ううん、信じてないのかも。いや、逆に信じているのかな……神様は何もしてくれないって」
チャティスは月の守護者に目を移す。月も太陽も、世界を照らす守護者だ。
空に浮かぶ星々は、世界の創世で散った神々の生まれ変わりだという説がある。
彼らはきっと、自分を戒めたのだ。自分たちが争ったせいで、世界は一度終わるはめになった。
だから、今度は干渉しない。自分たちが創り出した子どもたちに後を任せ、天から見守ろうと。
だが、だとすれば、なぜ狂戦士を放置したまま去ったのだと糾弾せずにはいられない。
「せめて、バーサーカーの呪いを解いて天に昇って欲しかったよ。そうすれば、クリスは……サーレを殺さずに済んだのに。狂しまずに済んだのに」
「できない理由があったのかもしれぬ。……神を完全無欠だと言ったのは神ではない。人間じゃ。……チャティス、わかっているかと思うが、あえて言わせてくれ。重要なのは、誰かに頼ることではなく、自分で頑張ることじゃ。頑張る姿勢を見て、皆が本気で協力してくれる」
「わかってる。よく知ってるよ。……フォーリアスはさ、もしかして、バーサーカーを救おうとしてたんじゃないの? 私と同じように」
フォーリアスは目を見開き、心底驚いた表情となった。
すぐに顔を戻し、お前さんに嘘はつけんのと早々に白状する。
「まぁ、似通ったものではあるの。ワシは魔術を平和利用したいと常々考えていた。……本当は人間の心をどうにかできれば一番なのじゃが、やはりそう簡単にはいかん。人の心は複雑じゃ。ワシもワシ自身を完璧に理解しているとは言い切れん。だからの、まずはバーサーカーをどうにかしようとしたのじゃ。狂化を防げば、狂化戦争は終わる。バーサーカーに勝ち目はないが、人間相手だったらどうにかなる。腐海の研究はどちらかというとついでじゃな」
「やっぱり。だったら、もうお役目ごめんだね」
「……何じゃと?」
チャティスの言葉をフォーリアスは訝しむ。ひとつ間違えば、フォーリアスの人生を否定しかねないセリフだ。
だがその言葉は、やはりチャティスらしい思いやりのこもった言葉だった。
「あなたはもういっぱい頑張った。そろそろ世代交代するべきなんだよ。あなたは幸運にも同じ志を持った天才少女と出会った。だからさ、もう頑張る必要はないんだよ? 私に任せて! 私は誰もが羨む才覚を持つ天才だからね、大船に乗った気分でいてよ。ゆっくり休んでいいんだよ……偉大な魔術師、フォーリアス」
言葉を失ったフォーリアスはしばらく呆けて、頬を緩ませた。
確かに働き過ぎたかもしれないと、自身を顧みる。自分はもう年寄りだ。これ以上努力しても良い成果は上げられそうにない。
ならば、後は若い者に任せ、ゆっくり休息を取ってもいいかもしれない。幸いにも、自分はチャティスという類稀な人間と出会った。
チャティスは間違いなく天才だ。人を、狂戦士を癒そうと努力できる天才。
お前さんの言う通りなのかもしれんと、フォーリアスは手を伸ばした。
自分を天才と評する馬鹿に。だが、その手は握手する寸前で止まる。
どうしたの? とチャティスが訊く。だが、フォーリアスは即答できなかった。
探知術式の警鐘を脳裏で聞き、愕然としている。
「……チャティス、荷物を取りに宿へ戻れ。みんなを起こしてくるんじゃ」
「え? でも」
「急ぎなさい!」
尋常ならぬフォーリアスの剣幕に、チャティスは言うことを聞くしかない。
言われた通り宿へと走り、フォーリアスを心配そうに見つめた。
「く――なぜだ。なぜここへ……っ!? そうか、狙いはあの子か。いや、真なる目的はそれとは別……。だが指標にはもってこいということか。……やらせはせんぞ、ワシの目の黒いうちは」
フォーリアスは杖を握りしめ、ヤクドの正門を遠透視する。
そこには、ひとりの男が立っていた。背中に大剣を背負い、古めかしい鎧を着こんだ無表情の男が。
男は大剣を抜きながら問いかける。
「――俺はここにいるぞ、バーサーカー殺し。お前は一体どこにいる?」




