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『東の魔王、西の勇者 ~普通のおっさんと少年ゲリラが世界を二分するまで~  作者: サラ男


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アリアのこと

アリアが生まれた日のことを、父親は今でも覚えている。


 小さな身体。小さな手。そして、元気な泣き声。


 妻は、ベッドの上で疲れた顔をしながら、それでも笑っていた。


「可愛いでしょう」


「ああ」


「この子のためにも、頑張らないとね」


「無理するなよ」


「大丈夫」


 それが、妻と交わした最後の何気ない会話になった。


 アリアが生まれて間もなく、妻は仕事へ戻った。


 職場へ向かう途中の交通事故だった。


 あまりにも突然だった。


 連絡を受けた時、父親は何が起きたのか理解できなかった。病院へ向かい、医師の説明を聞き、何度も確認した。それでも、妻が死んだという事実だけが、現実から浮いているように感じられた。


 帰ってこない。


 その事実だけが、時間が経つほど重くなっていった。


 家には、生まれたばかりの娘がいる。


 腹が減れば泣く。眠ければ泣く。抱き上げれば、小さな手で服を握る。


 父親は、その手を見つめた。


 妻はもういない。


 自分しかいない。


「……俺が育てる」


 誰に言ったのか、自分自身に言い聞かせたのか、それすら分からなかった。


 それから、男手一つで娘を育てた。


 料理は得意ではなかった。洗濯も完璧ではない。娘の髪を結ぶのも苦手だった。女の子が何を喜ぶのかも、よく分からない。


 それでも、必死だった。


 朝、娘を起こす。食事を作る。仕事へ行く。帰ってくる。娘の宿題を見る。熱が出れば病院へ連れていく。夜中に泣けば起きる。


 毎日、それを繰り返した。


 アリアが笑えば嬉しかった。転んで怪我をすれば、自分のことのように痛かった。


 だからこそ、守ろうとした。


 だが、守ることと、思い通りにすることの違いを、父親は知らなかった。


 アリアは外を走り回った。木に登り、泥だらけになり、男の子たちと喧嘩する。転んでも泣かない。


「もう少し、おしとやかにできないのか」


「私はこれでいいの」


 アリアは胸を張った。


 父親は何も言えなかった。


 本当は、それでよかったのかもしれない。


 元気に育っている。自分の足で立っている。それだけで十分だった。


 それでも、妻がいないことを、父親は時々痛いほど感じた。


 こういう時、妻なら何と言うだろう。


 アリアが反抗した時。泣いた時。喜んだ時。


 自分には分からないことを、妻なら分かったのではないか。


 そんな考えが、何度も頭をよぎった。


 そして、その不安を埋めるように、父親は教育に力を入れた。


「もっと勉強しなさい」


「やってるよ」


「もっとできるだろう」


「どうして?」


「将来のためだ」


「私の将来なのに、お父さんが決めるの?」


 その言葉に、父親は言葉を失った。


 自分は、娘の未来を心配しているだけだと思っていた。


 だが、アリアからすれば、自分の人生にまで口を出されている。


 そう感じていたのだろう。


 それでも父親は期待した。


 娘ならできる。もっとできる。自分より、もっと遠くへ行ける。


 その期待が、いつの間にか娘を追い詰めていた。


 何度もぶつかった。


 何度も言い争った。


 そして、何度もアリアを泣かせた。


 思春期になると、父親にはさらに分からないことが増えた。


 身体が変わる。感情も変わる。本人にも整理できない気持ちが生まれる。


 だが、父親にはそれが見えなかった。


「どうして、そんなことで怒るんだ?」


「別に怒ってない」


「なら、泣くな」


 言った瞬間、アリアの目に涙が浮かんだ。


「……お父さんには分からないよ」


 扉が閉まった。


 父親は、その場から動けなかった。


 分からなかった。


 本当に、何も分かっていなかった。


 娘を守りたいと思っていたのに、その「守りたい」が娘を傷つけていた。


 夜、一人で台所に立ちながら、父親は何度も考えた。


 妻がいたら、もっと違ったのだろうか。


 その答えは、誰にも分からなかった。


 大学進学の時もそうだった。


「一人暮らしは駄目だ」


「どうして?」


「危ない」


「大学は家から通えないでしょう」


「別の大学にすればいい」


「嫌。私は、ここへ行く」


 アリアは譲らなかった。


 結局、ほとんど家出のように家を出ていった。


「行ってきます」


「……ああ」


 扉が閉まる。


 父親は玄関に立ったまま、しばらく動けなかった。


 家が広くなった。


 娘がいないだけで、こんなにも違って見える。


 それでも電話をかけた。


「ちゃんと食べてるか」


「食べてるよ」


「困ったことはないか」


「ない」


「金は?」


「大丈夫」


 うるさがられても、父親は聞いた。


 それが、自分にできることだった。


 そして、ある日。


 アリアから電話があった。


「私、政治家になる」


 父親は、一瞬何も言えなかった。


 嬉しかった。


 心の底から。


 自分の娘が、自分の足で、自分の道を見つけたことが誇らしかった。


 しかも、自分と同じ政治の世界へ進もうとしている。


 本当は「よくやった」と言いたかった。「お前ならできる」と言いたかった。「応援している」と伝えたかった。


 なのに。


「……そうか」


 それしか出なかった。


 電話を切った後、父親は一人で笑った。


「そうか、じゃないだろ……」


 少しだけ泣いた。


 嬉しかった。


 本当に嬉しかった。


 それを本人に伝えられなかったことだけが悔しかった。


 そして、戦争が始まった。


 娘が政治家になったことを誇りに思っていた。


 だが、その政治家という立場が、娘を戦争へ巻き込んだ。


 ある日。


 政府から、アリアを保証人として連邦へ送るという話を聞いた。


 その瞬間、頭が真っ白になった。


「……アリアを?」


 敵だった国へ、娘を送る。


 しかも、いつ帰ってこられるか分からない。


 理屈では分かる。


 戦争を終わらせるため。国を守るため。必要な条件なのだ。


 だが、父親には、そんなものは関係なかった。


 娘を守りたい。


 ただ、それだけだった。


「行くな」


 父親は言った。


 だが、アリアは首を横に振った。


「私が行く」


 その時、父親は思った。


 いつの間に、こんなに強くなったのか。


 自分が守るはずだった娘が、自分の意思で国のために歩こうとしている。


 嬉しかった。


 誇らしかった。


 それでも、怖かった。


 送り出したくなかった。


 だが、最後には娘の背中を押すしかなかった。


 そして。


 娘が帰ってきた日。


 父親は、本当に安心した。


 生きている。


 怪我もない。


 自分の目の前にいる。


 それだけで胸がいっぱいになった。


 だが、まさかその娘が、ヴィクターと結婚すると言い出すとは。


 夢にも思わなかった。


「……本当に、アリアらしい」


 父親は笑った。


 自分が驚くような道を、娘は昔から選んできた。


 大学も。


 政治家になることも。


 そして、ヴィクターとの結婚も。


 誰かに決められたものではない。


 最後は、自分で決めた。


 それが、何より嬉しかった。


 結婚式の日。


 父親は、会場の隅に立っていた。


 人々の声が聞こえる。


 両国の人間が、同じ場所にいる。


 かつてなら、考えられなかった光景だった。


 そして。


 娘が入ってくる。


 白いドレス。


 穏やかな笑顔。


 その姿を見た瞬間、父親の胸に幼い頃のアリアが蘇った。


 小さな手。


 泥だらけの膝。


 髪を結んでやろうとして失敗した朝。


 勉強を巡って喧嘩した夜。


 家を飛び出すように大学へ向かった背中。


 電話の向こうから聞こえた。


「私、政治家になる」


 その全部が、一瞬のうちに重なった。


「……大きくなったな」


 父親は呟いた。


 そして、ヴィクターを見る。


 かつて、娘を人質として送り出した国の男。


 今は、娘の人生を共にする男。


 父親はヴィクターを見ながら、何度も自分に問いかけた。


 この男なら、娘を任せてもいいのか。


 本当に、娘を守ってくれるのか。


 だが。


 答えは、もう自分が決めるものではなかった。


 アリアが選んだ。


 それでいい。


 それが、父親にとって最後に娘へしてやれることだった。


 口を出さない。


 ただ、信じる。


 やがて、アリアが父親の前を通る。


 二人の目が合った。


 父親は、笑おうとした。


 だが、涙が出た。


 止まらなかった。


 アリアの顔を見れば、どうしても泣いてしまう。


 だから、少しだけ顔を背けた。


 泣いているところを、娘には見せたくなかった。


 父親として、最後くらい格好よくいたかった。


 だが、アリアが微笑んだ。


 その瞬間、もう隠せなかった。


 父親は、静かに涙を拭った。


 アリアも、何も言わなかった。


 ただ、少しだけ笑った。


 それだけで十分だった。


 式が始まる。


 誓いの言葉。


 指輪の交換。


 アリアの指には、真っ赤なルビーのついた金の指輪が輝いている。


 父親は、その指輪を見つめた。


 昔。


 自分が娘の人生を心配して、何でも決めようとした。


 勉強。


 大学。


 政治。


 何度も衝突した。


 だが。


 今日、娘は自分の人生を、自分で決めた。


 もう、自分が決める番ではない。


 そう思った。


 拍手が起きる。


 父親も、ゆっくりと手を叩いた。


 涙が、また出てきた。


 今度は、隠さなかった。


「……よかった」


 小さく呟く。


 妻がいたら。


 きっと、同じように泣いていただろう。


 そう思った。


 式が終わる。


 父親は、娘とヴィクターを遠くから見ていた。


 二人は、並んで歩いている。


 もう、自分が心配して追いかける必要はない。


 それが嬉しくて。


 寂しかった。


「……上手くやってのけたろうか」


 父親は、誰もいないところで呟いた。


 妻に聞いているような気がした。


 俺は、ちゃんと父親をやれただろうか。


 アリアを、ちゃんと育てられただろうか。


 もっと優しくできたんじゃないか。


 もっと話を聞いてやれたんじゃないか。


 もっと、あの子を信じてやれたんじゃないか。


 後悔は、いくらでも出てくる。


 それでも、最後には一つの答えしか残らなかった。


 アリアは、自分で人生を選んだ。


 なら。


 自分は、それを信じるしかない。


 妻の写真を見る。


 写真の中の妻は、昔と変わらない笑顔でこちらを見ている。


「……お前にも、見せたかったな」


 父親は、写真に向かって呟いた。


「アリア、立派になったぞ」


 写真の中の妻は、何も答えない。


 ただ、微笑んでいる。


 その顔を見て、父親は少しだけ笑った。


 そして、その夜。


 自宅へ戻った。


 家が妙に広く感じる。


 昔、この家には小さなアリアがいた。


 今は、いない。


 棚から酒を取り出し、グラスに注ぐ。


 一口。


 喉を通る酒が、少しだけ熱かった。


「……寂しくなったな」


 誰もいない部屋で、そう呟く。


 嬉しい。


 誇らしい。


 安心した。


 それなのに。


 寂しい。


 全部が同時に胸の中にある。


 父親は、グラスを置いた。


「簡単には会えないが」


 少し笑う。


「たまには顔を見せに来い」


 そして。


「政府専用機なんかで来るなよ」


 冗談だった。


 だが、それが父親なりの照れ隠しだった。


 元気でやっているなら、それでいい。


 好きなように生きればいい。


 もう、自分が娘の人生を決める必要はない。


「元気でやってるなら」


 父親は、もう一度グラスを傾けた。


「親としては、本望だ」


 それでも、胸の奥には半身をもがれたような感覚が残っている。


 娘を失ったわけではない。


 むしろ、娘は幸せになった。


 だからこそ。


 自分の手から、一人の人間として完全に巣立っていったことが分かる。


 それが嬉しくて、苦しかった。


 父親は妻の写真へ視線を向ける。


「……俺、ちゃんとやれたかな」


 写真の中の妻は、何も答えない。


 ただ、微笑んでいる。


 父親は、その笑顔を見ながら、静かな夜を過ごした。


 言葉では、とても言い表せない気持ちを抱えたまま。


 今宵は月が綺麗だった。

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