第37話「最後の選択」
テーブルの上には、ありふれた料理が並んでいた。
白い湯気を立てる味噌汁。焼き目のついた魚。少し焦げた卵焼き。
「……普通だね」
翔がそう言うと、綾華は小さく笑った。
「うん。でも、普通が一番でしょ」
箸を取る指先に、もう感覚はない。
触れているはずなのに、触れていない。
それでも翔は、何事もないように箸を動かした。
口に運んだ瞬間、味が広がる。
――分かる。
ちゃんと、分かる。
塩味、出汁の旨み、ほんの少しの甘さ。
それらを一つひとつ、翔は意識的に噛みしめた。
(これが……最後になるかもしれない)
そう思った途端、喉が詰まった。
綾華は何も言わず、ただ翔を見ていた。
触覚を失ったことも、次が味覚だということも、全部知っている目だった。
「美味しい?」
「……ああ」
短い返事。
それ以上言えば、崩れてしまいそうだった。
綾華も箸を動かすが、食べる量は少ない。
二人の間に流れる沈黙は、重いのに、どこか穏やかだった。
「ね、翔」
「ん?」
「もし……もしね」
綾華は一瞬、言葉を探すように視線を落とした。
「もし、全部失っても……
それでも一緒に食べる時間は、なくならないよね」
翔は答えなかった。
答えられなかった。
ただ、ゆっくりと頷く。
味を失えば、同じものを食べても、同じ世界は見えない。
それでも、同じ時間を過ごすことはできる。
――本当に、それでいいのか?
翔自身が、まだ分かっていなかった。
食事が終わり、食器を片付けた。
そして、
その夜、ついにその時は来た…
時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
翔は装置をテーブルの上に置いたまま、じっと見つめていた。
綾華は少し離れた場所に座り、視線を逸らさずにそれを見ている。
逃げない。
もう、逃げ場はない。
ノイズが走り、画面が歪む。
『期限に到達した』
淡々とした声。
感情の起伏など一切ない。
「……次は味覚だな」
翔が先に口を開いた。
『正確だ』
「失えば、もう何も味わえなくなる」
『それが対価だ』
綾華の指が、わずかに強く握られる。
触覚を失った翔には分からないはずなのに、
その動きだけで、彼女の感情が伝わってきた。
「本当に、それしかないのか」
翔は画面を睨んだ。
「他に方法はないのかって、前にも聞いたよな」
一拍の沈黙。
『存在する』
その言葉に、空気が変わる。
「……あるのか」
『過去へ戻れ』
翔の呼吸が止まる。
『対象事象:バス事故
発生前に介入し、結果を書き換えろ』
「……ふざけるな」
即答だった。
「それはダメだ」
『合理的だ。犠牲は最小限』
「違う」
翔の声は震えていなかった。
むしろ、異様なほど静かだった。
「あの事故は、俺のせいじゃない。
でも、他人を犠牲にして帳尻を合わせる気はない」
「何より、綾華を二度と失いたくない」
「翔……」
『感情的判断だ』
「上等だ」
翔は装置を強く掴んだ。
感覚はなくても、力だけは分かる。
「俺は、選ばない」
沈黙が落ちる。
『ならば、別案を提示する』
「……何だ」
『装置を譲渡せよ
第三者に』
その瞬間、綾華が立ち上がった。
「ダメ!!」
二人の視線が交差する。
「それだけはダメだよ、翔……
誰かに押し付けるなんて、そんなの……」
翔は小さく息を吐いた。
「分かってる」
画面に向き直る。
「譲らない」
『拒否理由を』
「他の誰かに、同じ地獄を背負わせるくらいなら」
翔は装置を持ち上げた。
「この力ごと、終わらせる」
綾華の目が見開かれる。
「翔……?」
『警告
それは不可逆的選択だ』
「それでいい」
翔の中で、答えはもう固まっていた。
「俺が選んだ未来は、
“誰もこれ以上失わない未来”だ」
ノイズが荒れ、画面が大きく歪む。
『確認
装置の封印を実行するか』
翔は一瞬だけ、綾華を見る。
彼女は、泣いていなかった。
ただ、必死に頷いていた。
「……実行する」
通信が途切れ、
装置の光が、ゆっくりと消えていった。
完全な静寂。
もう「取引」は存在しない。
未来は、不確かで、怖くて、
それでも――二人の手の中に戻ってきた。




