第八話 お礼のロールキャベツ
主な登場人物紹介
田中彩乃
二十四歳。主人公。庶務部。優しくてお人好し。過去のトラウマから恋愛には奥手。
鈴木颯太
二十四歳。彩乃の同期で営業部所属。仕事の出来るイケメン。彩乃の隣の部屋に住んでいる。彼女の浮気が原因で別れているところを彩乃に目撃される。
佐藤優真
二十四歳。綾乃の高校からの親友。なんでも話せて、頼りにしている存在。穏やかで誰に対しても優しい。職場は別。
山本莉子
二十ニ歳。イケメン好きな彩乃の後輩社員。庶務部。小柄で美人。
先日の、鈴木さんとのやりとりがずっと頭から離れない。
エレベーターの中で、鈴木さんが少しだけ不機嫌そうに言った言葉。
ーー俺、田中さんが他の男の人といるの、嫌みたいです。
あの声のトーンも、視線の向け方も。
思い出すたびに、胸の奥がむず痒くなる。
……鈴木さん、どうして、あんなことを言ったんだろう。
ただの同期で、ただの隣の部屋の人なのに。
一度芽生えた名付けられない感情は、もう戻れないほどに、じわじわと私の心を占めていった。
*
そんなある日のことだった。
その日、職場は朝からどこか落ち着かない空気に包まれていた。急に、親会社による内部監査が入ることが決まったのだ。
当然、庶務部のフロアは、朝から慌ただしかった。
庶務部は、各部署から提出される書類をまとめ、形式や不備を確認する役割を担う。中でも営業部から提出される書類は、契約関連のものが多く、量も難度も高かった。
「田中さん、これも確認お願いしていいですか?」
「はい、分かりました」
次から次へと書類が積み上がっていく。
忙しいけれど、不思議と嫌とは思わなかった。
こういった、誰かの仕事を裏から支える感じが、私は好きだったから。
そんな中。
「失礼します」
聞き慣れた声に顔を上げると、営業部のフロアから鈴木さんが立っていた。
一瞬、心臓が跳ねる。
あの日以来、まともに顔を合わせるのは初めてで、どこか気まずく感じてしまう。
けれど、鈴木さんはそんな私の内心など知らない様子で、いつもと変わらない爽やかな笑顔を浮かべていた。
「こちら、追加分です。田中さん、よろしくお願いします」
「はい。お預かりします」
思っていたより、声は普通に出てほっとした。
鈴木さんは机の上に書類を置くと、私が確認していた資料を一緒に確認してくれる。
いつの間にか隣に立っていて、肩が触れそうな距離に、思わず息が詰まるけれど、鈴木さんは顔色一つ変えずに真剣に書類を見ていて。
……なんだか、私だけが意識しすぎてるみたい。
そう思うと少し恥ずかしくなって、心の中で小さくため息をついた。
その時、鈴木さんが隣からそっと覗き込んできた。
肩が触れそうな距離で、ふわりと爽やかな香りが鼻をくすぐり、ドキッと心臓が跳ねる。
「ここ、少し直した方がいいかもしれません」
「え?」
「この形式だと、前に監査で引っかかったことがあって。たぶん、こうしておいた方が通りやすいですよ」
そう言って、修正した方がいい箇所にメモ書きをして、渡してくれる。
「ありがとうございます、本当に助かります……!」
思わず顔を上げると、鈴木さんはふわっと柔らかく笑った。
「いえいえ。後で差し戻されるより、絶対今修正出来た方が楽ですから」
その何気ない優しさが、胸に残った。
仕事ができて、その上、押し付けがましくもなくて、気遣いもできて。
……ずるいなぁ。
そんなことを思ってしまう自分に、少し驚いた。
*
そうして、慌ただしい日々が続いた内部監査を無事に切り抜けた。
鈴木さんに、この前助けてもらったお礼に何か出来ないかな、なんて考えていた矢先のこと。
営業部が立て込んでいて、鈴木さんの帰りが遅くなる日があった。
私も少し残業をして家に着き、まだ忙しそうだった営業のフロアのことを思い出しながら、晩御飯を作っていた。
夜もすっかり更け、そろそろ出来上がりという頃には、鍋の中には一人では食べきれない量のロールキャベツが出来ていた。
丁度完成したタイミングで、隣の部屋の玄関のドアが開く音が聞こえた。
鈴木さん、帰ってきた……。
私は、ほんの少しだけ迷ってから、せっかく作ったのだからと、意を決してタッパーに詰めて、自分の部屋を出ると、隣の部屋のドアの前に立ち、インターホンを鳴らした。
少しして、ドアが開く。
鈴木さんは、疲れたような表情のまま顔を出して、次の瞬間、少し驚いた様に目を瞬かせた。
「あ、田中さん」
「鈴木さん、こんばんは。遅くにすみません……。あの……今日、晩ご飯、作り過ぎちゃって。よかったら、召し上がってくれませんか?もう食べられてたら、冷凍してもらっても大丈夫ですし」
緊張しながらタッパーを差し出すと、鈴木さんは一瞬目を丸くして、それからぱっと表情を明るくした。
「え、いいんですか?俺今帰ったとこで凄く腹減ってるから、めちゃくちゃ嬉しいです」
「よ、よかったです」
素直に喜んでくれるのが、嬉しくてほっと息を吐いた。
鈴木さんが少し考えるそぶりをしてから、こちらを見て、口を開いた。
「……田中さん、もうご飯、食べました?」
「いえ、これからです」
「だったら……一緒に食べない?」
思いがけない誘いに、胸が跳ねた。
「えっと……いいんですか?」
「うん。ひとりで食べるより、一緒に食べたほうが嬉しいから」
少し照れたようにそう言われて、私は手にしていたタッパーを見下ろす。
「あ、でもこれ、一人分で。残りは家にあるので、……よかったら、うちで食べますか?」
流れに任せてそう聞くと、鈴木さんは、ほんの一瞬、表情が固まった。
それから、ほんのり頬を赤らめて、
「えっと、……じゃあ、お邪魔しようかな……」
と、少し照れくさそうに笑った。
*
テーブルを挟んで、向かい合って座る。
鈴木さんが、私の部屋にいる。
その事実だけで、胸の奥がそわそわして落ち着かない。
思えば、この部屋に男性を招き入れたのは、これが初めてだった。
長い付き合いの親友である優真くんでさえ、会う時はいつも自然と外で、私の部屋に入ったことは一度もない。
けれど、この前の時は鈴木さんの部屋に入れてもらった訳だし、今さら緊張するのはおかしいような気もする。
とは言え、どうしたって意識してしまうのを、止めることはできなくて……。
このことを彼に悟られるのはどことなく恥ずかしくて、私は必死に何でもない顔を装っていた。
すると、ロールキャベツを口に運んだ鈴木さんが、ふっと目を見開いて、じんわりと幸せそうな顔をした。
「……美味しい……」
「本当ですか?よかった」
彼の表情を見て、ほっとして、自然と笑みがこぼれた。
自分の作った料理を、こんなふうに素直に褒めてもらえると、胸の奥がぽかぽかと温かくなった。
鈴木さんはもう一口食べてから、少しだけ照れたように笑った。
「なんか、心に沁みます……。こういう、ちゃんとしたご飯を誰かに作って貰うのって、凄く嬉しいですね」
「え……?」
私が首を傾げると、鈴木さんは視線を落とし、箸を持つ手を一瞬止めた。
「前は、外食ばっかだったから。俺もそれでいいと思ってたし」
少し辛そうな顔。その表情から、彼が元カノとのことを思い出して話していることを察した。
いや、比べるとか失礼だけど……。と言ったその声は穏やかなのに、どこか自嘲するみたいで。
少しの間のあと、鈴木さんが小さく息を吐く。
「まあ……元カノとは、結局上手くはいかなかったんですけどね」
「……」
少しの沈黙のあと、鈴木さんははっとしたように視線を伏せた。
「……すみません。いきなり、こんな話……」
どこか申し訳なさそうなその声に、咄嗟に首を横に振る。
「大丈夫です」
誰かに寄り添ってもらうことで、癒える傷があることを、私は知っている。
もし、こうして話すことで、少しでも鈴木さんの心が軽くなるのなら、力になりたいと思った。
「無理に話せとは言いませんけど、……もし、少しでも話したいのであれば、いくらでも聞きますから」
微笑みながら、囁くようにそう伝えると、鈴木さんは少しだけ目を見開いてから、ふっと表情を和らげた。
「……うん。ありがとう」
小さくそう呟いてから、鈴木さんはゆっくりと息を吐く。
「今、振り返って考えると、俺は他人の気持ちに鈍感だったんだろうなって思うんですよね。……向こうが浮気していたと知った時も、それまで相手の異変に、まったく気付いていなかったですし。……気付こうともしていなかったのかもしれません」
淡々とした口調。
少し寂しそうに見える表情に、胸の奥がちくりとして、咄嗟に言葉が出た。
「……でも」
「?」
「私は鈴木さんが、鈍感な人だとは思えないです。優しい人だと思います」
言い終えてから、少しだけ恥ずかしくなって視線を落とす。
鈴木さんは少し驚いた様に目を見開いたあと、ふっと力の抜けた笑顔を見せた。
「優しいのは、田中さんの方ですよ。……だけど、ありがとう。田中さんにそう言って貰えたら、嬉しいです」
そう言って、一呼吸置いて、続ける。
「あんまりいい話じゃないから、どう話せばいいのか、ちょっと難しいんだけど……、俺、これまで付き合ってきた彼女とは、浮気されたり、気持ちを疑われたりして、うまくいかなくなることが多くて……」
静かな声だった。
「自分では、ちゃんと好きだと思ってたつもりなんだけどね……」
ーー浮気。
先程から何度か鈴木さんの口から溢れるその言葉に、自分の過去が重なって、胸がキュッと締め付けられた。
「……私も、付き合ってた彼氏に大学の時に浮気されて別れたから、辛い気持ち、分かります。……私は、それから、恋愛自体、ちょっと怖くて」
「そう、だったんだ……」
私の言葉に対し、鈴木さんが、寄り添う様な声で相槌を打った。
そして、少し間を置いて、ぽつりと、独り言のように言う。
「俺だったら……田中さんが彼女だったら、絶対に浮気なんてしないけどな」
「……え?」
驚いて顔を上げる。
「あ、いや……すみません。何言ってんだ、俺」
珍しく焦った様子で視線を彷徨わせる鈴木さんに、私の方まで顔が熱くなった。
鈴木さんは一度、大きく息を吸って吐いてから、静かに続ける。
「でも、本心」
その言葉が、胸の奥にじん、と染み込んだ。
「……て、そもそも浮気自体、相手が誰であれ、するべきじゃないことだけどね」
少し照れたようにそう言う鈴木さんに、思わず、ふふっと笑ってしまう。
「その通りですね。……だけど、そんな風に言って貰えたの、なんだか嬉しかったです。鈴木さん、ありがとうございます」
そう伝えると、鈴木さんは、ふわっと優しい笑顔で微笑んでくれた。
「いいえ、こちらこそ」
その時、心臓がドキリと、大きく音を立てて跳ねた。
これが何を意味しているのか、まだ、はっきりとは分からない。
だけど確かに、私の中で何かが少しずつ、確実に変わり始めているのを感じた。
本作を見つけてくださり、お読みいただき、ありがとうございました!
本作は毎週水曜と土曜日に一話ずつ投稿していきます。
次の投稿は、1月31日(土)7:00です。
引き続き、お読みいただけますと嬉しいです。どうぞ応援のほどよろしくお願いいたします。
陽ノ下 咲




