第44話ノワール、妲己と共に過去へ向き合う
【慶長20年(1615年)五月一日 妲己 2715歳 ノワール 430歳 伊勢国 度会郡 宇治 伊勢神宮ダンジョン 三階層】
覚悟を決めたあたし達は、『根』の映像に目を向けた。
朝の光の中で、三人の少女が並んで立っている。
ノワールと、確かノワールと姉妹のセレナとルナだったかしら?
多分、ノワールより大きい子がセレナで、小さい方がルナじゃないかと思う。
背を反らして伸びをした拍子に、ノワールの髪が乱れる。
セレナが、それを当然のように指で整えた。
反対側では、ルナがその袖を引いて、何かを訴えるように笑っている。
――近い。
誰もが、誰かの手の届く場所にいる。
あたしの隣でノワールの呼吸が、僅かに乱れた。
その視線の先で、三人の足元にあった草が、いつの間にか丸い石へと変わっていた。
水面だった。
セレナが石を拾い、軽く振りかぶる。
弾かれた石が、水の上を幾度も跳ねた。
それを見て、ルナが真似るように投げ――大きな音を立てて沈む。
ノワールは、二人を見て笑っていた。
「……っ」
すぐ側で、吸い損ねたような短い音がノワールの喉から漏れた。
その笑みを包んでいた空気が、湿り気を帯びていく。
水面の反射が、細い線となって降り続く雨へと変わっていた。
傘が差し出される。
小さな頭に、布が乗せられる。
三人は寄り添うように歩いている。
誰も、濡れたままではいない。
誰かが、必ず何かをしている。
隣のノワールの肩が、目に見えて震え始めた。
雨音の代わりに、ぱちりと木の爆ぜる音が響く。
焚き火だった。
一人が本を開き、静かに読み上げている。
その膝元で、毛布をかけられた小さな身体が揺れた。
やがて力が抜け、中央の少女の膝へと体重を預ける。
毛布の端を、もう一人が整えた。
「……ぁ……」
隣のノワールの目が、焦点を失ったように揺れていた。
火の色が、橙から群青へと移ろっていく。
気づけば三人は、丘の上に立っていた。
一人が、何かを見つけたように駆け出す。
遅れて、もう一人が慌ててその背を追った。
手を伸ばして掴もうとした瞬間、逆に腕を引かれる。
足元がもつれ、体勢を崩しかけたところを、三人目が横から支えた。
笑い声が弾ける。
掴んだはずの手を振りほどかれ、今度は別の袖が引かれる。
引かれた勢いのまま、三人の足取りが乱れ――互いに掴み合う。
支えたはずの手首を、今度は逆に引き寄せられる。
よろめいた身体を押し返すようにして、別の肩へとぶつかり、
弾かれた腕が、また誰かの袖を掴んだ。
笑い声が、途切れない。
隣のノワールの呼吸が、浅く、速くなっているのが分かった。
あたしは映像に違和感、というか共通点を感じた。
(……一人で、いる時間を……)
喉元まで出かかった言葉を、あたしは飲み込んだ。
(……知らない……?)
確証がない。
でも、どの記憶の中にも、
必ず――誰かが、いた。
ノワールの指が、小さく震えている。
それは寒さではないと、分かるほどに。
風に揺れる花の中で、二人が何かを編んでいる。
白い指先が、茎を撚り合わせ、小さな輪を形作っていく。
出来上がったそれを、セレナがそっと持ち上げ――
ノワールの頭に乗せた。
少しだけ視界が遮られ、ノワールが目を瞬かせる。
それを見て、ルナが弾むように声を上げた。
跳ねる足取りのまま、正面へ回り込み、何度も頷いて見せる。
ノワールは、困ったように視線を逸らし――
それでも、外さないまま笑っていた。
「……っ」
隣から、ひゅっ、ひゅっ、と細い息の音が漏れた。
喉が強張っているのか、吸うたびに空気が擦れるような音になっている。
白く染まった地面に、膝をつく影がある。
セレナの掌の中で、雪が丸められていく。
形を整えられたそれを、ルナが受け取り――そのまま放った。
不意に肩口へ当たり、ノワールが身を竦める。
ぱらぱらと崩れ落ちる雪片を見下ろし、戸惑うように顔を上げた瞬間、もう一つが頬を掠めた。
楽しげな笑い声が、すぐ傍で弾けている。
ノワールは、抗議するように何かを言いかけて――
結局、言葉にならないまま二人を見ていた。
ふいに、袖口が引かれた。
ノワールの指が震えたまま、布を掴んでいる。
力は弱いのに、離れようとしない。
あたしは慌ててノワールに話しかけようとしたけど――
「……見る」
「誓……た」
そうか。そうだ、あたし達はノワールのこのパニックを過去を見て止めると誓った。
だったら最後まで見ないといけない。
袖を掴むノワールの震えが、あたしの腕にまで伝わってくる。
それでも、あたしはノワールの方を向かず、映像を見続ける。
夜の帳の下で、セレナの指先が空をなぞる。
星と星を結ぶように、ゆっくりと軌跡を描いていく。
その動きを、ノワールは黙って追っていた。
肩口に触れるほどの距離で、ルナが同じ空を見上げている。
やがて、不意にその腕が跳ねた。
勢いのまま、指が空を指し示す。
ノワールの視線も、つられるようにその先へ向けられた。
流れる光が、闇を横切っていく。
ルナの声が、ノワールのすぐ隣で、弾んでいた。
星空は、今も流れ続けている。
視界の端で、ノワールの肩が――止まった。
さっきまで、あたしの袖を掴んだまま、細かく、止め処なく震えていた指先が、動かない。
呼吸は浅いまま。
視線は、どこにも焦点を結ばず、ただ映像の向こう側を滑っている。
――また、動けなくなった。
胸の奥が、ひやりと冷える。
ふと、二階層でぐちゃぐちゃに混ざり合った感情に耐え切れず、動けなくなった自分を思い出した。
あの時のあたしみたいに、ノワールも突然、過去の情報をたくさん見過ぎて、処理しきれなくなったのかも知れない。
だとすると、このまま見せ続ければ、たぶん――まずい。
あたしは、ノワールの目元に手を伸ばした。
動けないノワールは自分で目を閉じるのも難しいと思ったからだ。
「……わ……た……し……」
小さく、音にならない声が零れる。
「……な……に……も……」
意味にならない断片が、落ちる。
あたしは、それを拾う。
ノワールは必死に言ってくれている。
何を言いたいのか掴まないといけない。
だから、ただ聞き返す。
「……『私』……?」
ノワールが頷く。どうやら合ってたみたいだ。
「……し……て……な……」
「……『していない』……?」
喉が、かすかに上下する。
「……み……た……」
「……『見た』……?」
ノワールが首を振るう。違うのか。
「……さ……れ……て……」
「……『満たされて』……?」
それ以上は、言わない。
そこで、あたしは口を閉じた。
余計な言葉を挟めば、ノワールの掴もうとしている何かを壊してしまう気がした。
だから、ただ今の言葉だけを胸の内にそっと置く。
ノワールの呼吸が、ひとつ乱れた。
目元を覆ったあたしの手の下で、
視線が揺れるのが分かる。
「……わた、し……」
唇が、震える。
「……なにも……」
浅く息を吸って、
「……して……なかった……」
一度、言葉が落ちる。
止まる。
それから。
もう一度、息を吸って。
「……それ、でも……」
初めて、自分で、繋ぐ。
「……みた……されて……た……」
そのまま、ノワールの呼吸が止まったように静かになる。
震えていた指先も、いつの間にか、あたしの袖を掴んだまま動かない。
目元を覆った手の下で、視線の揺れだけが、ゆっくりと収まっていくのが分かった。
あたしは、何も言わなかった。
ただ、そのまま待つ。
「大丈夫?まだ過去が見れそう?」
「……見る」
夕焼けに染まった道を、三人で歩いている。
セレナの右手を、ノワールが握っている。
ノワールの左手を、ルナが握っている。
ただ、それだけだ。
誰も喋らない。
何かをしようとする気配もない。
歩調は揃っているが、どこへ向かっているのかも分からない。
橙色の光が、三人の背を長く引き延ばして、地面の上に、三つの影を並べていた。
その影もまた、手を繋いだまま、ゆっくりと揺れている。
変わらない。
何も起きない。
ただ、三人で歩いているだけの時間が、静かに流れていく。
ふいに、袖を引かれた。
小さく、けれど明確な力で。
震えとは違う。
止まらない痙攣のような揺れではなく、意思を持った動き。
妲己はそちらへ顔を向ける。
「……どうしたの?」
すぐには、返事がなかった。
呼吸の浅い音だけが、わずかに乱れている。
やがて――
「……だれも……」
途切れ途切れの声が、落ちた。
「……なにも……」
喉に引っかかるように、言葉が止まり、
「……してなかった……」
そこで、沈黙する。
続きは出てこない。
けれど、袖を掴む力だけが、まだ離れなかった。
私はノワールの手元を見つめ、
ゆっくりと視線を根の方へ戻す。
そこは、真っ暗だった。
何も映っていない。
音も、光もない。
次の瞬間――
夕焼けの色が、視界いっぱいに広がった。
橙に染まる一本道。
長く伸びる影。
ゆっくりと沈んでいく光。
――見覚えのある帰り道だった。
ただひとつだけ違うのは。
歩いているのが、ノワールひとりだということ。
左右に誰の姿もない。
手も繋いでいない。
歩調は一定で、視線は前へ向いている。
影は、ひとつだけ。
ノワールは立ち止まらない。
ただ、前へ進んでいく。
そのまま、映像は静かに途切れた。
視界が現在に戻る。
その瞬間、私は息を呑んだ。
ノワールの呼吸が静かに整っている。
肩の力がふっと抜けている。
震えが止まり――
口元が、わずかに緩んでいた。
さっきまでの強い緊張の気配は、どこにもない。
「……さっきの映像では、私は満たされていたんだと思う」
落ち着いた声だった。
ノワールは続ける。
「でも、今見た映像の私は……満たされていなかった」
私は何も言わない。
ただ、彼女の言葉を待つ。
ノワールはゆっくりと視線を落とし、
静かに言葉を紡いだ。
「歩いていたかどうかじゃない。何をしていたかでもない。……誰も、いなかったからだ」
その声は、震えていなかった。
「……独りだったから、分からなくなっていたんだと思う」
呼吸は深く、安定している。
姿勢も、視線も、まっすぐだった。
しばらくして、ノワールは小さく呟いた。
「……ずっと、同じだった」
その言葉に、意味を足すことはしない。
私も、ノワールも。
ただ、事実としてそこに置かれる。
ノワールは静かに息を整えたまま、前を見ていた。
震えは戻らず、表情は落ち着いている。




