第二十三章
残暑を匂わせる陽光が、天文台へと続く緩やかな坂道に明るい影を落としていた。武の松葉杖は、佑也が持っている。武のリハビリは順調で、松葉杖が無くても歩けるのだ。だが、どうしても、武の足取りは緩慢だ。
佑也と理子は、武のペースに合わせてゆっくりと歩を進めていた。武の足音と、理子の静かな息遣いが、透明感のある昼下がりの空気に溶け込んでいた。
武が突然声を上げ、前方を指さした。
「あ、あそこに天文台が見えてきた!」
建物の白壁が夏の日差しに眩しく輝いている。
「うん、もうすぐだね。でも無理せず行こう」
佑也が声をかけると、武は少し照れくさそうに頷いた。
二人の話を黙って聞いていた、理子がふと呟く。
「美咲お姉さん、来られたらよかったのに。急な学校の用事って、高校生にもなると大変……」
「そうだな」
佑也は、そう応えながら、全くだ、と呟いていた。
そもそも、今日のセラフィム主催の天文台・美術館ツアーに誘ったのは、美咲の方である。セラフィムがバスを借り切って、患者とその家族を招待するのである。参加費は、天文台や美術館の入場料のみの格安ツアーである。
もちろん、武や理子ちゃんの付き添いもあるが、美術部の美咲自身が来たかった筈だ。だから、美咲が、巫女訓練の為に行けない、と言い出した時は、佑也はちょっと驚いた。
そして、一方、自分でも不思議なのだが、リハビリ中に時間を見つけて、簡単な絵のスケッチをするようになっていた。それが思ったより楽しい。
佑也は理子の言葉に頷きながら、ふと立ち止まった。佑也は坂の途中にあるベンチを指さし、声をかける。
「ちょっと休もうか?」
武は、少し息を切らしていたようで、素直にベンチへと向かっていった。
三人がベンチに腰を下ろすと、諏訪湖の青い水面が一望できた。穏やかな湖面に、白い雲が映り込んでいる。
武は、佑也に、有難う、と言いながら、松葉杖を、自分の手に受け取った。
「ねえ、佑也先輩」
武が松葉杖を両手で握りしめながら話し始めた。
「美術館って、どんな絵があるんですか?」
「ここは天文台だから、空や宇宙の絵とか」
「へえー、宇宙の絵。なんだか、凄いや」
「うん」と佑也。「西洋の絵や、日本の新進画家の絵とか。結構、価値があるものも展示してるらしいよ」
「価値がある?」
佑也がちょっと考えて言う。
「お値段がする、って感じかな」
武が、大人ぶって言う。
「へえー、そりゃ凄いや。……目に焼き付けてかないと」
「焼き付ける、なんて難しい言葉、よく知ってるな」
理子が口挟む。
「この前、娯楽室のテレビで言ってたもんね」
「あ、理子ちゃん、駄目だよ、言っちゃ」
そう言うと、武は、理子を軽くぶつ真似をする。
そんな二人を見ながら、佑也は、内心、来てよかった、と思った。武の笑顔を、久々に見た気がする。
ふと、理子が、佑也に話しかける。
「私ね、実は、美咲お姉さんから、この人の絵を見て来なさい、って言われてるの」
「へえー、美咲お姉さん、美術部だもんね」
と、武が口をはさむ。
「うん。風見朝陽の人の絵を見てきなさい、だって」
「その人の絵が、お値段がする絵なのかな?」
理子が、窘めるように言う。
「武君、駄目よ。そんなお金のことばっか考えてちゃ」
「うん」
と、武が、笑いながら、頭を書く。
「でも、美咲さんが言ってた。これから偉くなるって、風見朝陽は」
「へえー」
と、佑也も相槌を打つ。
そして、理子が嬉しそうに付け加えた。
「お母さんも、行けたら良かったって言ってたけど、お仕事だから」
「うん、ウチもそうだ」
透明な空気の中、理子と武の言葉は優しく溶けていった。
しかし、佑也は、この穏やかな時間の中に、どこか引っ掛かるような違和感を感じていた。それは、何だか、佑也にも分かってなかった。
「そろそろ行こうか」
佑也が立ち上がり、武の松葉杖をサポートする。理子も静かに立ち上がり、三人は再び歩き始めた。その時、佑也の目に一瞬、赤白い光が映った。天文台の建物の窓から漏れる、不自然な輝き。しかし、それは一瞬の出来事だった。
「今日は楽しみだね」
武の無邪気な笑顔に、佑也は自分の感じた違和感を押し殺すことにした。三人の影が、天文台へと伸びていく道にくっきりと映し出されていた。
展示室に入ると、柔らかな昼の光が天窓から差し込んでいた。壁面には星空や天体を描いた西洋の絵画が並び、廊下の奥には風見朝陽の個展スペースが設けられていた。
武が松葉杖をつきながら、最初の一枚に見入っていた。満月の光に照らされた雲海を描いた風景画だ。
「すごい! 本物の月明かりみたい」
その横で理子も、神秘的な光の表現に息を呑んでいる。
佑也は少し遅れて、絵の前に立った。月光を受けた雲の表現に、心を奪われる。何かが、深く心に触れてくるような感覚。まるで自分の中の何かが、この美しさに呼応するかのように。
武がちょっと、気取った声で言う。
「佑也先輩、次の部屋にも素敵な絵があるようだよ」
隣の展示室には、風見朝陽の作品が展示されていた。一枚の絵の前で、佑也は足を止めた。星空の絵は、どこか懐かしさを感じさせる不思議な魅力を放っていた。諏訪湖上空に広がる天の川を描いたその作品は、星々の瞬きを独特の色彩で表現していた。
「これ、私たちの諏訪の空だね」
理子の声が、静かに響く。
「なんだか、見ているだけで心が落ち着くね」
佑也もその言葉に同意していた。しかし同時に、作品の中に潜む何か神秘的なものを感じ取っていた。それは、理解できない強い引力のようなものだった。
その時、展示室の空調から微かな振動が伝わってきた。誰も気に留めない様な微かな異変。佑也は、美術品の傍を行き交う来館者たちの姿を見渡した。家族連れや、セラフィスの患者たちが、それぞれに作品を楽しんでいる。
しかし、リンネの姿はどこにも見当たらなかった。彼女は同行しているはずだったが、今は不在のようだった。さっき、感じた違和感はこれか。
その時、もう一度、より強い振動が伝わってきた。天窓から差し込む光が、一瞬、赤白く明滅したような気がした。佑也の中に、漠然とした不安が広がっていく。武と理子は、まだ風見朝陽の星空の作品に見入っていた。
展示室の空気が、少しずつ変わり始めたのに、佑也だけが気づいていた。
やがて、一際、大きな異音が、展示室内に響き渡った。
そして、一瞬の赤白い光の明滅の後、水冷システムからの断続的な異音が続く。天窓から差し込む光が、再び不自然な色に染まる。
展示室内が、喧騒に包まれ出した。
「武君、理子ちゃん」
佑也は二人を呼び寄せた。
水冷システムの振動は次第に大きくなり、天窓のガラスが軋むような音を立て始めた。壁に掛けられた絵画が、微かに揺れている。来場者たちの間にざわめきが広がっていた。そのざわめきはパニックに変わろうとしていた。
佑也は、武井の松葉杖に目を落とす。このままでは、武が逃げ切れない。恐らく、理子も。そして、この部屋の美術品も危険にさらされる。佑也は目を閉じ、考える。
――駄目だ、俺の力じゃ、武も理子ちゃんも、そして、美術品も、何一つ、救えない。
――馬鹿、美術品なんて、どうだって、いいだろう!
佑也には、もちろん、九尾の狐との契約につけた条件が念頭にあった。契約前に、一度だけ、九尾の狐の力を使わせてくれ、と条件をつけた。そしたら、九尾の狐は、分身を寄越す、と約束した。今もいる筈だ。
――糞っ。
でもこの条件は、フラムとの戦いを想定してつけたものだった。
武と理子が、佑也のTシャツの裾を引っ張る。
「佑也先輩、僕たちも逃げよう」
しかし、そういう武の言葉は、頼りないものだった。武の視線の先の、展示室の狭い出入口に、人々が殺到し、パニックになっていたからだ。
不意に、佑也の脳裏に、美咲の言葉が蘇った。
「佑也君、サッカーでゴールを決める時のことを思い出して。つべこべ言わない、あれこれ考えない、腹をくくる、そうでしょ?」
「へえー、分かってんじゃねーか」
「今がその時なのよ、私も、佑也君も」
美咲は、楽しみにしていた今日の展示会をキャンセルして、巫女訓練をしている。美咲は美咲也に、腹をくくったってことか。
佑也は、カッと目を見開くと、強く念じた。
「おい、九尾の狐、いや、九尾殿か。分身の力を貸してくれ」
すると、佑也の脳内に、九尾の狐の声が響いた。
「いいのか? フラムとの戦いはどうする? わらわは助けはせぬぞ。いちいち新米の尻ぬぐいなどせぬ」
「ああ、分かってる。いいから、武と理子、セラフィムの患者の救出だ」
その場に往生しているのは、武と理子だけでなかった。セラフィムの患者の多くは、リハビリ中の患者だ。機敏に、動きたくても動けない者が多い。
鼻で笑った様な、九尾の狐の声が、佑也の脳内に木霊する。
「よかろう。状況は理解している様だ。わらわの力を貸してやる」
天窓のガラスが大きく軋む音を立てる。展示室の空気が、一気に凍り付いたように感じられた。佑也が、武と理子を見ると、二人は不安そうな表情で天窓を見上げていた。その視線の先で、ガラスの亀裂が広がりつつある。冷却水の配管から、不吉な音が響いてきた。
そして、佑也の心の中で、九尾の分身の気配が大きく波打った。この一度きりの力の使用が、契約への扉を開くことになる。
美術館スタッフの避難の声が大きくなった時、天窓が大きく軋んだ。その音と共に、赤白い光が展示室全体を不気味に照らし出した。
地下室では、リンネの目がモニターに釘付けになる。赤白く輝く画面には、折れ線グラフと数値が次々と更新されていく。魂の純度を示す値が予想以上の高さを示し、それに呼応するように水冷システムの反応値も跳ね上がっていた。
「予想以上の反応値。ついに、フラムの実験は成功だわ」
薄暗い実験室に、リンネの囁くような声が響く。満足げに微笑む彼女の瞳が、モニターの赤白い光を反射して翡翠色に輝いていた。白衣の裾が静かにはためき、その姿は一瞬、黒い尖った帽子を被った魔女のそれに重なる。
その時、地上の展示室で、天窓が大きく軋んだ──。
その瞬間、佑也の目の前に、淡い銀色の光を纏った狐の姿が浮かび上がった。しかし、それを見ることができたのは佑也だけだった。
銀色の狐は、さっと辺りを見回すと、呟やきながら、歩き出した。
「人間は愚かだねぇ」
佑也が銀色の狐の視線の先を追うと、そこには非常口を示す緑色のランプが灯っていた。天窓から降り注ぐ赤白い光の中で、その緑色が妙に鮮やかに見える。
「皆さん! こちらです!」
佑也は声を張り上げた。
「僕に続いてください!」
武を背負い、理子の手を取ったまま、佑也は銀色の狐の後を追う。他のセラフィスの患者たちも、ゆっくりと、しかし整然と佑也の後に続いていく。
その時、天窓のガラスが大きな音を立てて砕け散った。破片が雨のように降り注ぎ、冷却水が赤白い光を帯びて滝のように流れ落ちる。
しかし不思議なことに、それらは誰にも触れることはなかった。まるで見えない壁に阻まれたかのように、佑也たちの周囲で宙に浮かんでは、静かに横に逸れていく。武も理子も、他の患者たちも、その異常に気づく余裕は無かった。
九尾の分身が作り出した結界──佑也にだけは見えていた。銀色の光が、まるでドームのように人々を包み込んでいるのだ。
佑也の声が響く。
「あと少しです! 慌てないで、ゆっくり!」
非常階段に辿り着くと、銀色の狐は先頭に立って降り始めた。佑也は背負った武の体が揺れないよう、慎重に足を運ぶ。理子も手すりを掴みながら、ゆっくりと降りていく。他の患者たちも、互いを支え合いながら、一歩一歩、確実に階段を下りていった。
やがて一行は天文台の中庭に辿り着いた。夏の陽光が、眩しいほどに降り注いでいる。 佑也が、ホッと一息、ついていると、リンネが心配そうな表情で駆け寄ってきた。佑也が辺りを見回しても、銀色の狐の姿は、もうない。
リンネが心配げな声を挙げる。
「大丈夫? 怪我はない?」
リンネの声に、武と理子が安堵の表情を浮かべる。
「リンネ先生!」
二人は彼女に抱きつくように寄り添った。
「ごめんなさい。別の患者さんたちを誘導していて」
――嘘だ!
リンネの言葉に、佑也は怒りを覚えた。今日の見学会に参加していた患者は、自分たちと一緒に、あの展示室にいた筈だ。
リンネ、お前は何処で何をしていた?
佑也の胸の内で疑問が渦巻く。しかし表情には出さず、武と理子の様子を気遣った。
佑也が美術館の建物を見上げると、美術館の窓からは、まだうっすらと赤白い光が漏れているように見えた。
佑也は、ふとリンネと視線が合った。佑也は、リンネの美貌を見つめている内に、ふとあるアイデアが浮かんできた。
しかし、佑也は慌てて、首を振る。馬鹿らしい。




