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月の道  作者: 月上まもる
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第十三章

「光頭様~」

 井波が、水月神社の境内に足を踏み入れると、美咲の軽やかな声が呼びかけてきた。

 最近は、井波も水月神社に足を運ぶのが二~三日に一日になってきた。

 美咲が毎日、来てくれるので、境内の履き掃除は任せていた。

「おお、美咲様。精が出ますのお」

 美咲が、竹ぼうきをもって、タタッと井波に駆け寄って来る。

「光頭様には、及びません」

 美咲なりの世辞だろう。

 だが、井波はちょっと、警戒した。美咲がこうやって、呼びかけてくるのは珍しい。ということは――。

 井波の胸の内と呼応するように、美咲が、逡巡なく、言う。

「光頭様、ムシのいいお願いが一つ、ございます」

「おお、それは美咲様。なんでしょう?」

「巫女の修行をつけて欲しいです」

「おお、巫女になられる決心をつけましたか?」

「いえ、未だわかりません。どちらかというと、巫女にはならないと思います。ただ、巫女の力が欲しいのです」

 井波は、目を見開いて、言った。

「なんと!」と、井波。「巫女にはならぬが、巫女の力が欲しい、と」

 美咲が、流石に、おずおずと言う。

「駄目でしょうか?」

「いやはや、もはや禅問答ですな」

 それから、井波は押し黙ってしまった。

 美咲が、フーと、溜息をついた。

「駄目ですよね、やっぱり」

 すると、井波は、意外な答えをした。

「なんのなんの、もちろん、承知ですじゃ」

 美咲の目がパッと光輝く。

「えっ、いいんですか!」

「いいですとも」と、井波。「然るに、私に、巫女の修行をつけることは出来ませぬ故、どなたに、美咲様を託したらいいか、考えておりましたのじゃ」

「はい!」

「それで、適任者が思いつきました」と、井波。「但し――」

「但し?」

「お師匠様は、美咲様よりお若い」

「お幾つでしょうか?」

「今年で、十五歳になりまする」

「随分、お若いですのねえ」

 そこで、井波は、真顔を作って、美咲を見つめた。

「お師匠様は末恐ろしい方ですぞ。決して、見た目に騙されぬ様に。まあ、美咲様のことですので、大丈夫だとは思いますが」


 「霧空大社・巫女 水無月かれん」

 翌朝、美咲は、霧空大社を訪ねた。善は急げだ。井波が達筆で走らせたメモには、この様に記されていた。かれんには、井波が連絡を入れておいてくれるという。

 霧空大社は、諏訪湖を挟んで、水月神社とは対岸にある。

 霧空大社は、由緒ある神社だが、市街からは、水月神社の方が近いので、美咲には、水月神社の方が馴染みがあった。

 霧がかかったような朝もやの中、美咲は霧空大社の石段を一歩一歩上っていった。境内に足を踏み入れると、空気が一段と清々しく変わる。静寂の中に鳥のさえずりだけが響いていた。

 境内の奥に聳える月見の杉の前で、一人の少女が待ち構えていたかのように立っていた。丸みを帯びた可愛らしい顔立ちで、黒髪が腰まで届くほど長い。巫女装束を身にまとい、凛とした佇まいながら、どこか人懐っこい雰囲気も漂わせている。

 少女は穏やかな微笑みを浮かべながら、美咲に向かって深々と一礼した。

「水無月かれんです」

 美咲も丁寧に頭を下げる。

「神崎美咲と申します。井波様からご紹介いただき、巫女の修行をお願いしたくて参りました」

「はい、井波様から伺っております」

 かれんは微笑んだまま、境内の隅に置かれた古い石台へと歩み寄った。その上には青銅の円鏡が据えられ、清らかな湧き水が満ちていた。

 かれんは鏡の前で手を合わせ、優しく語りかけるように言った。

「龍ちゃん、貴方の巫女さんが参りましたよ」

「龍ちゃん?!」

 美咲の驚愕を余所に、辺りは、静けさが支配した。と思った束の間、鏡面が波打つように揺らめき、水面から淡い光が立ち昇った。光は次第に形を成し、龍の姿となって宙を舞った。

 神々しい存在感に、美咲は思わず息を呑む、と同時に、驚愕した。

 かれんは美咲と違って、毎日、龍神様の住むと言われる水月神社の前で、瞑想している訳ではない。なのに、鈴も使わずに、さっと、龍神様を呼び出してしまった。

 しかし、その光景は束の間のものだった。龍の姿は霧のように薄れ、やがて完全に消えてしまう。再び静寂が訪れた境内で、かれんは美咲の方を向いた。その表情は先ほどまでの柔らかさから一転し、厳しさを帯びていた。

「巫女の稽古をつける件ですが、テストを受けてもらいます」

 その声音には、年齢以上の威厳が感じられた。井波の言葉を思い出し、美咲は背筋を正した。確かに、目の前の少女は単なる十五歳の巫女ではない……。

 しかし、かれんは、悪戯っぽく笑いながら、付け加えた。

「もっとも、汗をかくのは私の方です。ご安心下さい」


 かれんは美咲を神楽殿へと案内した。

 朝もやの中、木造の建物が神々しく佇んでいる。二人が履物を脱いで上がると、磨き上げられた板張りの床が光を穏やかに反射していた。

 かれんが、美咲に言う。

「これから、私が神楽舞を二回踊ります。同じ演目です。違いを教えてください」

 かれんの声は、先ほどの厳かさを残しながらも、どこか温かみを帯びていた。

 美咲は心の中で呟いた。

 ――同じ演目で違い? 細かな所作に違いがあるということかしら?

 かれんは神楽殿の端に歩み寄ると、柄杓を手に取った。水を掬い、床に半円を描くように水滴を落とした。

 そして、かれんは、神々への敬意を込めて、凛と告げた。

「奉納させていただきます」

 かれんは神楽殿の中央へと進み、姿勢を正した。扇を持つ手に力が入る。そして、静寂の中、舞が始まった。かれんの演目は、浦安の舞である。無論、美咲には、浦安の舞であることは分からない。

 かれんの舞は、一羽の燕のように、美咲の目の前で息づいていた。

 白い袖が空気を切り、扇が描く軌跡が残像となって残る。所作の一つ一つが鮮やかで、かれんの動きには確かな力強さがあった。それでいて、決して荒々しくはない。むしろ、清らかな水が流れるような優美さだった。

 そして、何より、一つの一つの所作が速い。べらぼうに速い。

 恐らく、演目のテーマからは脱している。

 かれんは、神楽舞を極限の速さで踊っているのだ。

 この舞が、かれんの能力の全てではないだろうが、なるほど、光頭様が、かれんのことを末恐ろしい、と言った意味が、美咲にも分かった。

 美咲は、テストであることを忘れて、その舞の美しさに魅入られていた。時間の感覚が曖昧になり、ただ目の前で展開される神聖な、そして、高速の世界に浸っていた。

 不意に、かれんが、神楽殿の中心で静かに立ち止まった。

 かれんの白い袖が僅かに揺れ、やがて止まる。ゆっくりとその場で回転し、東西南北それぞれの方角に向かって深々と一礼を捧げた。最後に美咲の方を向き、もう一度丁寧に頭を下げる。

 かれんは、一度目の舞を終えたのだ。

 次いで、かれんは神楽殿の端に歩み寄り、清めの柄杓を手に取った。澄んだ水を掬い、床に数滴落とす。

 かれんは、水滴が木目に染み込んでいくのを見つめながら、

「続けて、もう一度奉納させていただきます」

と静かに告げた。

 その声には、十五歳とは思えない厳かさが宿っていた。

 かれんの二度目の舞が始まった。

 やはり、何より、一つの一つの所作が速い。べらぼうに速い。

 でも、何かが違う。

 美咲にも、そこまでは分かった。

 だが、やはり、美咲は、かれんの舞の美しさに魅入られ、時間の感覚が曖昧になってしまった。

 いつの間にか、かれんは二度目の舞も終え、東西南北それぞれの方角に向かって深々と一礼を捧げた。そして、最後に美咲の方を向き、もう一度丁寧に頭を下げる。

 かれんは、そのまま、美咲の元に寄ってくると、落ち着いた声で説明を始めた。

「浦安の舞は、神様に平安を願う舞です。清浄な場を作り出し、穏やかな心で祈りを捧げる。それが、この舞の本質です。この舞は、神様の御前に清らかな場を整える所作から始まります。私たちは扇を使って邪気を払い、祓い清めていきます。そして、八方を順に向き、それぞれの方角の神々に敬意を示します。ゆっくりと回るような動きは、天と地の調和を表しています」

 かれんは手に持つ扇を少し開きながら、続けた。

「扇の開閉には深い意味が込められています。開くときは神様の恩恵が広がっていくことを、閉じるときは私たちの祈りを一点に集中させることを表現しています。袖を大きく広げる所作は、神様の加護が全てを包み込むように、という願いの形なのです」

 そして、かれんは、悪戯っぽく、付け加えた。

「特に大切なのは、激しい動きを抑え、穏やかさを保つこと。これは、私たち人の世にも、同じような静けさと安らぎが訪れますように、という祈りが込められているからです」

 美咲は、内心、唸った。

 激しい動きを抑え、穏やかさを保つ。

 その舞を、かれんは、敢えて、高速で、極限の高速で踊って見せたのだ。

 確かに、高速であることイコール激しい動きではないが……。

 その時、一陣の風が、神楽殿を吹き抜けた。

 夏とはいえ、霧空大社は山の中腹にある。また、時間も午前中だ。冷たいともいえる風が、美咲の頬を打った。ひと汗かいた、かれんにはちょうどいい風だったろう。

 かれんの瞳が、真剣な光を帯びた。

「さて、美咲さん、一度目の舞と二度目の舞、違いは分かりましたか?」

 美咲は、必死に、思考を巡らす。

 恐らく、ヒントは、所作が高速であること、だ。そして、美咲にも感じ取れた、同じ高速でも、一度目と二度目、何かが違う。しかし、その何かが分からない。

 しばらくの間、沈黙が支配し、そして、美咲は、白旗を挙げた。

「……分かりません。降参です」

「あら、修行は諦めるのですか?」

「そういう訳ではありませんが」

 かれんは、ふふっ、と笑うと言った。

「まあ、そうおっしゃらず、美咲さんが考えたことを、お聞かせくださいませ」

「はあ」

と、美咲は浮かない顔をする。

「ヒントは、一つの一つの所作が高速であること、だと思います。そして、同じ高速でも、一度目と二度目で何かが違う、その様に思いました」

 ――こんな答案、学校のテストで書いたら、放課後、呼び出しだわ。

 かれんが、無邪気ともいえる感じで、美咲に問う。

「何が違うのでしょう?」

 美咲は、内心、深いため息を付く。

「それが分からないのです」

 かれんは、クスッと笑いながら、言った。

「合格です」

「えっ」

「テストは合格です」

「合格ですか」

「はい」と、かれん。「もっとも、井波様に頼まれたことですので、採点基準は大甘ですが。それに……」

「それに?」

「もしかしたら、私が完璧だったかもしれないので」

 美咲は、ちょっと、考えて、言う。

「かれんさんが完璧だと、私には、正解しようがない、ということですか?」

「はい、説明しますね」

「お願いします」

「一度目と二度目の違いは、呼吸です」

「呼吸?」

「はい。一度目は、要所要所で、息を吸っていました。ちょうど、泳ぐときの息継ぎですね。但し、演目の中で下を向いたり、美咲さんから見て、背中を見せる時に、見計らって、息を吸ってました。それも、出来るだけ、小さく短く」

 美咲にも、かれんの言わんとすることが分かって来た。

 かれんが続ける。

「二度目は、無呼吸です。潜水する時の様に、一気に演じました。浦安の舞の演目時間なら、これが可能なのです」

「……」

「ですから、恐らく多分、一度目の方が、一見、メリハリのあるような所作、二度目は、特に最後の方は、息苦しさのようなものが出てたと思います」

「……」

「だからもし、私が完璧だったら、美咲さんは正解を言い当てることが出来ない。でも、実際は、美咲さんが何かが違う、と感じ取られたのでしたから、私もまだまだ、完璧でない、修行中の身である、ということです」

 美咲は、内心、呻いた。

 何だろう、この王手飛車をかけられたような、理不尽な感じ。

 かれんは、そんな美咲の困惑を知ってか、更に、一段と、厳しい表情を作って、言った。

「美咲さんは、恐らく、文科系のクラブでしょう?」

「はい、美術部です」

「ここでの修行は、そのどっちかって言うと、体育会系なんです」

「はい」

 これは、かれんの、あの高速の所作を見せつけられた時から、覚悟していた。あんなもの、鍛錬された筋肉がなければ、出来っこない。だが、あの高速の所作に、美咲は、どうしようもない美しさを感じたのも事実だった。

 かれんは、美咲の瞳を覗き込むと、ホッとした様に、言った。

「どうやら、水無月家の訓練のことは、納得して下さっているようですね」

「はい」

 美咲としては、そう頷くしかない。

 かれんは、居ずまいを正すと、話を続けた。

「では、我が水無月家のことをちょっとだけ、話させて頂きます」

 美咲は、黙って頷く。

「水無月家では、男子は、武に励みます。柔道、剣道に取り組んでから、高校生の時から、思い思いの道に行きます。女子は、巫女の修行をします。そして、長年の、代々の修行の経験から、武の道も、巫女の道も、基本は、四つに集約しています」

「……」

「一つは、体の芯を意識し、作ること。一つは、呼吸を意識し、動きは呼吸に調和させること。一つは、重心を意識し、制御すること。一つは、空間を認識し、間を把握すること」

 美咲は、かれんの話を聞きながら、内心、ある決心をしていた。

 ――光頭様、今後、ムシのいいお願いはもう二度としません!

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