第十二章
夏の夜、午後九時を回った旧上諏訪駅周辺の工業団地は、不自然なほどの静けさに包まれていた。街灯が少ないこのエリアでは、月明かりだけが頼りだ。使われなくなった医療機器工場は、錆びついた鉄柵に囲まれ、敷地内には人の背丈ほどの雑草が影のように揺れている。遠くで鳴く虫の声だけが、この場所が完全な廃墟ではないことを主張している。
美咲が静かに呟く。
「ここが噂の場所ね」
千夏が美咲の腕を掴む。
「やっぱり怖いです」
佑也は、月明かりに照らされた工場を見上げながら、懐中電灯の明かりを建物に這わせがら、言う。
「しかしまあ、ちょっとした肝試しだな」
千夏が慌てて言う。
「止めてください。そういうフラグを立てるようなことは」
「なんだフラグって?」
「幽霊が出る、ってことですよ!」と、千夏。「ねえ、美咲さん」
「……そうね」
美咲は気のない返事をしながら、巫女と死者の関係ってどうなってんだろう、と内心思う。――美咲は、例によって、毎日、水月神社に通っているのだが、やることは代り映えしない。境内を清め、池で瞑想するだけだ。代り映えしないが、一日一日が、巫女としての自分の身になっているのを実感できているから、不思議なものだ。とは言うものの、ちょっと飽きてきたのも事実だ。
「美咲さん!」
千夏の声に、美咲は、ハッと我に返る。
「さあ、行きましょう!」
「もう、何ですか、こんな恐怖スポットを目の前にして、ぼーとしちゃって」
「余裕あるじゃねーか、美咲」
「心の準備してたのよ!」
三人は、建物に向かって歩を進めた。
三階建ての灰色の建物は、夜の闇の中でより一層不気味な佇まいを見せている。窓ガラスの多くは曇りや汚れで白濁し、工場としての機能を失って久しいことを物語っていた。
千夏は懐中電灯の光を照らしながら説明する。
「……何か、人が立ち入っている様でもありますよね」
千夏の指摘通り、雑草の中には踏み分け道のような跡が残っていた。三人は建物の外周を慎重に調査していく。
不意に、千夏が、一か所を、指差す。
「ここ、窓が一枚だけ新しいみたい」
確かに、一階の古びた窓枠の中に、一枚だけ異様に透明な窓ガラスが嵌められていた。それは、子供たちが赤白い光を目撃したという場所だろうか。
佑也が言葉を探る。
「他の窓と比べると、まるで……」
「実験室の観察窓みたい」
と、美咲が言葉を継いだ。
夜風が吹き抜けていく。
三人は無言で顔を見合わせた。虫の声が一瞬途切れ、どこか遠くで金属音が響いたような気がした。月明かりに照らされた工場の輪郭が、より一層くっきりと浮かび上がる。
美咲が決意を込めた声で言う。
「入り口を探してみましょう。もし本当にここで何かの実験が行われているなら、確かめる必要があるわ」
佑也と千夏は頷き、懐中電灯の明かりを頼りに、更に、建物の周囲を歩き始めた。夜の闇が三人の動きを慎重にさせる。時折、千夏がスマートフォンで周囲の写真を撮影する。
しばらくして、佑也が声をあげた。
「あれ、裏口じゃねーか」
ちょうど、建物の裏側に回ったところだった。距離にしたら大したことないが、夜間、恐る恐るなので、思ったより、時間がかかっていた。
佑也が、裏口のドアのノブを回すと、ドアは、呆気なく開いた。
「あらら、不用心なこと、この上なし」
と、千夏が言う。
佑也が呟く様に、言う。
「ケッ、誰かが使っている、ってことだろう」
美咲と千夏は、顔を見合わせて、頷き合う。
三人は、工場内部の探索を始めた。
一階は、埃まみれの製造ラインの痕跡が月明かりに照らされ、床に残された無数のボルトの跡が点々と浮かび上がっている。足音を殺しながら進む三人の懐中電灯が、剥がれかけた配管カバーと空っぽの天井レールの影を壁に映し出していく。
美咲が床を照らしながら、言う。
「ここ、最近、人が入っている跡があるわ」
確かに、埃の中に複数の足跡が残されていた。特に奥へと続く一本の通路だけが、比較的きれいに保たれている。
千夏が小さく声を上げる。
「あっ」
壁に設置された配電盤が、かすかに赤白い光を放っていた。「この配電盤、新しいものですね」
千夏が無意識のように、その配電盤に手を伸ばす。
「千夏ちゃん、危ないかも」
美咲の警告が終わらないうちに、千夏の指先が配電盤に触れた。その瞬間、彼女の瞳が赤白く輝き、声が震える。
「見えます地下の様子が……」
佑也と美咲が駆け寄ると、まるで千夏の瞳に映る光景が二人の意識にも共有されるように、地下の様子が、ホログラムのように、鮮明に浮かび上がってきた。
地下実験室への入口。厳重な防護扉の前には、黒いスーツに身を包んだ二人の警備員が立っている。どちらも一八十センチを超える体格で、耳には無線装置を装着している。
実験室には、新しい配管が複雑に張り巡らされ、それらは大きな円筒形の装置へと繋がっている。装置の周りには、赤白い液体の入った試験管が整然と並べられていた。
実験室内では三人のスタッフが作業を進めていた。中央で白衣を着た女性が静かに歩いている。長いブロンドの髪を一つに束ね、深い翡翠色の瞳を持つその姿は、まるで魔法の物語から抜け出してきたかのよう。彼女――リンネは、試験管の列の前で立ち止まり、赤白い液体の様子を丹念に記録している。
循環装置の前では、眼鏡をかけた年配の男性研究員が複雑な計器の調整に当たっていた。また、データ分析用の端末の前では、若い女性スタッフが画面に映し出される数値の変動を見守っている。
実験室の奥には、巨大な循環装置が設置されていた。透明なタンクの中で、赤白い液体がゆっくりと渦を巻いている。その光が実験室全体に幻想的な陰影を投げかけていた。
装置の制御パネルには、「水温」「圧力」「循環量」などの計測値が並び、全てが安定した数値を示している。しかし、その「安定」は何か重大な実験の前触れのようにも感じられた。
リンネが制御パネルに近づき、年配の研究員と短く言葉を交わす。彼女の手が、メインスイッチの上で一瞬躊躇うように止まった後、静かに下ろされた。
すると、循環装置内の赤白い液体が、より速い速度で回転を始める。タンク内で渦を巻く様子は、まるで生き物のように見える。配管を通る液体の流れる音が次第に大きくなり、実験室全体に響き渡る。
「圧力、予定通り上昇」
と、若い女性スタッフが報告する。
「水温、安定。循環システム正常」
と、年配の研究員が応じる。
赤白い光が強さを増していく。その輝きは冷たく、しかし何かを求めるように脈動していた。タンクの中の液体は、今や激しい渦となって回転している。
突如、制御パネルの警告音が鳴り始める。
「圧力、許容範囲の上限に近づいています」
リンネの声が冷静に響く。
「このまま維持して」
配管が軋むような音を立て、実験室の温度が急激に低下していく。研究員たちの吐く息が白く、空気中に霧のように漂う。赤白い光は更に強さを増していく。
リンネが、感慨深げに、呟く。その瞳には、赤白い光が映り込んでいた。
「これがフラム先生の言っていた『融合』」
やがて、女性スタッフの声が、リンネに届いた。
「一分、経ちました」
リンネが宣言する。
「了解。実験は成功です」
リンネはそう言うと、今度は、メインスイッチをオフにした。
実験室内に、実験の成功を喜ぶ空気が流れるのが、千夏の映像を通しても、佑也や美咲、そして、美咲にも分かった。千夏は、自らの指を、配電盤から離した。すると、三人の意識は現実に引き戻された。しかし、目にした光景の余韻が、まだ心の中で鮮明に残っている。
美咲の声が震えている。
「何かの実験なんだわ」
「ああ」
佑也は無言で拳を握りしめる。目にした光景は、確かにセラフィスでの治療と、武の指から漏れ出た赤白い光と、つながっているはずだ。だが、その関係性は分からない。
佑也は、想いを断ち切る様にして、怪我をした左足首に、軽く重心をかけてみた。
痛くない。
今なら、走ることだって出来るだろう。
しかし、相手は、屈強なガードマン二人に、研究スタッフが二人、そして、リンネ。
佑也は、美咲と千夏に、宣言するように言った。
「撤退だ」
やんちゃな千夏も、勝気な美咲も、黙って頷くだけだった。
実験が終わったリンネは、一階にいる佑也の意識に気づいた。
「あら、佑也君」
尚も、意識を集中すると、他に女の子が二人いることが分かった。二人とも、魂が綺麗なのが分かる。それも、一人は、七海澪と同じ波動なのが分かる。七十年前の実験の生き残り? いや、実験体の子孫だろうか。
リンネは、それでも、しばらく考えてから、周囲の研究スタッフに言った。
「今日で、ここは撤収します。フラム先生もきっとご満足頂けるでしょう」
いずれにしろ、この場所は、子供たちを中心に、噂になっていた。撤収する頃合だ。




