最終話 そして二人は
「それではイーリス様」
ニコラスが一礼し、イーリスに右手を差し出す。いつものローブではなく赤の国章が映えるコートをまとう姿は、本物の王子そのものだった。
ニコラスに微笑みかけられ、見惚れるように固まってしまいそうになる。
だけど、二人に向けられた熱視線が、イーリスに今何をすべきかを思い出させた。
「ありがとう、ニコラス」
花が綻ぶような笑みを返し、イーリスはニコラスの手の平に自身の指先を添える。
前代未聞の婚約発表の後、レガードと国王ラーク、アドマンドの三人はニコラスのこれまでの経緯などを、周辺諸国の王族、貴族たちに詳しく説明した。
国から追放され不遇の幼少期を過ごしたこと、プラネーカ王国で災害の復興に尽力していたことが好意的に評価され、ニコラスは一夜にして王子の尊厳を取り戻したのだった。
サハンカ王国の処遇は明日の国際会議で決定することになる。数々の蛮行の清算は、決して安いものではないだろう。
優雅でありながらも、心躍らせるようなオーケストラの音色が響いている。
天井で輝くシャンデリア、静かに揺らめく燭台の火。頬を緩ませる来賓客。
広間は祝福のベールに包まれていた。
もう何も、イーリスとニコラスを遮るものはない。
ニコラスに導かれるようにして出した右足は、練習の時よりも軽やかに床を鳴らした。
♢♢♢
コン、コン、コン。
扉を叩く音が、イーリスの部屋に響く。
「イーリス様、ニコラスです。本日の授業のため参りました」
「入っていいわよ」
扉が開き、ローブ姿のニコラスが入ってくる。開け放たれた窓から吹き込む風が、彼の伸びた髪をふさふさと揺らした。
「髪を切った方がよさそうね」
「そうでしょうか?」
ニコラスはつまんだ毛先を覗き込む。
「当たり前でしょ。あっという間に式の日が来てしまうわ」
イーリスに指を差され、ニコラスは苦々しい笑みを浮かべる。「それに」とイーリスがツンとそっぽを向いた。
「わたしのことはイーリスって呼んでって何度も言ってるでしょ。『様』とか、堅苦しいのはやめて」
もじもじと両手の指を交差させ、イーリスはニコラスを上目遣いに見る。
「わたしたちは、婚約…… してるんだから……」
言葉の途中で、顔が急激に熱をはらんだ。きっと首まで真っ赤になっているだろうと、イーリスは視線を落とし両手を頬に当てる。
「そうですね」
「また言ってるわよ!」
声を大にして言うと、ニコラスは頭の後ろをかきながらおどけたように笑った。
これでは恥ずかしがっている自分がバカみたいだ。
何かいい方法はないかと頭を捻ると、イーリスは部屋の隅に転がったままの鉄球を見つける。
初めてニコラスと出会った日、イーリスの加護が発動して今まさに彼のかいている頭に降ったものだ。
ニヤリと口端を吊り上げ、イーリスはドレスの袖をまくる。
「あの鉄球を一分持ち上げたら、なんでもわたしの言うことを聞く約束だったわね」
「そんな随分前の話を……」
「今更撤回なんて許さないわよ」
呆れ顔のニコラスの前を通り過ぎ、イーリスは鉄球の前に立った。
息を整え、両手をかざす。魔力を注ぐと、丸い鉄の塊が静かに持ち上がる。
ニコラスが現れてから、イーリスの環境は目まぐるしく変わっていった。
魔法を学び、外の世界へと飛び出し、誰かのために生きた。
人が怖いと震えていた自分が嘘みたいだ。まさか婚約するとは思ってもみなかったけれど。
ニコラスはイーリスにとって特別の存在だ。同時に、彼も同じように思っていてくれたらと心底思う。
しばらく空中を漂っていた鉄球が、ゴンと床を打った。
「もう一分は経ったでしょ。さぁ、約束通りわたしをイーリスと呼びなさい」
ニコラスに向き直り、両手を腰に当ててイーリスは胸を張る。
柔和だったニコラスの表情が急に引き締められた。真っすぐにイーリスを見つめ、ニコラスは口を開く。
「イーリス、愛しているよ」
清々しいほどに純粋な言葉に、イーリスはたまらず両手で顔を覆った。引きかけていた体の熱が、再び戻ってくる。
「そ、そこまで言えって言ってないわよ」
照れを隠すように発した言葉は上ずってしまう。
ニコラスはくすりと笑みをこぼす。イーリスは唇を尖らせながらも、釣られるように笑った。
楽しげな二人の声は、開かれた窓から外へと広がっていく。
最後までお読みくださりありがとうございました。
イーリスとニコラスの物語はこれにて完結となります。
また別の物語でもお会いできましたら幸いです。




