散らかったお粥、弾けた炭酸水
「伊勢大弥が好き。」
耳の奥で、瞳の声が、何度も何度も繰り返し聞こえる。リフレイン。リフレイン。リフレイン。
なんで、俺に言うんだよ。しかも、なんでよりによって、大弥なんだ。
眠れない。ベッドの上で、満流は頭を空っぽにしようと天井を見上げる。瞳の黒目がちな大きな眼、そして突然、さっきの浅黒い、彫りの深い瞳の父親が天井に浮かび上がる。瞳と同じ、大きな二重瞼。まっすぐに俺を見た。笑ったときの少し下がった目尻は、瞳と違って、人なつっこく、親しみがもてた。満流よりもさらに高い身長、紺地にピンクの水玉の、おしゃれなネクタイ。ぱりっとした黒のスーツ。
はっ、全然ちがう。満流は天井に向かって大きく首を振る。
いつも色あせたポロシャツを着て、背中を丸めてる人。満流と視線を合わせようとしない、力のない窪んだ目。酒の力を借りてしか、自分を表現できなかった人。家族をばらばらにした自分の父。
唐突にある光景が満流の脳裏に浮かぶ。良子と寄り添う瞳の父親。それを見ている父。大弥と寄り添う瞳。それを見ている自分。乾いた唇がびりっと裂けて、薄いピンクの血が滲む。
なんだよそれ。
天井に浮かぶ二人の影。ピンクの血が、赤褐色になって、茶の木目に、じわじわと浸み込んでいく。影はじりじり大きくなって、部屋全体を呑み込もうとする。
いやだ。なりたくない。あいつみたいに、なりたくない。俺はあいつみたいに、下を向いて生きるのなんて、いやだ。
トシヤの心の奥でかすかに何かが始まりかけたのは事実。でも、それは、一夜でかすんで消えた。
マリの目は朝少しだけ腫れぼったかったけれど、夕方瞳が学校から帰った時には、いつものマリに戻っていた。両親の仲はいつも通り。昨夜のことを、瞳は何も聞くことができなかった。
満流は朝から頭が割れるように痛い。昨日なかなか寝付けなくて、うつらうつらしてきたと思ったら下の寝室からぼそぼそと話し声が聞こえて。気になって、なおさら眠れなくて。今朝起きたら悪寒がして、熱を計ると三十九度近くあった。
「昨日じゃなくてよかった。」
良子はいつもの快活な母に戻っていた。
「今日は一日ゆっくり休みなさい。」
そう言って、自分はばたばたと仕事に出かけていった。
昼前に、正文が、様子を見にドアを開けた。なんとなく、ベッドで目を開けていた満流は正文と視線が合って、すぐに目をそらした。
「昼飯、食べれるか?」
もうしばらく寝かせてほしいと言うと、正文はうなずいて、部屋を出ていった。後ろ姿をちらっと見たら、丸い背中が老人のように弱々しい。布団をかぶって目をつむった。体がますます熱くなって、汗が全身から吹き出てきた。
「俺は八洲に入ってやる。負けたりなんかしない。俺はあいつとは違う。」
今初めて、本気で八洲に入りたいと思った。負けたくない。ただ、ただ、負けたくない、そう思った。朝飲んだ解熱剤の効果もあって、汗と共に一気に体温が下がっていった。ぐっしょりと濡れた布団の中で、しばらくひんやりとした感触に浸っていた。しばらくすると、体がすっと軽くなった様な気がした。冷たい布団からそろそろと這い出て、着替えるために下に降りた。
リビングで正文がテレビをつけたままぼんやり新聞を読んでいる。台所には一人用の小さな土鍋にお粥が用意してあった。何も言わずにダイニングテーブルで、満流は一人、お粥をすすった。冷えたお粥がのどを通って胃にたどりつく様が感じられるほど、空腹だったと気づいた。
「満流ぅ、どう?」
玄関ドアがばんと開いて、良子が小走りで台所に入ってきた。自分の手のひらを満流の額に当てる。
「まだちょっとあるね。」
そう言って、目をテーブルに落として
「なに、あんた、温めもせんと。そんな冷たいの食べとんの?」
あきれた顔でそう言って、温めようと土鍋を持った瞬間、つるりと手が滑って、土鍋が床に落ちて大きくかぱっと割れた。食べ残したお粥は床にだらりと散らばった。
「もう…。」
良子はいらいらした風に満流に背を向けてすぐに片づけ始めたが、そのうち動きが緩まって、一点を見つめて床に座り込んだ。
正文はリビングで、相変わらず新聞を広げたまま。満流はなんだかそこに自分がいることが、間違っているような気がして、音を立てずに二階の部屋に上がった。
翌日学校に行くと、廊下でてつが待ちかまえたようにしてすり寄ってきた。
「みっくん、密かにN高受けた?」
「はあ? んなわけないじゃん。」
「じゃやっぱ、ニセダイヤか。」
昨日、五年ぶりに我が校からN高合格者が一人出たと噂になっていると言う。みんなは大弥だと言っていたが、てつは満流の可能性を一人で信じていたのだ。
「ダイヤ、東大行くのかなあ。」
てつが夢でも語るような目をしてつぶやいた。そしてすぐに情けない目になって、俺なんて、I高滑ってたらどうしようかと思ってるのに、なんて言う。
教室に入る。社会の授業は三権分立について。
「大弥、総理大臣になるかな。」
斜め後ろのモリがそっと満流に耳打ちする。みんなダイヤがうらやましくてたまらないらしい。自分の怠慢は棚に上げて。
満流はあいまいな笑みを浮かべる。
「さあね。」
もう一列後ろの瞳の席がぽつんと空いている。今日は瞳が受ける私立高の受験日だった。
I高は、満流もてつも祐二も、あのモリも合格。やはり、受けた者全員が合格だった。
公立受験の二日前、卒業式の練習があった。満流が何気なく前を見ていたら、気まずそうにこっちを見ているえみりの視線にぶつかった。何となく視線を外す。視界の隅で手で顔を覆うえみりの気配が感じられた。
抱きしめて、キスをして、恋人同士のようなことをしながら、心はどこにあったのだろう。好きだったとは思う。だけど、本当に好きか、一番好きかと聞かれたら、答えに困る。
この前、瞳と向き合って、心の底からわき出た思い、あれが俺の押し殺していた思い。唇が触れた瞬間、沸き起こった炭酸水が弾けるような幸福感。全世界を巻き込んで、高速回転で巻き散らしたい生のパワー。あれが本当の俺の気持ち。瞳が俺を好きじゃなくたって、変わるものなんかじゃないと、今頃になって気づいた。だからって、どうなるものでもないけれど。
練習が終わり、解散。もう、あと一週間で中学生にはお別れだ。どうってことない。何もない。俺はまだ、何も残せていない。勝負はこれから。
視界の中に瞳がいた。目で追う自分。情けないけれど、これが自分。そして見てしまった。瞳がまっすぐ大弥のところに進んで行って、二人で体育館から出て行ったのを。
てつや祐二としゃべっていても、何をしゃべっているのかわからなくなって、いつもと逆転して、てつに思いっきりつっこまれた。
入試当日。満流は祐二と連れだって、八洲高校に電車で向かった。
「みっ君、俺、昨日ひろしのとこ行ってきた。」
祐二がいきなり真顔で言った。丸い目の奥に強い芯が感じられた。満流はその先を待った。
「謝っても許してもらえんかもしれんけど、謝ってきた。」
「うん。」
「一緒に合格して、ひろしを喜ばせような。」
正門のところで、入っていく制服の中学生の波の中で、一人紺のジャージ姿のミカが流れに反して外を向いて突っ立っていた。誰かを探しているようで、満流と祐二が近づくと、ぱっと笑顔になって、つっこんでたポケットから手を出して、
「これ、あげる。」
そう言って、小さな包みを二人に差し出した。
「おいずしさんのお守り。爺ちゃんの病気も良くなったし、御利益あるんよ。」
満流と祐二、二人に同じものを同じように渡した。そして、「がんばってね。」そう言って、手を振りながらランニングで行ってしまった。
「おかしな奴。」
二人で顔を見合わせた。
「あいつ、みんなに配って回ってるんかな?」
「さあ。」
中身は合格祈願のお守りだった。出石寺と書いてある。ミカ、ここまで走って来たのか? 根性あるなあ。なんて祐二が変なところで感心している。
一日目が終わって、祐二は微妙な顔をしていた。満流の方は、問題は明日の英語。苦手な英語がどこまで得点できるかが、満流の合否の要だと、いつも家庭教師に言われ続けていた。
良子がイスにどっかと腰をおろして、手帳を見つめながらため息をついた。別にやましいことは何もしていない。顧客にチョコレートを配って、最後に回ったのがトシヤの事務所。それから数人で行く食事会に誘われて、松山まで行って盛り上がって、若い子らはそのまま飲み会に行ったから、最後に二人でお茶を飲んだ。そう、それだけ。それを偶然マリの友達が見ていたみたいで、勝手に誤解して……
でも、楽しいと思った。確かに、ずっと忘れていた遠い気持ちが湧き出てきていた気はした。閉じ込めないといけない、開放してはいけない気持ちがそこまで来ていた気がした。
あれからマリとは連絡をとっていないが、一件確認しなければならない書類がある。書類の上部にメッセージを簡単に書いて、立ちあがって、ファックスの送信口に書類を入れ、マリの家の電話番号をプッシュした。だけど、一度のコールですぐに切った。やっぱ、いきなりファックスを送るのは失礼よね。溜息を一回ついて、なんとなく振り返ると満流がそこにいた。
「あんたいつからそこに」言いかけたら電話が鳴った。一回目のコールが終わるのを待って、良子が受話器を上げると、ツーという音。
「ワンギリや。最近無い思うとったら。」
満流に向かって苦笑しながら、ちょっとバツが悪そうに肩をすくめた。
先送りにしてきたことが、満流の中ではじけそうになる。
ワンギリ…最初はえみりかと思っていた。でも今の。瞳の家にかけた直後に返事のように返ってきたワンギリ。




