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早咲きの菜の花揺れて

 胸騒ぎがした。呼んでいるような気がした。瞳に、呼ばれているようなそんな気が、根拠もないのに湧いてくる。

 今日、高校の廊下ですれ違った時、何かを言いたそうに目を見つめられた。この前、大弥と連れだって、体育館の脇に消えて行った瞳。告白したのだろうか。聞く権利はある。そんな気がした。


 バシューっと噴きこぼれる音がして、良子は台所にすっ飛んで行く。シチューの鍋が噴きかけたのだ。とりあえず夕飯の方を先に済ませようとそのまま腕まくりをして台所に立った。連絡は夕食後でもいい。先延ばしにするのは性に合わないけれど、もう少し、あと少し、気持ちに余裕ができてからで。

 背中越しに満流が血相変えて玄関から出て行ったことには気づかないまま。


 頭がパンクしそうにふくらんで、一気に沸騰してくる。思わず、外に出て、冷たい外気を胸一杯に吸い込む。何も考えず、そのまま自転車を飛ばして、気がついたら、満流は瞳の家の門の前で、自転車にまたがったまま片足で立っていた。


 しばらく玄関を見つめていると、玄関灯がポッと灯って、マリが門の前まで出てきて郵便ポストを覗いた。門灯も灯り、人影にふっと目を上げて、マリは怪訝そうに自転車ごと突っ立った満流に目をやった。

満流は軽く会釈して、間髪入れずにすぐにUターンして、来た道に向かって自転車を飛ばした。何してるのか、十分でもさっぱりわからなかった。


 家に帰り着いて、玄関を開けると同時に電話が鳴った。そして一度鳴って切れた。台所から顔を出し、迷惑そうな顔をする良子を制して満流は電話の前に立った。

 ゆっくりとプッシュボタンを押す。そして、すぐに切る。すると、間髪入れずにまた、一度、電話が鳴って切れた。満流もまた、一度鳴らして切る。もう一度かかった時、やっと電話は二度、三度、鳴り続けた。

「もしもし。」

満流はゆっくりと受話器を上げて、落ち着いた声で瞳に向かって話しかけた。

「おまえやったんや。」


 瞳はそれには答えないで、

「明日、がんばろうね。ちゃんと、ミカにもらったお守り持っとる?」

「ああ。」

「じゃあ。」

そう言って、ぷつんと切れた。それだけで、満たされた気持ちになった。ただ、瞳の声を聞いただけで、「がんばろうね」と言ってもらえただけでもう、満流は十分だった。

「誰?誰やったん?」

良子が不思議そうにキッチンから満流の顔をうかがう。

「ああ、…えっと…てつ。」

とっさに浮かんだ名前を出す。

「え?いつものいたずらも?」

「違う違う、今日だけよ。」

あわてて否定する満流に、良子は腑に落ちない顔をしながらも、それ以上は何も言わず、出来上がったサラダボールをテーブルに置いた。


 夕飯の後、満流は引き出しを開けて、奥に手を突っ込む。そして、制服のポケットにそっと入れた。階下では良子がケラケラ笑う声が聞こえた。


 入試二日目。英語と理科だ。祐二と連れだって教室に入ろうとすると、瞳が廊下の向こうで目配せをした。手に何かを持って、こっちに向けている。

「あいつ、なにやってんの?」

祐二が先に気付いた。

 手にしているのは、昨日ミカにもらったのと同じ紫色のお守りだった。満流も右ポケットからお守りを出して掲げた。そして、同時にそっと左ポケットにも手を入れた。


 英語も何とかなったような手応えはあった。祐二も、全て終わってしまったら、もうすがすがしい顔をしていた。廊下に出て、隣の教室にいる瞳の姿を探したけれど、他の女子数人と一緒にいたので、そのまま祐二と帰った。


 今日から自由。受験勉強から解放されて、満流は何だか張りつめていた気持ちが一気に緩んでこのまま永遠の眠りについてしまいたいくらいだった。

 ベッドに横になる。目をつむる。満たされた気持ちと、一抹の不安。もし、落ちてたら……。でも、それはすぐに開放感で消えていく。とにかく終わった。がんばった。今までの人生で、一番。いや、がんばったこと自体、人生で初めて。


 卒業式、答辞は生徒会長の大弥が蕩々と読み上げた。満流からは、後ろに座っている瞳の様子はうかがえなかった。君が代を歌って、校歌を歌って、最後に芳村のはからいで、今の心境にぴったりのはやりのポップスを在校生一同が歌い始めたら、すすり泣きの声が増してきた。

「永遠の思い出を…」

 体格の良い芳村が、鼻を真っ赤にしながら、大粒の涙を流しているのが気の毒だけどちょっと笑えた。

瞳は顔を上げてまっすぐに正面を向いていた。こんな中途半端なまま、泣けるわけがない。はっきりさせたい。自分の気持ち。多分もう、迷わない。だって、探し当ててくれたから。


 翌日が合格発表。祐二と二人で掲示板の前に立つ。満流の番号はすぐに見つけられた。けれど、祐二の番号はどこにもなかった。祐二を気遣いながら瞳を探すと、瞳が父親と、二人同じように目じりを下げて、笑っている姿が見えた。その横ではマリも細い目を一層細くして笑っていた。


 良子が出かける前に用意していたサンドイッチを一人で食べていると正文が満流の正面に座った。

「ようがんばったな。お父ちゃん、お前を尊敬するわ。」

この人の顔を見ると、なんだか嬉しい気持ちが半減する。

「お父ちゃんのこと、まだ許せんのか。」

唐突に言われ、落とした視線に喉仏がボコッと出た父の細い胸ぐらが映り込む。

「別に」

横を向いて無関心を装おうとした。

 あの日のことは、何度擦っても、消えない。思い出さないようにしていたのに、この人の存在を無視することで、記憶の奥に葬り去ろうとしていたのに。

 言いたくないのに言葉が口を突いて出た。

「別に、許すとか許さんとか、そんなんじゃない。けど」

正文の筋張った首筋。しわだらけの焼けた細い腕。くたびれた革のベルト、ちっぽけな、泣きそうな、そんな姿になんだか怒りが込み上げてくる。

「俺は、俺はあんたのようには絶対にならん。」

「ああ、なるな。とうちゃんみたいにはなるな。おまえなら大丈夫や。」

正文は今、しっかりと満流の目を見て、なぜか誇らしそうにそう言った。

 なんなんだ、この人。こんちくしょう。なんでそんなこと言うんだよ。悔しくないのかよ。息子にそんな偉そうに言われて、腹立たないのかよ。

 怒りと疑問、悲しいわけじゃないのに、頬が濡れてきた。なんでここで涙なんだ。一度出ると洪水のように溢れ出す。悲しいのか、悔しいのか、フラッシュバックかわからない。意味が解らない涙に、体ごと押し流されていく。こんな奴の前で泣くなんて嫌だ。

 二階にあがろうと正文に背を向けた瞬間、正文が満流の肩を後ろからがっちりと掴んだ。がたがた震えていた。掴まれる前から。震えが止まらない。自分の方が力があるはずなのに、小さな正文の腕に抵抗できない。

 ふと思い出す。とびかかってふり払われる前までは、腕にぶら下がったり、首に抱き着いたり、父の肩車で柿の実をとったりもした。小さい頃、遊んでもらいたくて、いつもまとわりついていた。細いけど、力のあるこの腕。俺はたぶん、その頃、この腕にあこがれていたんだ。

 震えがだんだんおさまって、涙もやっと、止まったら、正文も腕を離し、目を潤ませて、肩をポンとたたいた。

「おまえは母ちゃんに似て、がんばりややけん、大丈夫や。」

そう言って、右手で涙を拭いた。やっぱり何も言えなくて、目も合わせられなくて。でも、少しだけ、前には進めたような気がした。

 顔を洗って満流は気を引き締めるために両手で自分の頬をたたいた。パンパンとはじける音がして、澄んだ気持ちがプラスの方に高ぶってきた。俺は合格したんだ。俺は、確かに、合格したんだ。俺が戦ってたのはあいつなんかじゃない。大弥でもない。俺はとにかく、まあとにかく、受かったんだ。それ以上でも以下でもない。


 一時に学校へ集合。公立高校が第一志望の者は、全員職員室に集まることになっていた。

 満流は一人で学校へ向かった。何気なく道端を見ると、満開の菜の花が風にふわふわ揺れている。歩いても歩いても、菜の花は途切れない。今まで、そんなの見ようとしなかった。でも、見てみると、びっしり密集した菜の花は、四方八方を向きながら、長いのや、短いのや、いろいろありながら、大きな黄色い帯になって、風に揺れて、通る人を優しく見送ってくれるよう。正文が、手入れして、大きく長く、広げた菜の花畑。満流は立ちどまって、ゆっくりと、しっかりと、見渡した。

「まあ、きれいな菜の花畑。今年はぬくかったけん、はよう咲いたんやねえ。」

同じように立ちどまって、見知らぬおばさんが携帯で写真をパシャリと撮った。

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