いろ、色、イロ 9
二階の一番隅の扉に鍵を差し込み、柚羽は部屋に滑り込んだ。前面の通りからは「待てやごらぁぁぁっ!」「八つ裂きにしたらあぁぁっ!」といった野太い怒声と、ばたばた走る足音が聞こえてくる。霧夜が墨田組の男たちの注意を引き付けているのだ――彼らの車に消火器の中の薬剤を放射して。捕まったらボコボコにされること間違いなしの無謀な作戦だが、怒声が聞こえている間は大丈夫だろう、多分。
怒声に交じって時折聞こえてくる霧夜の悲鳴に、情けないと顔を顰めながら柚羽は靴を脱いだ。
心の中で謝罪しながら室内を見渡す。誰もいない他人の部屋に入るのは気が引けるが仕方ない。カーテンが閉まっているため薄暗い。間取りは2DK。綺麗に整頓されており、部屋の主が几帳面な性格をしていることが窺える。
「これはまた……」
由利子が言っていたとおり、ミドリはぬいぐるみを集めていたようで、どの部屋にもたくさん飾ってあった。カエル、ワニ、蛇、蜘蛛、トカゲ。中には何の昆虫か動物か分からないものもある。が、犬や猫のぬいぐるみは一切ない。
「本物を集める趣味の方でなくて良かったと思うべきなのでしょうね」
カエルのぬいぐるみではなく、カエルが入った水槽を調べるのは、少なくない勇気が必要だ。もしそうだったら自分が引き付け役をしていただろう。そんなことを考えながら、柚羽はベッド脇に置いてあった、車に轢かれた後のような伸びきった姿のカエルのぬいぐるみを手に取った。
「紫色のカエル。これのことでしょう」
触りながら何かないか角度を変えて観察する。口の部分がチャックになっていたので開けて中を見ると、折りたたまれた紙とUSBメモリが入っていた。紙を広げて書かれていた文章に眼を通す。
『ハク君に渡して』
この部屋の主らしい綺麗な文字でそう書かれていた。渡してというのは一緒に入っていたUSBメモリのことだろう。中身を確認したいところだが、あまり長居をすると霧夜が墨田組に捕まりかねない。柚羽はカエルのぬいぐるみを元の位置に戻すと、玄関に向かった。覗き穴から外の様子を確認し、素早く外に出る。鍵をかけて階段を下りる途中で霧夜の携帯にかけ、二回コール音がしたところで、通話終了ボタンを押した。完了の合図だ。
駅でしばらく待っていると霧夜が現れた。ミドリのアパートの前で別れる前よりも大分くたびれて見ええたが、命がけの鬼ごっこをしていたのだからそれも当然だろう。霧夜は肉体労働があまり得意ではない。
「つ、疲れたあぁっ! 一年分の距離を走った気がする……あいつらほんとどこまでも追っかけてくるんだもん。何回か三途の川が見えたわ」
「お疲れ様でした。よく無事でしたね。普段からもう少し運動をされてはいかがですか」
電車の座席にぐったりと凭れていると、柚羽が労いとそうでない言葉を投げかけてきた。
「キルちゃん冷たい。火照った身体が一気に冷えていくくらい冷たいわ」
「それは良かったです。それで、カエルのぬいぐるみの中にあったものですが、USBメモリでした。中身はまだ見ていませんが、ハクさんに渡してほしいというメモが一緒に入っていましたので墨田組に関係する何かではないかと。事務所に戻って中身を確認しましょう」
「もうちょっと労わってくれても、いいんじゃない……?」
霧夜の恨めしそうな呟きは、電車同士がすれ違う轟音でかき消されたのだった。
事務所のある雑居ビルに戻った霧夜は、一階の“セカンド”に寄り、豪生に声をかけてから三階に上がった。所で一台しかないパソコン――柚羽の机にある――にUSBメモリを差し込む。入っていたのは音声ファイルだった。
豪生が来るのを待ってファイルを開くと、透明感のある女性の声がパソコンから流れ始める。カイチが組から五千万もの金を奪った理由、ウィロウ・コンサルティングの柳との関係。流れてくる声を三人は黙って聞き続けた。
『迷惑かけてごめんなさい』
この言葉を最後に、音声ファイルの再生は終了した。
「……さて、どうするよ?」
ふぅ、と息を吐いて霧夜は、柚羽を豪生を見る。
「この声がミドリさんなのは内容から間違いないでしょう。彼女の目的も、彼女が現れる場所も分かったのですから、行って止めればいいと思います。手伝っていただけますね、リンジーさん」
USBメモリをパソコンから抜いた柚羽が、豪生に怒りの篭った視線を向けた。彼に対して怒っているわけではない。柚羽の怒りの対象は、ミドリの告白によって明らかになった、今回の悲劇の元凶、ただ一人に向けられている。
「ま、あたしが頼んだことだしね。協力しましょ。今が四時半だから……そうね、二時間ほど時間をちょうだい」
豪生は頷くと、身体をくねらせ、しかし足早に事務所を出ていった。
「二時間後に未知の世界へ突入、ってか。うーん、この恰好で行くのはまずい、よね。キルちゃん、ドレス持ってる?」




