表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

あと三回で払い終わる母の屋敷を義妹へ譲りました。支払期日の翌日「家族でしょう?」と請求書を持って来られたので、夫とも離縁します

作者: 中身無男
掲載日:2026/08/12

「俺たちは家族だ。そうだろ、アデル」


レナード様は、亡き母の屋敷の譲渡証書を私の前へ滑らせた。


「なら、今日ここに署名してくれ。屋敷はセシリアたちに譲る」


私は証書を見た。


「分かりました」


レナード様が、わずかに目を見開いた。


また断ると思っていたのだろう。


向かいでは、義母のベアトリス様が満足そうに息をついた。


「ようやく分かってくれたのね、アデライド。持て余している屋敷を身内へ譲るだけのことに、ずいぶん時間をかけたものだわ」



「お義姉様、本当にありがとうございます」


義妹のセシリアも嬉しそうに笑った。


その腰で、青い房飾りのついた鍵が揺れている。


半年前に貸した、玄関の合鍵だった。


母が選んだ紺色の房飾りは、いつの間にかセシリアの好む明るい青へ替えられていた。


玄関の脇には、セシリア夫妻の名を刻んだ真新しい門札まで掛かっている。


ここは、母が遺した屋敷だった。

郊外には、同じく母から受け継いだ葡萄園もある。


半年前。


レナード様の生家である本邸を修繕している間だけだからと頼まれ、私は合鍵を一本渡した。


それだけだったはずだ。


けれど、本邸の修繕はいつの間にか止まり、こちらの屋敷に彼らの荷物が増えていった。


冬にセシリアの妊娠が分かると、今度は南向きの部屋を求められた。


母が使っていた寝室だった。


北向きの客間では身体に障る。


そう言われた。


レナード様にも、


「アデルなら分かってくれるだろう」


と言われた。


だから譲った。


いま、母の寝台はない。


代わりにセシリアの寝台が置かれ、母の書き物机は廊下へ追い出されている。


机の脚には、運び出したときについた新しい傷があった。


「この窓は、次の冬までに替えた方がいいな」


セシリアの夫が、その机に肘をついて言った。


窓の寸法を測った紐が、天板を横切っている。


「お義姉様、無理にとは申しません」


セシリアはカップを置き、腹にそっと手を添えた。


「ただ、借り物の家のままでは、この子を安心して育てられないでしょう?」


そして窓の外を見た。


「春には、ここの庭で最初の茶会を開きたいんですの。皆様、見たいとおっしゃっていて」


「セシリア。借り物などという言い方をするものではありません」


ベアトリス様は娘を窘めてから、私へ向き直った。


「けれど、これが一番丸く収まるでしょう。セシリアたちは家を持てる。私は娘のそばで暮らせる。レナードも兄としての務めを果たせる」


微笑む。


「誰一人、損をしないでしょう?」


屋敷を譲る話が出てから、セシリアの夫はレナード様に代わって家督も継ぐと言った。


ベアトリス様は、これからは娘夫婦とこの屋敷で暮らすと言った。


今日は、その話を正式にするために公証人が呼ばれている。


「お嬢様」


老家令が扉を開けた。


「公証人がお見えです」


ベアトリス様の背筋が伸びた。


セシリアがカップを引き寄せた。


その夫は、ようやく母の机から肘を離した。


公証人は卓につくと、譲渡証書と別紙を並べた。


最後に、羽根ペンを置く。


私は手を伸ばさなかった。


「先に、すべて読み上げてください」


「アデライド?」


ベアトリス様が眉を上げた。


「署名は、そのあとにします」



公証人は淡々と読み始めた。


屋敷と敷地は、セシリア夫妻へ無償で譲渡される。


そこまでは、全員が満足そうに聞いていた。


「続いて、当該屋敷に付随する大規模修繕契約です。残る年賦は、所有権とともに受贈者二名へ引き継がれます」


セシリアの夫の笑みが、わずかに止まった。


「大規模修繕?」


「十二年前、母が屋根と東翼の梁を全面的に改めました」


私は答えた。


「その年賦が、まだ残っています」


「ああ、東翼か」


彼はすぐにうなずいた。


「あそこはずいぶん手が入っていたな」


公証人は続けた。


「今後の通常修繕費、庭園維持費、暖房費、使用人の給金についても、新たな所有者の負担となります」


別紙を差し出した。


「残額、各回の支払額、支払期日はこちらです。読み上げますか」


セシリアの夫は別紙を手に取った。


二、三枚めくる。


そして卓へ戻した。


「必要ない。年賦があることは理解した」


「わたくしも、夫に任せますわ」


セシリアが言った。


「そういう細かな数字は、あなたに任せればよいでしょう」


ベアトリス様も続けた。


公証人は一度だけ別紙へ目を落とす。


「次回の支払期日は、明後日です」


「そんなにすぐ?」


セシリアが夫を見た。


「明後日か。なら、まだ間に合う」


彼はレナード様へ視線を向けた。


「何かあれば、兄上にも相談できる」


レナード様は否定しなかった。


公証人は次の書類へ移った。


「ベアトリス様には、当該屋敷への終身居住権が与えられます。受贈者二名から退去を求めることはできません。屋敷を第三者へ譲渡した場合にも、この権利は残ります」


「当然でしょう」


ベアトリス様が言った。


「私もセシリアとここで暮らすのですから」


「また、ベアトリス様の通常の生活扶助についても、受贈者二名の負担となります」


セシリアの夫が、初めてベアトリス様を見た。


ベアトリス様は、その視線に気づかなかったふりをして扇を動かした。


「もちろん、わたくしたちが負担しますわ」


セシリアが明るく答えた。


「その対価として、ベアトリス様は今後、レナード様ならびにアデライド様に対する住居、生活費、扶養に関する請求権を放棄します」


「ええ」


ベアトリス様は扇を閉じもしなかった。


「次へお進みなさい」


続く書類では、レナード様が生家に対する相続権と家督継承権を放棄し、代わってセシリアの夫が家名、資産、債務を引き継ぐことが確認された。


本邸を担保にした借入も含まれる。


「本邸を売れば返せる」


セシリアの夫は言った。


「こちらの屋敷の方が状態もいい」


「レナード様、ご異存はありませんか」


「ない」


レナード様は短く答えた。


最後に、私が母から相続した郊外の葡萄園は、今回の譲渡に含まれないことが読み上げられた。


「葡萄園までは必要ない」


セシリアの夫が言った。


「屋敷とは切り離して構わない」


公証人は頷き、全員を見渡した。


「最後の確認です。署名後に、内容を知らなかったという異議は認められません。必要であれば、いま項目ごとに説明いたします」


「説明は結構ですわ」


セシリアが答えた。


「兄妹なのですもの。本当に困ったときには、助け合うものでしょう?」


「そうよ」


ベアトリス様が重ねる。


「書面がどうであれ、いざとなれば家族ですもの。レナードが、実の母親と妹を見捨てるはずがないわ」


レナード様は何も言わなかった。


私は公証人へ言った。


「別紙の読み上げを辞退されたことも、記録してください」


公証人はペンを取った。


「記録します」


最初に署名したのは、セシリアの夫だった。


セシリアが続く。


ベアトリス様も、扶養請求権の放棄書へ迷いなく名を書いた。


レナード様は、相続権と家督継承権の放棄書へ署名する。


最後に、羽根ペンが私の前へ来た。


残りは、三回だった。


母が亡くなってから、毎年二百四十枚。

葡萄園の実入りのほとんどを、この屋敷へ入れてきた。


今年の支払い分も、すでに取り分けてある。


三度の支払いを終えれば、年賦のないこの屋敷が残るはずだった。


屋敷で、終わりにする。


私はペンを取った。


「ええ。家族ですものね」


譲渡人の欄へ名前を書く。


「皆様のお望みどおりにいたします」


公証人が印を押した。


封蝋が固まる。


これで屋敷は、彼らのものになった。



「ありがとう、アデル」


公証人が帰ったあと、レナード様はそう言った。


私は母の手紙を小箱へ納めていた。


「何に対してですか」


「母上たちのことを分かってくれたことに」


「そうですか」


「これで揉め事も終わる」


私は箱の蓋を閉じた。


翌朝。


私が持ち出したのは、母の手紙と、自分の衣装箱だった。


十二年前の大修繕の帳面は書棚へ戻した。


もう、屋敷とともに引き継がれるものだ。


玄関では、老家令が待っていた。


「私は、この屋敷に残ります」


「よろしいのですか」


「奥様が梁を替えられたときから、ここにおりますので」


私は引き止めなかった。


「これまで、母と私に仕えてくれて、ありがとう」


老家令は深く頭を下げた。


門の外では、祝い用の花籠と葡萄酒が運び込まれていた。


私たちは、その横を通り過ぎた。


新しい住まいは、屋敷を譲ると決めてから私が探した借家だった。


葡萄園から馬車で半時ほどの、二階建ての小さな家。


二階には部屋が二つ。


一階には、小さな食卓が一つ。


荷物を置くと、レナード様が二階を見た。


「どちらを寝室にする?」


「一部屋ずつ使いましょう」


「……別々に?」


「今までどおりには戻れません」


レナード様は何か言いたそうにしたが、口を閉じた。



支払期日の翌日。


昼前に、借家の扉が激しく叩かれた。


「レナード! 開けなさい!」


ベアトリス様の声だった。


レナード様が扉を開ける。


そこには、帽子すら被っていないベアトリス様と、髪を乱したセシリアが立っていた。


食堂へ通すと、セシリアが一枚の紙を卓へ置いた。


「夫は商会へ掛け合いました」


声が掠れている。


「待っていただけないか、支払い方を変えられないかって。それでも駄目だったんです」


請求書だった。


金貨二百四十枚。


レナード様が身を乗り出した。


「二百四十?」


「はい」


私は答えた。


「今年分です」


「そんな金額、用意できるわけがないでしょう!」


ベアトリス様が叫んだ。


「あなた、知っていたのね!」


「別紙に記載されていました」


「でも、私たちはそんな額だなんて――」


「ご主人は手に取って、読まずに戻しました」


セシリアが口を閉じた。


「葡萄園はまだあなたのものでしょう」


ベアトリス様が卓へ身を乗り出した。


「そこから払えばいいじゃない」


「お断りします」


「家族でしょう!」


小さな食堂に声が響いた。


「セシリアは身重なのよ。どうするつもり?」


「屋敷を欲しいとおっしゃったのは、皆様です」


私は請求書を見た。


「鍵も、母の寝室も、最後には屋敷そのものも譲りました」


紙を押し戻した。


「葡萄園まで差し出すつもりはありません」


「アデル」


レナード様が口を挟んだ。


「葡萄園から出せないか。母上たちも困っている」


「レナード様は、おいくら出されるんですか」


「俺が?」


「お母様を助けたいのでしょう?」


レナード様は答えなかった。


今度は、ベアトリス様が息子を見た。


「そうよ。あなたが払いなさい」


「母上、二百四十枚なんて――」


「借りればいいでしょう」


ベアトリス様は当然のように言った。


「家族でしょう?」


レナード様の口が閉じた。


さっきまで私へ向いていた視線が、卓の上の請求書へ落ちた。


自分には出せない額を、私には出せと言った。


そのことに、ようやく気づいた顔だった。


「お義姉様」


セシリアが私を見た。


「二百四十枚だけでいいんです」


だけ。


「葡萄園から入る地代は、年に三百枚です」


レナード様が顔を上げた。


「そこから毎年、二百四十枚を屋敷の年賦に払っていました」


「……毎年?」


「はい」


「あと三回で、終わるはずでした」


レナード様は、しばらく何も言わなかった。


「俺は、知らなかった」


「聞かれませんでしたから」


ベアトリス様は請求書を掴んだ。


「とにかく、レナード。何とかしなさい」


私は立ち上がった。


「お話は終わりです」


「アデライド!」


「屋敷も、その支払いも、皆様がお望みになったものです」


玄関の扉を開けた。


「どうぞ、ご自分たちでお支払いください」


ベアトリス様はしばらく私を睨んでいた。


やがて、セシリアを連れて外へ出た。


レナード様は何も言わなかった。


扉を閉めた。



食堂へ戻っても、レナード様は座らなかった。


「アデル」


「何でしょう」


「俺は、君なら最後には譲ってくれると思っていた」


私は黙って聞いた。


「合鍵のときも。あの寝室のときも」


彼の手が、ゆっくり握られる。


「母上を止めるより、君を説得する方が早かった」


「そうですね」


「君が嫌がっているのは分かっていた」


「はい」


レナード様は黙った。


「……すまなかった」


私は立ち上がった。


「今月末までに、新しい部屋を探してください」


「アデル?」


「私は、この家で一人で暮らします」


「待ってくれ。俺たちは家族だろう、アデル」


私は彼を見た。


「聞き飽きました」


レナード様の顔が強張る。


「もう二度と、君に譲れとは言わない」


「次はありません」


私は母の手紙を入れた小箱を持ち上げた。


「離縁してください」


レナード様は、その場から動かなかった。



ひと月後。


レナード様は借家を出た。


離縁の手続きにも応じた。


それからしばらくして、老家令から一通の便りが届いた。


レナード様の生家である本邸は売られ、担保になっていた借入は返済された。


セシリアの夫は、母の屋敷も売りに出した。


けれど、買い手はついていない。


ベアトリス様の終身居住権が残っているからだ。


庭師はいなくなった。


使用人も減った。


春に予定されていた茶会も中止になった。


そして、セシリア夫妻はベアトリス様へ、終身居住権を手放してほしいと頼んだらしい。


老家令の手紙には、その返事も記されていた。


『家族なのだから、私を追い出すはずがないでしょう』


私はそこで手紙を畳んだ。



収穫を終えた葡萄畑では、葉が風に揺れていた。


借り手と今年の帳面を突き合わせる。


三百枚。


去年と同じだった。


けれど、来年の年賦のために二百四十枚を取り分ける必要はない。


新しい苗木を入れることにした。


帰りに市場へ寄った。


冬用の靴を一足買った。


去年から、底が薄くなっていることには気づいていた。


家へ戻る。


小さな食卓の上には、今年最後の葡萄が一房残っていた。


私は椅子へ座った。


いちばん大きな粒を摘んだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

評価やブックマークで応援していただけると励みになります。

お読みいただき、本当にありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ