あと三回で払い終わる母の屋敷を義妹へ譲りました。支払期日の翌日「家族でしょう?」と請求書を持って来られたので、夫とも離縁します
「俺たちは家族だ。そうだろ、アデル」
レナード様は、亡き母の屋敷の譲渡証書を私の前へ滑らせた。
「なら、今日ここに署名してくれ。屋敷はセシリアたちに譲る」
私は証書を見た。
「分かりました」
レナード様が、わずかに目を見開いた。
また断ると思っていたのだろう。
向かいでは、義母のベアトリス様が満足そうに息をついた。
「ようやく分かってくれたのね、アデライド。持て余している屋敷を身内へ譲るだけのことに、ずいぶん時間をかけたものだわ」
「お義姉様、本当にありがとうございます」
義妹のセシリアも嬉しそうに笑った。
その腰で、青い房飾りのついた鍵が揺れている。
半年前に貸した、玄関の合鍵だった。
母が選んだ紺色の房飾りは、いつの間にかセシリアの好む明るい青へ替えられていた。
玄関の脇には、セシリア夫妻の名を刻んだ真新しい門札まで掛かっている。
ここは、母が遺した屋敷だった。
郊外には、同じく母から受け継いだ葡萄園もある。
半年前。
レナード様の生家である本邸を修繕している間だけだからと頼まれ、私は合鍵を一本渡した。
それだけだったはずだ。
けれど、本邸の修繕はいつの間にか止まり、こちらの屋敷に彼らの荷物が増えていった。
冬にセシリアの妊娠が分かると、今度は南向きの部屋を求められた。
母が使っていた寝室だった。
北向きの客間では身体に障る。
そう言われた。
レナード様にも、
「アデルなら分かってくれるだろう」
と言われた。
だから譲った。
いま、母の寝台はない。
代わりにセシリアの寝台が置かれ、母の書き物机は廊下へ追い出されている。
机の脚には、運び出したときについた新しい傷があった。
「この窓は、次の冬までに替えた方がいいな」
セシリアの夫が、その机に肘をついて言った。
窓の寸法を測った紐が、天板を横切っている。
「お義姉様、無理にとは申しません」
セシリアはカップを置き、腹にそっと手を添えた。
「ただ、借り物の家のままでは、この子を安心して育てられないでしょう?」
そして窓の外を見た。
「春には、ここの庭で最初の茶会を開きたいんですの。皆様、見たいとおっしゃっていて」
「セシリア。借り物などという言い方をするものではありません」
ベアトリス様は娘を窘めてから、私へ向き直った。
「けれど、これが一番丸く収まるでしょう。セシリアたちは家を持てる。私は娘のそばで暮らせる。レナードも兄としての務めを果たせる」
微笑む。
「誰一人、損をしないでしょう?」
屋敷を譲る話が出てから、セシリアの夫はレナード様に代わって家督も継ぐと言った。
ベアトリス様は、これからは娘夫婦とこの屋敷で暮らすと言った。
今日は、その話を正式にするために公証人が呼ばれている。
「お嬢様」
老家令が扉を開けた。
「公証人がお見えです」
ベアトリス様の背筋が伸びた。
セシリアがカップを引き寄せた。
その夫は、ようやく母の机から肘を離した。
公証人は卓につくと、譲渡証書と別紙を並べた。
最後に、羽根ペンを置く。
私は手を伸ばさなかった。
「先に、すべて読み上げてください」
「アデライド?」
ベアトリス様が眉を上げた。
「署名は、そのあとにします」
◇
公証人は淡々と読み始めた。
屋敷と敷地は、セシリア夫妻へ無償で譲渡される。
そこまでは、全員が満足そうに聞いていた。
「続いて、当該屋敷に付随する大規模修繕契約です。残る年賦は、所有権とともに受贈者二名へ引き継がれます」
セシリアの夫の笑みが、わずかに止まった。
「大規模修繕?」
「十二年前、母が屋根と東翼の梁を全面的に改めました」
私は答えた。
「その年賦が、まだ残っています」
「ああ、東翼か」
彼はすぐにうなずいた。
「あそこはずいぶん手が入っていたな」
公証人は続けた。
「今後の通常修繕費、庭園維持費、暖房費、使用人の給金についても、新たな所有者の負担となります」
別紙を差し出した。
「残額、各回の支払額、支払期日はこちらです。読み上げますか」
セシリアの夫は別紙を手に取った。
二、三枚めくる。
そして卓へ戻した。
「必要ない。年賦があることは理解した」
「わたくしも、夫に任せますわ」
セシリアが言った。
「そういう細かな数字は、あなたに任せればよいでしょう」
ベアトリス様も続けた。
公証人は一度だけ別紙へ目を落とす。
「次回の支払期日は、明後日です」
「そんなにすぐ?」
セシリアが夫を見た。
「明後日か。なら、まだ間に合う」
彼はレナード様へ視線を向けた。
「何かあれば、兄上にも相談できる」
レナード様は否定しなかった。
公証人は次の書類へ移った。
「ベアトリス様には、当該屋敷への終身居住権が与えられます。受贈者二名から退去を求めることはできません。屋敷を第三者へ譲渡した場合にも、この権利は残ります」
「当然でしょう」
ベアトリス様が言った。
「私もセシリアとここで暮らすのですから」
「また、ベアトリス様の通常の生活扶助についても、受贈者二名の負担となります」
セシリアの夫が、初めてベアトリス様を見た。
ベアトリス様は、その視線に気づかなかったふりをして扇を動かした。
「もちろん、わたくしたちが負担しますわ」
セシリアが明るく答えた。
「その対価として、ベアトリス様は今後、レナード様ならびにアデライド様に対する住居、生活費、扶養に関する請求権を放棄します」
「ええ」
ベアトリス様は扇を閉じもしなかった。
「次へお進みなさい」
続く書類では、レナード様が生家に対する相続権と家督継承権を放棄し、代わってセシリアの夫が家名、資産、債務を引き継ぐことが確認された。
本邸を担保にした借入も含まれる。
「本邸を売れば返せる」
セシリアの夫は言った。
「こちらの屋敷の方が状態もいい」
「レナード様、ご異存はありませんか」
「ない」
レナード様は短く答えた。
最後に、私が母から相続した郊外の葡萄園は、今回の譲渡に含まれないことが読み上げられた。
「葡萄園までは必要ない」
セシリアの夫が言った。
「屋敷とは切り離して構わない」
公証人は頷き、全員を見渡した。
「最後の確認です。署名後に、内容を知らなかったという異議は認められません。必要であれば、いま項目ごとに説明いたします」
「説明は結構ですわ」
セシリアが答えた。
「兄妹なのですもの。本当に困ったときには、助け合うものでしょう?」
「そうよ」
ベアトリス様が重ねる。
「書面がどうであれ、いざとなれば家族ですもの。レナードが、実の母親と妹を見捨てるはずがないわ」
レナード様は何も言わなかった。
私は公証人へ言った。
「別紙の読み上げを辞退されたことも、記録してください」
公証人はペンを取った。
「記録します」
最初に署名したのは、セシリアの夫だった。
セシリアが続く。
ベアトリス様も、扶養請求権の放棄書へ迷いなく名を書いた。
レナード様は、相続権と家督継承権の放棄書へ署名する。
最後に、羽根ペンが私の前へ来た。
残りは、三回だった。
母が亡くなってから、毎年二百四十枚。
葡萄園の実入りのほとんどを、この屋敷へ入れてきた。
今年の支払い分も、すでに取り分けてある。
三度の支払いを終えれば、年賦のないこの屋敷が残るはずだった。
屋敷で、終わりにする。
私はペンを取った。
「ええ。家族ですものね」
譲渡人の欄へ名前を書く。
「皆様のお望みどおりにいたします」
公証人が印を押した。
封蝋が固まる。
これで屋敷は、彼らのものになった。
◇
「ありがとう、アデル」
公証人が帰ったあと、レナード様はそう言った。
私は母の手紙を小箱へ納めていた。
「何に対してですか」
「母上たちのことを分かってくれたことに」
「そうですか」
「これで揉め事も終わる」
私は箱の蓋を閉じた。
翌朝。
私が持ち出したのは、母の手紙と、自分の衣装箱だった。
十二年前の大修繕の帳面は書棚へ戻した。
もう、屋敷とともに引き継がれるものだ。
玄関では、老家令が待っていた。
「私は、この屋敷に残ります」
「よろしいのですか」
「奥様が梁を替えられたときから、ここにおりますので」
私は引き止めなかった。
「これまで、母と私に仕えてくれて、ありがとう」
老家令は深く頭を下げた。
門の外では、祝い用の花籠と葡萄酒が運び込まれていた。
私たちは、その横を通り過ぎた。
新しい住まいは、屋敷を譲ると決めてから私が探した借家だった。
葡萄園から馬車で半時ほどの、二階建ての小さな家。
二階には部屋が二つ。
一階には、小さな食卓が一つ。
荷物を置くと、レナード様が二階を見た。
「どちらを寝室にする?」
「一部屋ずつ使いましょう」
「……別々に?」
「今までどおりには戻れません」
レナード様は何か言いたそうにしたが、口を閉じた。
◇
支払期日の翌日。
昼前に、借家の扉が激しく叩かれた。
「レナード! 開けなさい!」
ベアトリス様の声だった。
レナード様が扉を開ける。
そこには、帽子すら被っていないベアトリス様と、髪を乱したセシリアが立っていた。
食堂へ通すと、セシリアが一枚の紙を卓へ置いた。
「夫は商会へ掛け合いました」
声が掠れている。
「待っていただけないか、支払い方を変えられないかって。それでも駄目だったんです」
請求書だった。
金貨二百四十枚。
レナード様が身を乗り出した。
「二百四十?」
「はい」
私は答えた。
「今年分です」
「そんな金額、用意できるわけがないでしょう!」
ベアトリス様が叫んだ。
「あなた、知っていたのね!」
「別紙に記載されていました」
「でも、私たちはそんな額だなんて――」
「ご主人は手に取って、読まずに戻しました」
セシリアが口を閉じた。
「葡萄園はまだあなたのものでしょう」
ベアトリス様が卓へ身を乗り出した。
「そこから払えばいいじゃない」
「お断りします」
「家族でしょう!」
小さな食堂に声が響いた。
「セシリアは身重なのよ。どうするつもり?」
「屋敷を欲しいとおっしゃったのは、皆様です」
私は請求書を見た。
「鍵も、母の寝室も、最後には屋敷そのものも譲りました」
紙を押し戻した。
「葡萄園まで差し出すつもりはありません」
「アデル」
レナード様が口を挟んだ。
「葡萄園から出せないか。母上たちも困っている」
「レナード様は、おいくら出されるんですか」
「俺が?」
「お母様を助けたいのでしょう?」
レナード様は答えなかった。
今度は、ベアトリス様が息子を見た。
「そうよ。あなたが払いなさい」
「母上、二百四十枚なんて――」
「借りればいいでしょう」
ベアトリス様は当然のように言った。
「家族でしょう?」
レナード様の口が閉じた。
さっきまで私へ向いていた視線が、卓の上の請求書へ落ちた。
自分には出せない額を、私には出せと言った。
そのことに、ようやく気づいた顔だった。
「お義姉様」
セシリアが私を見た。
「二百四十枚だけでいいんです」
だけ。
「葡萄園から入る地代は、年に三百枚です」
レナード様が顔を上げた。
「そこから毎年、二百四十枚を屋敷の年賦に払っていました」
「……毎年?」
「はい」
「あと三回で、終わるはずでした」
レナード様は、しばらく何も言わなかった。
「俺は、知らなかった」
「聞かれませんでしたから」
ベアトリス様は請求書を掴んだ。
「とにかく、レナード。何とかしなさい」
私は立ち上がった。
「お話は終わりです」
「アデライド!」
「屋敷も、その支払いも、皆様がお望みになったものです」
玄関の扉を開けた。
「どうぞ、ご自分たちでお支払いください」
ベアトリス様はしばらく私を睨んでいた。
やがて、セシリアを連れて外へ出た。
レナード様は何も言わなかった。
扉を閉めた。
◇
食堂へ戻っても、レナード様は座らなかった。
「アデル」
「何でしょう」
「俺は、君なら最後には譲ってくれると思っていた」
私は黙って聞いた。
「合鍵のときも。あの寝室のときも」
彼の手が、ゆっくり握られる。
「母上を止めるより、君を説得する方が早かった」
「そうですね」
「君が嫌がっているのは分かっていた」
「はい」
レナード様は黙った。
「……すまなかった」
私は立ち上がった。
「今月末までに、新しい部屋を探してください」
「アデル?」
「私は、この家で一人で暮らします」
「待ってくれ。俺たちは家族だろう、アデル」
私は彼を見た。
「聞き飽きました」
レナード様の顔が強張る。
「もう二度と、君に譲れとは言わない」
「次はありません」
私は母の手紙を入れた小箱を持ち上げた。
「離縁してください」
レナード様は、その場から動かなかった。
◇
ひと月後。
レナード様は借家を出た。
離縁の手続きにも応じた。
それからしばらくして、老家令から一通の便りが届いた。
レナード様の生家である本邸は売られ、担保になっていた借入は返済された。
セシリアの夫は、母の屋敷も売りに出した。
けれど、買い手はついていない。
ベアトリス様の終身居住権が残っているからだ。
庭師はいなくなった。
使用人も減った。
春に予定されていた茶会も中止になった。
そして、セシリア夫妻はベアトリス様へ、終身居住権を手放してほしいと頼んだらしい。
老家令の手紙には、その返事も記されていた。
『家族なのだから、私を追い出すはずがないでしょう』
私はそこで手紙を畳んだ。
◇
収穫を終えた葡萄畑では、葉が風に揺れていた。
借り手と今年の帳面を突き合わせる。
三百枚。
去年と同じだった。
けれど、来年の年賦のために二百四十枚を取り分ける必要はない。
新しい苗木を入れることにした。
帰りに市場へ寄った。
冬用の靴を一足買った。
去年から、底が薄くなっていることには気づいていた。
家へ戻る。
小さな食卓の上には、今年最後の葡萄が一房残っていた。
私は椅子へ座った。
いちばん大きな粒を摘んだ。
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