その20
空井が消えると瞬間冷凍されていた世界が動き出した。不思議なことに、斬られた人間も修繕されており、床に広がった血だまりも消えている。
俺はユウに支えられて半蔵門駅まで誘導され、ベンチで「お座り」と命令された。プルトップの開封された炭酸ジュースを手渡される。それが赤い缶なのが皮肉だった。
項垂れる俺の気力が回復するのを待つように、ユウとギンはただ黙って俺の前に立ち続けた。聞きたいことは山ほどある。だけどどこから聞いてよいかわからない。混乱が収まるまで三十分以上を必要とした。
冷たい缶を口元に運び、甘ったるい液体を咽喉に流し込む。
「さっき、時間と人間が停止していたのは何ですか。幻術ってやつですか?」
「あれは世界と時間を一時的に切り離したものだ。基本的に魄尺を大量消費するし、技術も要する。あのソライの手腕は見事だ。口先だけじゃない」
「感心するところかよ」
ぼそりと吐き捨てると、隣にユウが着席した。
「私たちは土蜘蛛だから地下への滞在時間が長いほど力を発揮できる。よしよし、落ち込まない。すでに業を遂げたソライに適わないのは仕方ないってば。それに私たち、あのソライのこと少し調べてきたから知ってるんだ」
「あのソライ?」
「もしかして空井って苗字だと思ってる? 違うよ。徂徠と書くの。簡単に説明すると【巡る者】とか【行き来する者】の意味。徂徠は条件を満たせば地上にも出られるし、都営線の往来もできる。だけどほとんどは地下にいるみたい。私たち土蜘蛛は業を果たすと元の社会に戻されて、記憶や記録が改竄されてく。例えば……高校に通ってなくても卒業記録は残るよう作り変えられるみたいな。大人になった後、印象の薄い空虚な高校時代だったなあとかそういう曖昧な記憶になるみたい。記録は行政で書き換えるから問題なし。それでもね、徂徠は自らの意志で地下に留まり、業を続けることを選んだ人のことなの。だから本当は私たち、徂徠に感謝しなくちゃいけないんだよ。経験豊富な徂徠が自主参加してくれるおかげで魄尺も増えるんだから」
「それにしたって……あんな方法で……」
「あんな方法?」
ギンの声が少し強張る。
「人を……斬ってた。躊躇も慈悲もなく」
「あの次元で人を斬っても、現実では単なる不調や痛みに変換される。だが空間を固定せず斬ると現実での負傷に繋がる。よく覚えておけ」
「俺はあんなことしない! よく平気で……あいつを赦せますね!」
「魄尺に善悪はないし、手段は問わない。貴様には、盗まれた魄尺分と壊れたメトロの責任を取らせるつもりだったが、魄尺はむしろ三倍に増えていたから今回は不問とする」
「三倍?」
「あの徂徠が使用分より多く集めてきた。貴様はあの徂徠の集中と執着を少しは見習うべきだな」
「誰が……!」
俺が無意識にぎりりと奥歯を噛みしめると、ギンが短い溜息を吐く。
「あの徂徠は歴代のマルの中でも二番目に早く業を果たした者だ」
「二番目ってどれくらいの時間なんですか?」
「聞いてどうする。記録を塗り替えるつもりか? 無理だからやめておけ」
「そんなのやってみないとわからない……!」
「貴様には覚悟が足りない」
ギンが俺の胸倉をつかみ、立ち上がらせた。ここで引くわけにはいかない。俺は瞼に力を込めて全力で睨みつけた。
「貴様に、子供に近寄るなと警告した。覚えているか」
「それが何だよ!」
「あの徂徠は現役の頃、赤ん坊の命を魄尺に変えることさえ厭わなかった」
俺は耳を疑った。
「赤いものはマルを補佐する。焔や血もそうだ。だが物理的に赤くなくても言霊で縛られた赤いものもそれに該当する。そう――ユウは金色を操るが、ゴールドに限らず金の文字がつくものも使える。紙幣は金色じゃないが使役に値するということだ。過去のマルには赤ん坊を魄尺に変える者もいた。あの徂徠もそうだ」
「赤ちゃん……?」
ベビーカーを用いて電車移動する母親は多く、ここ数日でも何ケースも目撃している。
赤ん坊を見て喜ぶ空井の表情を思い出し、俺はぎくりとした。
――エネルギーの塊って感じ。赤ちゃんてすごい。
全身の力が抜けた。すとんと腰が落ちてベンチにおさまる。肩の力が抜け、乾いた声が漏れた。頭で情報がまとまった頃、急激な震えに襲われた。笑うように痙攣する指先で口元を押さえる。
「俺は銀座線の橙色を使役していて条件により光を使う。さっきはユウがばらまいた鉱物に反射させる攻撃を試みた。他の血族が同席していれば色の組み合わせに沿って攻撃方法も増える。赤のマルと緑のチヨがいれば、調節によっては激しい光を使えることも可能。夜ならば星を使うことも可能。そして銀座線の橙は条件を満たせば神田駅から中央線を使うことも可能。また、空間閉鎖が完了されていない場合はゴムやゴム製品などを使い……」
ギンの説明が耳を素通りしてゆく。
確かに空井は言っていた。目的のためには「何でもする」と。
接点のない他人とはいえ赤子を犠牲にするなんて人として間違っている。
日常を取り戻すために――サツキを取り戻すために――その冷酷さも必要だというのか。空井を批判する俺には覚悟が足りないというのか。
俺は膝の上に乗せた拳をぎゅっと握りしめた。
「覚悟が足りない……? 何でもする? 何なんだ。お前らみんな馬鹿だ! 人には超えちゃいけない領域ってものがあるだろう!」
「無能め。貴様は人の話を聞くこともできないのか」
「どうせ聞いたってわからない! 教えてくれるのなら最初から教えてくれれば良かったんだ。そうすればこんなことになってない!」
「責任転嫁にもほどがある。俺は言った。業を果たせと。その通りにしていれば問題なかった。貴様が勝手に行動した結果が現状に繋がったことを肝に銘じろ」
「だって知らなかったんだ。何も……俺は……」
「無知自慢か。見苦しいな。わからないくせに俺の指示を疑い、徂徠の指示には従った。こちらこそ聞きたい。なぜだ。なぜ俺に逆らい、徂徠には無条件に追随した?」
「それは」
親切だったから。物腰が柔らかくて笑顔で親身な態度でこちらに同意してくれて――。
俺はがくりと首を垂れた。すべては言い訳だ。詐欺師は詐欺師の顔で現れるとは限らない。口当たりの良い言葉に縋ったのは未熟な自分なのだ。
ギンに側頭を小突かれる。
「頭に叩き込んでおけ。貴様などよりもよほどあの徂徠は優秀と称賛される。禁術を使おうとも、魄尺の収集に貢献した者こそが血族として評価されるからだ。さっき俺は貴様と徂徠では覚悟が違うと言ったな。貴様はパートナーを取り戻したいのだろう? だが徂徠は逆だ。あいつはパートナーを差し出した」
「……は」
「通常はパートナーを作れば魄尺の収集が早まる。そして業を果たした後の血族は、パートナー共々地上に戻る。ここまではわかるか」
「はい。記憶が……」
ユウからの説明を繰り返そうと顔色を窺うと、ユウが力強く頷いた。
「だが徂徠は社会に帰らず地下に留まる。この徂徠になるためには条件がある。パートナーの人格を破棄することだ。精神も思考も感情もなくし、文字通り徂徠の手足になる」
俺はゆらりと顔をあげた。
空井の妻の胡乱な顔、抜け殻のような芯のない動作を思い出した。そこで合点がいった。
妻だといった。
空井は空井で責任を取っているつもりなのだ。あれでも。役所に書類を出したわけじゃない。どこかで挙式をしたわけでも神の前で誓ったわけでもなさそうだ。しかし空井にとって「責任をとった」つもりであり「結婚した」ことになっているのだろう。
サツキの言葉を思い出す。ずっと傍にいる。一緒にいる。例え単身赴任で一時的に離れたとしても夫婦は「一緒になった伴侶」であることに変わりないと。
わからないわからない。結婚とは何だ。妻とは。パートナーとは。
取り戻すべきものとは――。




