その18
複雑に絡み合う勢力図はさておき、俺は不安に襲われた。俺には東京のこと、祖先のこと、土蜘蛛のこと、徳川のことなんてわからない。
がくがくと膝が震えてくるし、不安からか指先も冷えてきた。
「それでサツキがどう関わってくるんですか。あいつは幼馴染みだけど俺のパートナーじゃない。まさか俺が突然巻き込まれたようにあいつも脈略なく……」
「関係あるよ」
「あいつも血族なんですか」
「どうだろ?」
言葉を選ぶように首を傾げた空井師匠が携帯電話を取り出した。見慣れた携帯端末は、正しくサツキの所持品に違いなかった。
「それ、サツキの! あいつ、どこにいるんです! ちゃんと自宅にいるんですか!」
「ふふ。彼女は可愛いね。ずっと君の傍にいるとか言っちゃって」
「ちょ……盗み聞きしてたんですか!」
俺が反射的に怒鳴りあげると、師匠が口唇を突き出して肩を竦めた。
「そんな野暮はしてないってば。彼女の口から聞いたんだよ。そうだ。映像も撮ってあるけど、マルちゃん、見たい?」
奪うようにサツキの携帯をむしり取ったものの、不慣れな機器の扱いが捗らず苦戦した。
映像と言っているのだから動画だろう。闇雲に画面に触れるのでどうでもいいアプリが起動してしまう。もどかしさに頭を掻きむしっていると、背後に丸ノ内線が滑り込んできた。電車から降りてくる大勢の乗客が生み出す雑踏にノイズまみれの携帯音声が混じって、内容が判然としない。音声を確認すべきか、映像を優先すべきか迷った。
それらしい動画が見つかった。空井の声がくぐもっていてよく聞き取れない。サツキと空井の姿が確認できるので撮影者は彼の妻だろうか。
ふたりは静かに会話を交わしたあと、サツキがこくりと頷いた。背景を確認する。どこかで見た風景――いや、正しく赤坂見附駅である、この場所かもしれない。
空井の手には剣に似た刃物が握られていた。それがサツキの上半身を斜めに振り下され、飛沫のような鮮血が飛び散る。サツキがだらりと前のめりに倒れ、それを受け止めた空井が一瞬だけ胸に抱え――そして反動をつけて突き飛ばした。その突き飛ばした瞬間にサツキの身体が電車と接触し、吸収されるようにぼ やけて溶けた。
消えた。
いなくなった。
心臓が止まるかと思った。心が凍りつく。脳が停止した。一切の音が消えた。時間と世界が失われた錯覚に陥った。わからない。サツキは空井に殺されたのか。
「な、んで、お、サツキ」
問い詰めたいのに、頭の回路が混戦して言語が組み立てられない。頭が爆発しそうなほど沸騰している。安否はわからない。だが空井が斬りつけたことだけは事実なのだ。
俺は空井の顔面を殴りつけていた。
人を殴るのは生まれて初めてのことだ。拳がじんじんと血流を活発にする。じくじくと脈動を感じるが痛みはなかった。星が飛ぶように目の前がちかちかと明滅する。
先ほど切れた口内の傷が更に割けたのか、空井の口からぼたぼたと血の塊がこぼれた。
停車した丸ノ内線に空井が触れた時、きんと音を立てて、周囲の風景が固まった。雑踏から音が消え、降車した乗客も動きを止めた。動いているのは自分たち四人だけだった。
「くっ。さがれユウ」
ギンが右腕で場を制して庇うようにユウを押し下げる。空井がごほんと咳払いして血の塊を掌に集め、それを払う。空井の手には鋭く尖る錐のような赤い刃物が握られていた。
切っ先は俺の鼻先を狙っていた。
「ひどいな。暴力はなしって言ったよね?」
「……おま……サツキを……サツキをどうしたんだよ!」
「僕はきちんと確認したよ? 選んだのは彼女だ」
「確認? 何を確認したっていうんだ。適当に唆して殺したんじゃないのか! ころ」
殺したと口にして愕然した。
死んだ。サツキは死んだのか。嘘だ。違う。
否定するように大きくかぶりを振ると空井がくすくす笑った。
「死んでないよ。大丈夫、死んでない。パートナーになっただけ。これ」
空井の拳が電車の外郭をこんこんと弾いた。
「これだよこれ。君のパートナーとして丸ノ内線、メトロそのものの器になってる。パートナーを持てば、集められる魄尺の量が違ってくるんだ。仕事が捗る」
「は、何言って……」
「君がノルマの魄尺を集めるか、その前に血族がむんざしを取り戻すか、それで彼女は肉体を取り戻せる。それまではパートナーとしてずっと君の傍に……手足となって君を運び、時には君を包み、君に協力を惜しまないってこと」
空井の言葉が理解できない。
サツキが電車になったって?
「彼女は素敵な女の子だね。とても健気だ。君の日常を取り戻すためなら、何でもすると言っていた。何でも、だよ?」
「俺の日常」
「話したんでしょ? 元の生活に戻りたい。戻るためなら何でもする。帰りたい帰りたい帰りたいってさ」
話した。弱音を吐いた。女々しく泣き言を繰り返した。
最後に顔を合わせた日、サツキは泣いていた。泣き続けていた。俺とずっと一緒にいるという言葉を馬鹿みたいに繰り返して泣き続けた。
卒業までの三年は長いからあっという間に追いつけると慰めてくれていたのに、突然意見を翻して、三年など僅かな時間でしかないと言い出した。
サツキが日常を捨て、俺のため、献身的に人生を捧げると決めたから――俺に対してだけでなく、数年など微々たる時間だと自分に言い聞かせたというのか。
――ずっと傍にいるです。
サツキの声が頭で響いた時、俺は判断するより早く本能で空井に飛び掛かっていた。無策のまま両腕にしがみついても、空井の肘を後ろに引かれて無様に剥がされる。
「冷静になったら?」
空井が赤い錐の剣を電車にこすりつけると、ぎぎいと嫌な金属音がした。
「僕らの目指す進路は同じ。利害が一致したら協力するのが一番でしょ。あんまり聞き分けがないと、こうして――」
空井がメトロの外壁に傷をつける。心を切り刻むような甲高い音がサツキの悲鳴に聞こえ、俺は空井の足を掴んで懇願していた。
「やめてくれ!」
「どけ受験生」
真横からスライドしてきたギンが、外側に膝を押し出す圧力で俺を弾く。厚手の外套から出た腕に太くしなやかな鞭を持っており、強度を確かめるように鞭の先を床にばちんと叩き付けた。補佐するよう隣にユウが並び、眩い黄金の小刀を構えている。
ギンの鞭が空井師匠の足元、脇腹、首元を順に狙う。師匠が軽快な跳躍で攻撃を回避する。空気を切り裂く音がひゅんひゅんと断続的に響くが、文字通り風を切る速さなので目で追えない。ユウが小刀を空井師匠の足元に放って足止めする。その隙に鞭が空井師匠の手首に巻きつき、動きを拘束した。
ギンが俺を見下ろし、くいと顎を振って呼び寄せる合図を送ってきた。
空井師匠を危険人物と認め、罰するのだと。どこかに隔離するのだと。勝手な行動で迷惑をかけ、サツキの人生を壊したことを後悔させてやるのだと、そう思っていた。
ユウが俺の頭をつかみ、強引に下げさせる。
「ほら。マルちゃん、謝って!」
「は」
「ごめんなさい、しなさい!」
「何で俺が! 何もかも勝手にやったのはこいつだろ! 悪いのは俺じゃない! サツキのことだって、爆破のことだって……!」
「ソライの行動は責めない。責任を取るのは貴様だ」
「責任……?」
「何度言わせる気だ。破壊されたメトロと失った魄尺を償え」
「だからそれはこいつが勝手に……! どうしてこいつを庇うんだ! こいつを退治しにきたんじゃないのか!」
「俺は詳細を白状させに来たと言った」
「くそ、じゃあわかった! いいよもう、俺がすべてやってやる! サツキを元に戻したら謝ってやるし、盗みだってしてやる! だからサツキを返せ!」
「貴様は耳が悪いな。本人が了承した以上、簡単に人型に戻すことはできない」
「じゃあどうすんだよ!」
「業を果たせ。でなければ死ね。最初からそう言っている」
ギンの鞭がしゅるりと音を立てて短くなり、掌に握られた筒に収納された。空井師匠が面倒くさそうに肩を竦める。
「真面目で頭が固くて疲れるよね、今のギンは」
ギンの眼球が鋭く空井を射る。
「最初からギンが手取り足取り何から何まで教えてあげれば良いのにさ」
「業を果たしていれば、使命や手段など自然に思い出す」
「それがクソ真面目なの。教えてあげれば済むことじゃない」
「乳児に因数分解を教え、ステーキを食わせるようなものだ。生後一日目で二足歩行させる馬鹿がどこにいる」
「けど結果、マルちゃんは魄尺を溜めてるよ?」
「馬鹿と馬鹿が馬鹿なことを仕出かしたから今回の事態になったんだが?」
ギンが不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
空井師匠がふっと笑んで赤い錐の剣を振り上げた。その切っ先で、近くで凍った通行人の口を開かせる。通行人が歯茎が剥き出しになり、歯を器用にどかせて剣先を上に跳ねさせた。血飛沫と共に切り取られた舌が空に舞う。舌だとわかるまでに数秒を要した。
鮮血が浮いた瞬間、ギンと空井が同時に距離を取った。珠になった血飛沫が散弾銃のようにギンを狙う。ギンが間一髪それを躱すと、空井師匠は次の通行人の腕を切り落とし、夥しい量の血が床にばら撒かれた。空井が腕を伸ばすと、血だまりが沸騰した湯のようにぼこぼこと泡を立て、やがて細かい針のように浮き上がる。それらは意志を持ったようにギンへ放たれた。鞭で応戦したものの、数本刺さったらしく腕から血を流している。
空井師匠がくつくつと笑う。
「誰もが体内に赤を巡らせている。赤はマルの領分だよ。滑稽だねえギン。たかがオレンジの分際で赤に勝てると思ってんの?」
「……くっ」
ギンが腕を押さえる。いつの間にか空井の死角に回っていたユウが紙幣のような紙をびりびりと破き、ふうと息を吹きかける。呪詛をかけられた札のように、紙幣が尋常ではない速さで空井師匠の首元を切りつけた。傷口からたらりと血が垂れている。
空井師匠はそれを掌で拭き取ると、おいしそうに舐めた。
「傷つけてもいいよ? 傷は赤を生むし?」
「ギン!」
ユウが叫び、腰にさげた袋を床に叩き付けた。小銭に似た丸い金属がじゃらじゃらと広がる。ひとりで所持できるとは思えない量に増殖し、床面積を埋めてゆく。
ユウの声が発動条件なのか、ギンの掌から激しい発光現象が起きた。目を開けていられない。それどころか瞼越しに光が突き刺さり、脳髄を攻撃してくる。悶絶する空井の声が届く。ギンとユウが何かを仕掛けたらしいが、俺には認識できない。
柱に手を這わせて立ち上がる。衣服を通過し、皮膚がじりじりと焦げるように痛みを広げていった。呻きながら、どうにか目を開けると柱の時刻表が目に入った。
そして――丸ノ内線を表す赤い丸印を見つけた。赤はマルを助けてくれる。俺は無意識にその看板をなぞった。すると、印刷されているはずの赤い丸印がかたりと外れた。瞼をこじ開けて空井師匠を確認し、その輪を背中めがけて放り投げた。円盤投げのようにくるくる回転しながら輪が師匠の腕を切り裂く。師匠からぎゃあと悲鳴があがった。やった。達成感と共に安堵の息を吐いた時、耳朶に空井師匠の低い囁きが進入してきた。
「どうして君が」
殺意を感じてぞわりと背中が粟立った。




