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えきちゅう。  作者: 田中志摩貴
13/22

その13


 ぼんやりと思う。

 大江戸線や浅草線、他にも新宿線や三田線などは、通常メトロとは違って都が経営している。統合しない限り、一度改札を抜けて料金を精算する必要がある。

 俺が血族の業に捕らわれている限り、都営線や他私鉄やJRには乗れないのか。ノルマが達成されるまでは、ずっと。

「ここ……港区ですね」

「いきなりどしたの。何してんの」

 俺は壁にぺたりと額を押し付けた。

「俺は東京生まれの東京育ちです。なのに東京タワーに上ったことがありません」

「え。ないの? 学校行事で小学校の時なんかに昇らない?」

「昇ってないです」

 俺は瞼を伏せた。

「明日行こう、来週行こう、来月行こう、来年行こう。別に慌てなくてもいつでも昇れるじゃないですか。ずっと東京で暮らしているわけだし、タワーがなくなるわけじゃないし、今ならスカイツリーの方が旬だし」

 胸中を渦を巻く後悔がこみ上げる。近くにあるから。いつでもできるから。どうせ高い場所から街並みを見下ろすだけだし、慌てなくても問題ない。そう楽観していた。

突然日常から自分だけが切り離されるなんて――思わなかった。

 泣きたくなんてない。涙が出るほど悔しいわけじゃない。だが自分の愚かさを噛みしめている。噛みしめるべきだと思う。一日を漫然と過ごす幸せ。だけど後悔しない一日にすべきだとも思う。よくある一日一日を積み重ねることが人生なのだから。

「そんなに大層なものかねえ。マルちゃんて、そんなに東京タワーが好きだったんだ?」

「好きとかじゃなくて、この事態を想定してなかったというか人生ナメてたというか」

「いずれタワーの天辺に昇りたい?」

「そうですね、いつか……いつか……自由が戻ったら……昇ろうかと……」

 とんとんと肩をつつかれる。

「ほら。見ておきなよ」

「――!」

 俺は絶句した。空井師匠の指が促す方向に壁がなかった。壁が消えた。思わず手を伸ばしてみるがコンクリの感触がない。消えたというのか。改札と同じように。

「マルちゃんは駅から出られないから、見るだけで我慢しといてくれる?」

 映像で何度も見た、模型のような東京タワーがビルから突き出している。

 朝日に照らされて鉄骨が赤黒く煤けてみえる。全容は見えなくとも、二等辺三角形にそびえたつ東京タワーがそこにあった。

「えー、おほんおほん。あちらに見えますのは、昭和三十三年に竣工され同年に完成した正式名称・日本電波塔でございます。高さは三百三十三メートル未満、海抜三百五十一メートルで、塔脚の間隔は八十八メートル。総工費約三十億円をかけ、二十万人強を動員して一年半で作り上げました。隙間だらけに見えるけど下から見上げると迫力あるよね……って、えええ? なんで写メとってんの!」

「赤いから」

「東京タワーを激写なんて観光客丸出しじゃない。って、そだ。どうせなら、こっちも」

 空井師匠が俺の両肩を掴んで方向を定める。

「あの寺も撮っておけば? 増上寺。赤いでしょ」

「ほんとだ」

 俺は素直にカメラ機能を操作した。

「増上寺――天正十八年、徳川家康が江戸入府の際に菩提寺とするも、後に移転された。が、江戸城の拡張に伴い、慶長三年に現在地の芝へ移された。風水学的には、江戸の鬼門である上野に寛永寺を配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したと考えられる」

「徳川家の墓があるんでしたっけ」

「そ。増上寺と寛永寺と、日光にもあったような、そんなような気がする」

「日光だけ適当ですね」

「日光なんて行ったことないから。地方に行くの嫌なの、僕」

「……社会人として不安になる発言ですよ、それ」

「ほっときなさい。それより増上寺は撮れた? ああ見せなくていいし、本当やめて。そんな寺なんて全然見たくないから、ほんと冗談じゃなく」

 空井師匠がふうと溜息を吐く。

「増上寺は、そもそも空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚に建てた光明寺が始まりじゃないかと言われてる。光明寺は紀尾井町にあったの。紀尾井町の由来知ってる? 紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家の文字を繋げて、紀尾井町」

「井伊家だけ井の文字ですか? 彦ではなく? 法則がおかしくないですか?」

「あいつらは馬鹿だから仕方ない」

「あいつら?」

「馬鹿のことだよ」

 答えになってないが、掘り下げるほどの好奇心がないので追及は心で掻き消した。携帯上に指を躍らせて写メの出来を確認しながら、上っ面の会話を繋げる。

「紀尾井町ってどこでしたっけ」

「永田町駅。マルちゃんがよく出向く赤坂見附と構内が繋がってる駅だね。メトロが交錯してるとこ。赤坂見附で『丸ノ内線』『銀座線』、永田町で『半蔵門線』『南北線』『有楽町線』。計五つだよ五つ。駅名は別だけど、同一駅でしょ実質」

「はあ」

「飯田橋駅は『東西線』『南北線』『有楽町線』の三つのメトロに、『都営・大江戸線』。大手町駅でさえ『丸ノ内線』『東西線』『千代田線』『半蔵門線』に『都営・三田線』なのに」

「はあ」

「テンション低! ちょっと! なんかおかしな目で見るの、やめてくれる?」

「いえ、ヲタクだなんて思ってません」

「はあ? これくらいでヲタクなわけないでしょーが。都内で地下鉄使ってたらメトロの乗り換え駅は自然と覚えるでしょ、ふつー」

 空井師匠が必死に弁明していたが、そんなことは大人にならないとわからない。高校生の行動範囲はそう広くないのが現実だった。

 大門駅構内で都営三田線に乗り換える。

 近距離に建設された芝公園駅で下車し、駅構内で再び金平糖を撒いた。彼の妻はやはり一言も喋らず、夫の意志を汲んだ動きで鞄を渡し、そして引き受ける。

 芝公園駅を終えると、次は御成門駅でも同様にそれを行った。

 儀式――にしては簡易で、荘厳さもありがたみもない。空井師匠は、庭の花に水やりをするよりずっと価値のないことを行うように動く。義務的というより事務的だ。

 ただ黙って金平糖を撒く。

 俺は背後で待機することに飽き、一度だけ傍に近寄ってみた。

 話しかけようと顔を覗きこむと、十日以上も不眠状態が続いた人間のように目が虚ろだった。まるでガラス玉だ。もしかすると当人にしかわからない労力があるのかもしれないと、俺は足音を潜めて元の場所に戻った。



 都営三田線の御成門駅を出て、日比谷駅で千代田線に乗り換える。すぐに国会議事堂駅で降り、見慣れた丸ノ内線に到着した。――幸い、椅子取りゲームの始まりを告げる音楽は鳴っていない。永遠に鳴らなければいいとさえ願ってしまう。

 時刻は午前九時前。乗車率は二割程度で、新宿を抜けると主婦や家族連れが急激に増えた。老齢の女性が忙しなくスマホ画面に指を滑らせており、他にはベビーカーを押す主婦が目立つ。

 子供には関わるな。ギンに忠告されたことが閃光のように脳裏をよぎった。

「……あの、子供には関わるなと言われたんですけど……」

「誰に?」

「ギンから」

「ふうん」

 素っ気ない返事のあと、しばらく応答がなかった。またも転寝しているのかと思い「あの」と返答を促してみる。

「ん? ああ、そっかギンがね。うん、たぶん、子供に関わると面倒だからだよ。マルちゃんが知らないだけで、子供が誘拐されたり、十代が失踪したり、神隠し的なことは起きてるんだ。ポスターとして貼られることもある」

 数日前、サツキが駅構内で子供の捜索願ポスターを見つけていた。

「当事者にとって最大の関心ごとでも、他人にとっては、無関係な事件でしかない。みんな気にしない。人間は雨が降れば気になるけど、それは自分が濡れるかもしれないからだ。隣の県で雨が降ってても気にしない。いつ止むかも気にしない。関心がない」

「そう、ですね」

「大人の失踪じゃ警察は動かないけど、子供は探すでしょ。駅員や巡回してる警察に尋ねられることがあるかもしれない。僕らはなるべく厄介ごとを避けてミッションをこなすわけだから目立つのはご法度だ。だからギンが注意してきたんじゃないかな?」

「なるほど」

 よく考えたら、自分も忽然と日常から消えた立場だった。だけど誰も気にしない。見えざる大きな奔流が俺の消失を上書きした。

それにしても――僻地の海外に留学って何だよ。どこに行った設定なんだよ俺。

「行方不明のことを、俗に『蒸発する』って言うよね。あれ面白い。蒸発だよ蒸発」

 空井師匠が口元を押さえてくつくつと笑った。

 確かに――人体が沸騰して気体に変化するわけでもないのに蒸発と呼ぶのは皮肉すぎる。むしろ蒸発と揶揄するなら死亡認定と変わらない。

 もともと警察の隠語なのか?

 拙い思考を働かせていると、いつしか師匠の笑声が止んでいた。眠ったのか。そろりと横目で窺うと、空井師匠は眠るどころか右斜めの扉口で子供をあやす母親を見つめていた。目尻を垂らし、ほうと柔和な吐息を漏らす。

「……可愛いね、赤ちゃん」

「はい?」

「エネルギーの塊って感じ。恐ろしいスピードで代謝と細胞分裂を繰り返して、骨も肉も皮膚も伸びて膨らんでぐんぐん巨大化していく。赤ちゃんってすごい」

「子供好きなんですか?」

「もう最高。僕にはまだ子供がいないんだ。いつかできるかな~」

 空井師匠には妻がいる。出会い頭には、傍を離れないパートナーだと紹介したくせに、妻の扱いがぞんざいだと思うのは俺だけだろうか。

 俯き、髪で顔を隠し、口を閉ざし、目も合わせない。だが空井師匠が呼ぶと絶妙なタイミングで現れる。まるで機械的に設定されているかのようだ。

 左右に目を巡らせるも、早朝とは違って乗客が邪魔して妻の姿を発見できない。腰を浮かせ、早足で左の車両を覗いてみる。いない。さらにもう一両を確認する。やはりいない。引き返し、今度は右の車両へ移動してみる。いた。だが右隣車両の最奥に座り、ぐったりとした様子で車両壁に凭れていた。身体の不調を疑い、思わず近寄りかけたが、彼女にとってはあれが日常かもしれない。――他人事ながら悶々とする。

 これも夫婦の形なのか?

 力なく腰を下ろすと、子供のようにはしゃぐ師匠に腕を掴まれた。

「ねえねえ見てよ! あんなに小さな手をきゅっと握りしめてぶんぶん振ってる! すごいな! あんなに小さいのにすごいな!」

 師匠の興奮に気付いたのか、赤子の母親が嫌悪を示すように眉を寄せた。

「あはは。母親が僕を警戒してる! 子を守る本能が働いてるのかな! そうだよー。世の中は何があるかわからないから気をつけなきゃダメだよー」

 師匠は身を乗り出し、さらに顔まで突出し、あばばばーなどとおどけてみせた。母親はきっと師匠を睨みつけ、隣の車両へ移っていった。

「行っちゃった。あはは」

「おかしなことするからじゃないですか。俺まで不審者扱いですよ」

「わかってないなあ、マルちゃんは。あれは僕のやーさーしーさ」

 次の駅で停車すると、学生らしき集団が大量に乗り込んできた。

 女子大生だろうか。合コンに挑むかのようにきっちり化粧しているし、頭の天辺から靴先に至るまで衣装やアクセに隙がない。急に華やかさが増した。てらてら光る口元から漏れる笑声。期待と刺激に胸を膨らませて人生を謳歌する彼女たちがひどく眩しかった。

 電車が発進する直前、空井師匠が無言で立ち上がって学生に席を譲った。車両の端まで移動した師匠が、吊革に右手を預けながら耳打ちしてくる。

「音楽は鳴ってない?」

「はい。まだ今日は一度も……」

「昨日あげた扇子、出して」

「え、あ、はい!」

「広げる時はゆっくりね」

 空井師匠の目が弓なりに垂れる。神妙な表情にも見えるし、今にも泣きだしそうな表情にも見えるし、笑っているようにも見えた。俺はごくりと息を呑んだ。

「その扇子をふわりと浮かせる。そしてラジオ体操をするんだよ」

「え、ラジオ体操?」

「うん。ラジオ体操第二」

「最初からですか? その……電車の中で?」

「もちろん」

 空井師匠の目は真剣だった。




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