第88話 あやまった選択
周りを見渡しでもドライアードやウンディーネの姿はなかった。治癒や解毒などで力を使い過ぎたせいで、顕現する余力がないのだろうか。
いくら精霊とはいえ実体化するには相当にエネルギーがいるし、ここはダイヤ王国ではないのだ。長時間、居続けることに無理があった。
(ダメだわ……。私じゃ戦力外。妖精たちは、傍にいるけれど機動力や純粋な物理攻撃なら──)
「ソフィ様、貴女を守りながら戦うのは難しい。……ですので、こちらの魔導具『箱庭』に避難していただくことは出来ないだろうか」
「え。避難? 私だけ?」
差し出されたのは、懐中時計に似た造りの魔導具だった。銀と硝子と魔石で作られた懐中時計はまさに至高の一品と呼ぶにふさわしい出来栄えで、思わず魅入ってしまった。
「ひとまず貴女だけでも。その後にジェラルド様、王妃様もお連れします」
「これは……クローバー魔法国が作った魔導具?」
「ええ。昔譲ってもらったもので、ここの中なら安全だ」
「でも──」
躊躇うものの時間はあまりない。
ミシミシと嫌な音を立てて壁が崩れつつあった。漏れ出る血の匂いと、殺意に私は腰を抜かし座り込んでしまう。そんな私をセイエン様は困った顔で微笑み、私を抱き上げてソファに座らせた。そして両手に懐中時計を握らせる。
「大丈夫です。私も後でそちらに行きますから、だから私が来るまでは大人しく箱庭にいてください。いいですね」
「でも」
「ソフィ様、お願いです。貴女に万が一のことがあったらフェイが悲しむ」
「!」
フェイ様。その名前を出されてしまっては、反論できない。
この場で役に立たないのは私だ。ならばセイエン様の指示に従うのは正しい。悔しい思いをしながら私は懐中時計を握りしめた。
「セイエン様、絶対に、無茶をなさらないでくださいね。フェイ様のことも──」
「ああ、大丈夫だ。しかし、貴女に心配されるというのは存外悪くない」
「セイエン様」
こんな状況だというのに、セイエン様は嬉しそうに微笑む。
熱意のこもった視線はどこか怖い。
「……心配しなくても平気だ。奏波と来波も姿を消しているが、戦う準備は整えている筈だ」
「そう、だったのですか」
寝室に居なかった理由を知り、私は少しだけ安堵した。
「それでは、『ソフィ様は、箱庭に入っていただきます。私が出ていいよ、というまで出られない』いいですね。問題がなければ『許可する』と、言ってください」
「……わかりました」
ふと突然にセイエン様の言ったことに違和感を覚えた。けれど、それが何なのかすぐにはピンとこなかった。
壁が砕かれ咆哮にも似た叫び声と殺意に、私は思考を乱されて選択を迫られる。
壁の向こうから現れたのは赤黒い巨体だった。
真紅の瞳は爛々と輝いており、人の姿をしているが人ではなかった。鋭い牙、鋭い爪は簡単に周囲の壁を引き裂いた。
「!」
禍々しい血と汚泥と腐臭が部屋に充満する。
それも一人ではない。複数人いる。
凄まじい殺意に私は震えるばかりで、声が出なかった。
────ガアアアアアアアアアア!!──
咆哮。怯まずに飛び出していったのはセイエン様だ。解毒したとはいえ、体力が回復したわけではない。それでも彼はギリギリまで吸血鬼の力を引き出し、拮抗する。
紫の瞳が真紅に染まり、頬に漆黒の紋様が浮き上がった。
剣戟がぶつかり合い、火花を散らせた。
赤黒い巨体は、数体ほど部屋に侵入して──退路を断つ。
(逃げ道はない……。そうなったら、もう……)
「ぐっ……ソフィ様!」
「『許可します』!」
次の瞬間、私の体は懐中時計の中に吸い込まれた。
何かが可笑しい。
ローズの言葉と、セイエン様の内容の差異。
何か違和感があったはずなのに、意識が強制的に閉ざされた瞬間、その違和感も頭の中から抜け落ちてしまった。
「ああ、これでやっと手に入れられた」
「え」
そう心から安堵した甘い声を、耳にしていたのに──意識を手放した。
私は、選択を誤ってしまった。
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