第二話 少年と父と母
ハイランド王国の北西部には、ロフティという名で東の大陸の者たちにも知られている一峰がある。山の標高自体は、王国最南端にそびえ立っているゴドランドの連峰に比べれば、随分と低い。
もっとも、それはロフティ山と低き山が同義ということではない。ゴドランド山岳地帯を除けばハイランドの領域内で最も高きを誇る山であり、ゴドランド一帯が大陸を南北に分断するように隆起していった、そのはるかな以前より変わらぬ姿でもって鎮座し続けている。
やや白みを帯びた黄色の山肌は、晴れた日には朝に夕なに陽の光によって赤く染まり、月明かりの元ではやや白く彩られる。山肌の色合いと山頂付近の夏でも溶けない雪を麗々しく戴いた真白な冠の対比は、悠久たる孤高という名に相応しいものであった。
そのロフティの山すそからは一筋の川が、弧を描くように曲がりながら東南へと流れている。川の名をホワイトローズ川という。ホワイトローズ川はやがてレッドローズ川、次いでイエローローズ川と混ざり合う。三つの川が合流して後の下流はローズ河と呼び名を変え、滔々と流れいく大河の果ては蒼い海へとそそでいる。
白、赤、黄色のローズ川とローズ河流域にはいくつもの街が点在している。その全ての流域中において、ゆるやかでこそあるものの最も大きく河筋が湾曲している箇所に、青みを帯びた切石作りの城壁に囲まれた王宮をいただくハイランド王国の都インバネスがある。
青い石の西地区。その一角には周囲にあまたある屋敷に比べれば幾分狭いものの、一家族が暮らすには充分な広さの敷地の内に建てられた一軒の石造りの家があった。
その中では、年の頃三十をいくらかは過ぎていそうな女性が、目元と顔の輪郭がそっくりな少年の手伝いを受けながら夕食の準備にはげんでいる。
「もうしばらくすれば帰宅の頃合よね。シモン、頼まれてくれる? 氷室から麦酒を一壷だけ出してテーブルに置いておいてくれないかしら」
「わかったよ、母さん」
はずみを帯びた声で勢いよく母親に返事をかえした少年シモンは、黒羊の腿肉や白人参、玉葱などを煮込んでいた鍋をかき混ぜていた手を止める。と、調理場から二部屋ほど先の広間へと向かい、壁沿いの鉄籠の中に置かれていた木ぎれの中から、たいまつ用のそれを一本ほど選ぶと手に取った。
シモンは、こうこうと燃え盛っている暖炉の炎の中へと木ぎれを素早く差し入れる。先端に獣油を染みこませた布を巻き鉄線で縛っている木ぎれに、あっという間に火が燃え移っていった。たいまつを手にしたシモンは、家の外へと向かっていく。
暦を司る天文官が神々に仕える神祇官との連名でもって春の訪れを王の名の元にインバネスの住民に告げてより、まだ三日しか経っていない日の夕暮れ時である。この時間帯における屋外の冷えこんだ空気は、衣の中へと容易に侵入を果たしてしまう。
四日前の寒さとさして差などないような、冬と春の境目はどこで決まるのだろう。ふと、シモンの頭には、少なくとも今この場においては解の得られるはずもない疑問が生じていた。
長袖の毛織服では汗をかいてしまいそうなほどの温もりのあった屋内とは別世界であった。吹き寄せてきた風をまともに顔の正面から受けてしまい、額に垂れていた前髪のいくらかがばさばさと揺れ動く。思わず身体がぶるりと震えてしまう。
母に命じられた用事を早々に済ませるべく、シモンは足を早める。家屋からやや離れた場所に建てられている蔵の、ぶ厚い樫の木で作られている扉に左肩を預けていく。それは、あまり行儀の良い姿勢とはいえなかった。だが、鉄製の扉の取っ手を握る気にはなれなかった。自身の体重の重さを頼りに扉を開けていく。
蔵に大した物など保管していないから、と鍵をかける手間を省きがちな両親の無用心さをいつもはやや批判的に受け止めていたシモンであったが、今ばかりはそれが随分と思慮深き叡智にすら感じられていた。
蔵の中へと入りこむと、事態はいっそうの悪化をみていた。外の、ある種の堂々とした寒さとは少しばかり毛色の異なる、冷やりとした身体の内部から凍えてしまいそうな空気が肌を晒している顔や首筋に触れてくる。
少しでも早く暖かな火の灯る家の中へと戻るべく、壁にかけられていた兎の毛皮の裏打ちされた二股の手袋を左手にだけはめたシモンは、右手にたいまつをかかげながら地下へと続く階段を急いで降りていった。
蔵の入り口と同様に厚みのある樫の木で出来ている扉を開いた先にある氷室の中は、蔵の一階ですらここに比べればはるかに暖かな場所であった。冷え切っていた。
シモンは呼吸をする度ごとに喉がちりちりと痛みを訴えてくる様な真白く染まる息を吐き出しながら、歩を進めていった。やや奥に設けられている凍り酒の収められている一画へとたどり着くと、最も手前に置かれていた青い二本の線が入った土瓶を手袋越しに掴み取る。とともに、すぐに身体の向きを反対側へと変え、入り口を目指す。少しでも早く退散すべく、早足でその場を後にした。
氷室から出るやいなや、どんっという音を盛大に鳴らしながら扉を閉め、階段を駆け上がっていく。蔵の入り口近くまで達すると、砂の盛られている器にたいまつの先を刺しこんで火を消し、土瓶を目に付いた箱の上に置く。左手にはめていたミトンを幾分乱暴に剥ぎ取って壁にかけていく。
再び土瓶とたいまつを手に取り蔵から外に出た途端、扉を幾分乱暴に閉め、駆け足で家の内へと舞い戻っていった。
麦酒の壷を広間のテーブルの上に置き、赤々とくべられている木片の燃えている暖炉の前に崩れるように屈みこんでいったシモンは、ようやくいくらかの人心地がついてくる。
手の平を暖炉にかざしながら、芯まで冷えきった身体を暖める作業に無心で没頭していった。
しばらく経ちシモンの関心が身体を温める以外のこと、主に母親の準備している夕食の匂いに移りつつあった頃、家の入り口から表門へかけて敷き詰められている石畳を馬の蹄が踏みしだく、ぽくぽくという特徴的な音が耳へと届けられてきた。
幼き頃より聞き慣れて、耳に馴染んでいるその音を鳴らしている父を出迎えるべく、暖炉の前よりシモンはすっくと立ち上がる。
春とはいえいまだ肌寒い外へと勢いよく飛び出していたが、不思議なもので先ほどとは異なり寒さもそれほど気にはならなかった。馬小屋の方へと弾むような駆け足で向かっていく。
「おかえりなさい、父さま」
荒布で馬の汗を拭っている父の背中へ、そう声をかける。
「やあ、ただいま」
朝の出仕を母親とともに見送ってから、わずか半日ぶりではあったのだが、何故だか随分と久しいもののような微かな差異を感じたシモンは、戸惑いを覚えていた。
強いていうならば、父親の声の調子がいつもとはどこかが異なるように思えた。背中にしても幾分こわばっているようで、心ここにあらずといった風に見えなくもなかった。
何だろう。その場に立ち止まり違和感について思い巡らせていたシモンの視界に、馬の右側の汗を拭き取るべく歩んでいる父親の姿が映るとともに、目と目が合った。
「シモン。父さんはな、遊びに行ってきたわけじゃあない。それは分かるな」
心中を見透かされたように機先を父に制せられてしまう。
言われてみればもっともなことで、疲れていられるだけだろう。いつもと変わりない。寒いからかもしれない、と納得した。
父親の作業を手伝うべく、柱にかけてある木ヘラを手に取ると、馬の左前脚を少し浮かせて蹄にこびり付いている泥や馬糞などの汚れを手馴れた態でこそぎ落としていく。そのまま四本の脚全ての蹄を綺麗にし終えて顔を上げると、父親が満足そうな笑みを浮かべながらシモンをじっと見つめていた。
「いいぞ、シモン。実に丁寧な仕事ぶりだった」
誉められて、顔が自然とほころんでいく。
「さてと、飼料の準備を頼んでもいいかな」
その声を聞くやいなや「父さま、任せてよ」と応え、馬小屋入り口横の飼料置き場へと向かっていった。
オーツ麦や大麦、青草などを含む夜用の配合を済ませたシモンは、飼料を満たした飼い馬桶を両手で抱え、父親の後を追いかけていく。新しい藁を敷いてある場所へと馬を誘導し終え、手綱を外している父親の声が届く。
「この様子だと、お前に馬を与えても世話の心配はなさそうだな」
「いいの?」
自分の馬を持つというのは一人前として認められたという証である。思わず上ずった調子の声で返事を返したシモンの頬が嬉しさにゆるむ。
「待て待て、慌てるな。この馬というわけではないぞ」
「父さまが出仕する時、困るもんね。徒歩というわけにもいかないしね」
「そういうことだ。では、そろそろ戻るとするか。あまり待たせると母さんの機嫌が悪くなるからな」
父と子は肌寒い馬小屋から、暖かな家へと向かっていった。シモンは父親と並ぶように少し早足で歩いていく。家に近づくと駆け足気味となって父親の為に家の扉を開けた。
「お帰りなさい、ポントス」
「ただいま、ヨハンナ」
家の扉を中から閉めているシモンの耳に、慣れ親しんだいつもの父と母のやりとりが聞こえてくる。
「おや、テーブルの上に置いてあるのは青い二本線じゃないか。ランツ酒房でも一番の銘品だね。今日は何か祝うべき良きことでも起きたのかな」
「あら。シモン、そうなの?」
父と母、二人の視線を浴びてシモンは少しばかり動揺を覚える。あまりの氷室の冷えこみ具合に少しでも早くその場を去るべく、最も近い場所に置かれていた素焼きの壷を持ってきただけのことであった。それがどうやら値が張りそうなお酒であるなど、今の今まで全く気がついてなどいなかった。
シモンの顔に浮かんだ微細な表情の変化は、父親にも母親にも見逃されるはずもない。
「うん。えっと……そうだ、春が来たんだよ」
「シモン、それは三日も前の古い報せじゃないの」
「おまえ……もう少しましな言い訳をだな。もっとも、私にしてみればランツの芳醇なる凍り麦酒を嗜めるわけだから、否も応もないが」
そういって、はははと笑い声をあげている父の右の手の平が、シモンの頭の方へと突如伸びてくる。赤く、まるで燃えているかのような輝きを有した、父の髪と同じ色を帯びているシモンの髪の毛は、父親の指によって絡められくしゃくしゃと掻きまわされていく。
それからしばらく後、シモンは親子三人で揃って夕食をかこんでいた。シモンが好物である青豆鳥の香草焼きに舌鼓を打っていると、母がいくらか心配そうな声色で父に尋ねている。
「ところで、あなた。一昨日、鹿肉や白人参などの値が急に下がっているという話をしたことを覚えています?」
「ああ、そういえば。そんな話をヨハンナはしていたな」
父はそういったきり、黒羊の腿肉の煮込みに肉刀をぶすりと刺しこみ切り分けた塊を口へと運ぶ作業を黙々と繰り返していた。が、母からの視線に気がついた様子で、肉刀を動かすいったん手を止めると、母の方へ顔を向けた。
「いったい、それがどうしたというのだ?」
「なんでも、南の方で余剰となった肉や野菜の類が北に流れてきているらしいのです。それだけでしたら、作り過ぎた物が安くなった、というだけのことなのでしょうけど……」
そういったきり口ごもる母に向けて、父は目で続きを促している。
「おかしな噂が付いているのです。南の、とある砦から人がいなくなったので一帯では物が余り、少しでも損を防ぐ為に人口の多い王都まで運んで売りさばいているだとかなんとか。他にも南の、これはハイランドの南部という意味ではなく、ゴドランドの向こう側という意味で、なんでも泉が枯れたとか。私は天文や地理に詳しいわけではありませんが、ゴドランドが間に鎮座ましますとはいえ、ローランドは地続きの地でしょう? そこで冬に泉が枯れるほどの日照りが起きて、ハイランドに悪い影響がないものなのでしょうか?」
母の問いかけに対し、父の返事がしばらくたっても一向に聞こえてこないことに奇妙な胸騒ぎを覚えたシモンは、目の前の香草焼きの皿から意識と視線を完全に引き離して、父の顔をじっと見つめる。
母とシモンの顔を交互に見つめていた様子の父は、手に握っていた肉刀を腿肉汁の入った器にゆっくりと置いた後、いくらか表情を改めてぽつりぽつりと呟くかのような口ぶりで話を始めていた。
「夕食の後で改めて二人に話そうと思っていたのだがな。実は、明日よりしばらくの間、家を離れることとなった。南部の、ゴドランドの一帯に派遣される一団へ私も参加することがヨナス陛下もご隣席なされた会議で本日決められた。実は、先ほどヨハンナが言った噂の通り、人のいなくなった砦がある。それは間違いない。ただ、これにはあまり表沙汰にできない事情があってだな」
そういうと、父は右の手の伸ばした人差し指だけを一度唇に押し当て離していた。
「どうやら東の大陸から来ていた募兵の連中の口車に乗せられて、砦の人員丸ごとが傭兵契約したらしいのだ。過去にも例がないわけではないのだが、何せヨナス陛下の治世においては初めてのこと。ゴドランドの近くにある他の砦に同調者が出ない様に、また何かしら王都から眺めているには分からない待遇面での不満などでもあるのではないか、と。それら諸々を調査することが急遽決まり、私は医薬に通じている者も欲しいとのことで随員の端に加わる」
母の顔は何かいいたそうに、いくらか血の気も薄れている様にシモンには見えた。
「なに、心配することはない。遅くとも、夏になるまでには戻ってこられよう」
そういいながら父はついと母から外すと、目線を向けてくる。
「シモン。言うまでもないことだが、傭兵うんぬんは今のところ公表されてはおらぬ。たとえば明日は武技訓練の日であったな。みだりに話してはならないぞ」
「父さま、分かっています」
シモンが間を置かずそうこたえると、重々しく小さく一度うなずく父の姿が目に映る。
「お前たちは。ヨハンナもシモンも王室付き侍医官の家の者だ。無責任な噂話を聞くな、とは言わぬが、自らがそれに組するようであってはならないない」
母は、一言も口を挟もうとせず押し黙ったままであった。
「さあこの件はお仕舞いにしよう。お腹が空いている時に考えてもろくなことにはならないというのが私の自論だ」
そう言ったきり、この話はこれまでたといわんばかりに、黒羊の腿肉の煮込みとの格闘を再開した父の姿が目に映る。
つかの間父の言葉を考えていたものの、皿の上からただよう匂いが鼻腔をくすぐって止まない。考えるのを停止したシモンは年齢相応の食欲を満たすべく、肉刀を持つ手を動かし始めていった。
暖炉に燃えさかる木ぎれが、ぱちぱちと弾ける音が時折室内に響いていた。
「そうそう忘れていた。シモンに二つほど言伝を預かっている。一つ目は
史書塔の長であられる首席史書官ネイス・ボウマン殿より。ウォグト人の伝承とその記録書については王宮より外への持ち出しは禁じられているとのこと。だが事前に知らせてくれれば、史書塔内に限り閲覧の便宜は図ってもよいそうだ。それと、二つ目はピエト殿下より」
父の口調がかしこまったものへと変わったのを受け、シモンは改めて姿勢を正すと椅子へ座りなおす。
「次はいつ頃になれば顔を見せる? アリシアが新しいほら話を聞きたがっている。と、ご口上そのままに伝えよとの仰せであった。……それにしても、ほら話とはなんだ。お前、殿下よりこのような言を耳にした時の、父さんの顔を想像してみるがいい。殿下は笑っておられたが、返答に困ってしまったぞ」
「ほらだなんて。ピエト殿下も随分と酷いおっしゃりようです」
そうシモンは短く応えると、父と同じく苦笑いを浮かべた。
蒼い海の向こうにある東の大陸、その更に東における古い逸話を集めたといわれている書物に載っていた水の上をも走るかの様に燃える消えない火の話。
アヴァロンのはるか南にあると船乗りたちにいわれている諸島、そこにのみ生息しているという頭に二本の角が生えている獅子の話。
それを見つけた者は運命が変転する兆しと伝えられている、陽の光ではなく月光の下でしか咲かない薄青い花弁をまとう花の話。
それとも首の長い馬の、それとも他の……。
ほら話か真実なのかについては、シモンにも分かりようがない。何となれば、アリシア王女にせがまれるままに語った内容については、全て書物から得られた知識であって、一つたりともシモンが実際に目にしたものではないゆえに。
父の声が聞こえている。
「ともかく。ピエト、アリシア両殿下のご厚情を無下にするなどあってはならない。明後日の午後はお二方ともにご都合がよいとの仰せであったゆえ、お前が内宮へ伺う由をピエト殿下には早速申し上げておいた。参上の許可も合わせて得ておいた。当日は、次席内宮官のエフゲニ・リンドル殿の名をお出しすればよい。内宮まで案内される。いつも言っていることだが、両殿下はもちろんのこと他の方々にも失礼のないようにな」
明後日の午後は……青豆鳥の飼育についてはインバネス近郊で一番の評判を得ているマッツさんを訪ね、出来れば秘訣の一端なりを訊く予定であった。しかしながら、街から少し離れた集落へ出向くには時間的にも無理というものである。明日早々にでも行けなくなった断りをマッツさん宛てに言伝るとして、次の機会がいつ作れるのだろうか。
「ところでシモンよ。将来はいかがするつもりだ。それほど書物が好みであるのならば、一つ私の後を継いで医薬に関わる道を目指してみないか」
明後日の件について思考していたシモンに耳に、先の話が突然に、それもおかしな方向を向きながら訪れていた。
どうこたえればよいものかと、心持ち困っているシモンの様子を見かねたのか母が助け舟を出してくれる。
「あなた、シモンは血を見るのが嫌いな心根の優しい子なのですよ。史書の官吏という道も立派ですし、学舎に職を得るという将来も良いと私は思いますよ」
「おいおい、それではまるで私の心根は捻じ曲がっているとでも言いたいのか」
幾分寂しそうな表情をしつつも目は笑みを帯びて、そう母に言い返している父の姿があった。




