第2話 星五つ以上の根拠
開示室を出ると、廊下まで白かった。
壁も、床も、天井も、職員の手袋も。
葬儀評価局の建物は、どこまでも清潔に作られている。
清潔すぎて、ときどき思う。
ここは死者を弔う場所ではなく、死者の汚れを生者の目から拭き取る場所なのではないか、と。
廊下の突き当たりには、すり硝子の扉がある。
扉には、銀色の文字でこう刻まれていた。
葬儀評価局 終末評価課 異常評価係。
死後レビューの中でも、扱いに困るものが回されてくる部署だ。
星評価と死因が噛み合わない。
レビュー本文が生前資料と合わない。
遺族の申告と終末評価が矛盾している。
あるいは、誰もが「これでいい」と思いたがっている死。
今回のように。
扉を開けると、部屋の奥でセラ・オルブライト係長が書類をめくっていた。
灰色の髪を後ろで束ねた、隙のない女性だ。
声を荒らげることはほとんどない。
その代わり、彼女の静かな一言は、怒鳴り声よりよく人を止める。
「戻ったのね」
セラ係長は顔を上げずに言った。
「報告を」
僕は端末を机に置いた。
「レイナ・ローエンの終末評価は星五つ。本文は――」
「知っているわ」
セラ係長は書類を一枚抜き出した。
「『わたしは最高の死を迎えました。彼に殺されて幸せです』。外傷なし。死亡場所は自室。第一発見者は兄のノア・ローエン。遺族は通常葬儀を希望。警察への正式照会は現時点で保留」
「保留ではなく、実質的には打ち切りです」
「灰庭君」
セラ係長がようやく顔を上げた。
「言葉を選びなさい。ここは居酒屋ではなく行政機関よ」
「行政機関だからです」
僕は端末の画面を開いた。
星五つの表示が、再び机の上に浮かび上がる。
「本文に“殺されて”とあります」
「ええ」
「通常処理にはできません」
「死後レビューは法的判決ではないわ」
セラ係長の声は冷静だった。
「本人が“殺された”と認識していても、それが客観的な殺人を意味するとは限らない。あなたも分かっているはずよ」
「分かっています」
「なら、今のあなたにあるのは違和感だけ」
その言葉で、部屋の空気が少し冷えた。
リリィは隣で黙っている。
珍しく茶化さない。
こういうときの彼女は、相手の言葉より、言葉を選ぶ前の表情を見ている。
「灰庭君。違和感は才能だけれど、報告書にはならないわ」
「……一人称が違います」
「それも違和感」
「レイナ・ローエンは、生前一度も自分を“わたし”とは書いていません。終末意思登録、婚約者への書簡、過去の申請書。すべて“わたくし”です」
「終末評価は本人の作文ではないわ。死亡時主観の言語化よ。文体の揺れだけでは足りない」
「それでも、癖は残ります」
「残ることもある。残らないこともある」
正しい。
だから厄介だった。
死後レビューは絶対ではない。
けれど、無意味でもない。
「星五つですものねえ」
リリィが、ようやく口を開いた。
「遺族の皆様は安心されていました。故人が満足して亡くなったなら、それ以上の救いはない。とても美しいお話です」
「クレメンスさん」
セラ係長が目を細めた。
「あなたがそういう言い方をするときは、たいてい美しくない話が続くわね」
「では、醜い話を少しだけ」
リリィは微笑んだ。
「ノア・ローエン様は、妹君が“殺された”と知った顔をしていませんでした」
セラ係長の視線が、リリィに移る。
「具体的には?」
「星を見て、息を吐きました」
「それだけ?」
「ええ。それだけです」
リリィは悪びれなかった。
「ですが、人は欲しい情報を先に見ます。ノア様が欲しかったのは、“殺された”の説明ではありません。“星五つ”の保証でした」
セラ係長は黙った。
その沈黙は、否定ではなかった。
検討だった。
「遺族が星五つに安堵するのは珍しくないわ」
「はい。珍しくありません」
リリィはあっさり認めた。
「だからこそ、確認したいんです。あの安堵が、悲しみの後に来たものなのか。それとも、悲しむ前に来たものなのか」
セラ係長は、机上の終末評価を見た。
星五つ。
最高評価。
そして、殺されたという本文。
「灰庭君。あなたは、このレビューが間違っていると思うの?」
「いいえ」
僕は即答した。
「レビューは本物だと思います」
「では、何を疑っているの」
「読み方です」
画面の中の文章を指で示す。
『彼に殺されて幸せです』
「周囲は、この“彼”を婚約者だと読んでいます。おそらく遺族も、葬儀社も、警察もそう読む。でも、レビューに固有名詞は出ません。“彼”は、死者が最期にそう認識した人物でしかない」
「つまり?」
「レイナ本人が、誰を“彼”だと思って死んだのか。そこを確認しないまま通常処理に回すのは危険です」
セラ係長は、しばらく僕を見ていた。
「星五つの死を疑うということは」
セラ係長が言った。
「遺族の救いに泥を塗るということよ」
「分かっています」
「いいえ、あなたは分かっていない」
その声は、静かだった。
「あなたは死者の言葉を大事にしすぎる。だから、生者がそれに縋ることを軽く見ている」
胸の奥を、薄い刃物で撫でられたような気がした。
リリィがこちらを見た。
茶化すかと思ったが、何も言わなかった。
「星五つだったから、遺族は今日、息を吐けた」
セラ係長は続けた。
「妹が、娘が、婚約者が、苦しまずに逝けたかもしれない。納得して逝けたかもしれない。そう思えたから、彼らは崩れずに済んだ。その救いを疑うには、責任がいる」
「でも、もしその救いが誰かに作られたものなら」
「だから証拠が必要なの」
セラ係長は、指先で書類を叩いた。
「灰庭君。星五つの死を疑うなら、星五つ以上の根拠を持ってきなさい」
部屋の空気が止まった。
それは許可ではなかった。
少なくとも、まだ。
だが、拒絶でもなかった。
「予備監査を申請します」
僕は言った。
「対象は、レイナ・ローエンの生前資料と終末意思登録。レビュー本文との照合。あわせて、開示時の遺族反応を異常評価メモとして記録します」
「警察照会は?」
「現時点では出しません」
「遺族への再聴取は?」
「任意確認に留めます。強制性のある聞き取りはしません」
「現場確認は?」
「ローエン家の同意が必要です。まずは書類上の矛盾を固めます」
セラ係長は、ようやく少しだけ表情を緩めた。
「最初からそう言いなさい」
「言う前に止められました」
「止められる言い方をしたのよ」
リリィが小さく笑った。
「ミオさん、報告書より喧嘩腰の方が得意ですから」
「君にだけは言われたくない」
「私は喧嘩腰ではありません。笑顔です」
「なお悪い」
セラ係長は、端末に承認印を打ち込んだ。
短い電子音が鳴る。
画面に、予備監査許可の文字が表示された。
異常評価予備監査、限定承認。
許可範囲は狭い。
一、死者の生前文書との照合。
二、終末意思登録の確認。
三、開示時反応の記録。
四、遺族への接触は任意確認に限る。
五、警察照会は追加根拠が出るまで保留。
それでも十分だった。
「灰庭君」
退室しようとした僕に、セラ係長が声をかけた。
「はい」
「レビューは歪んでいないわ」
僕は振り返った。
セラ係長は、机上の星五つを見ていた。
「歪んでいるとすれば、それを読んだ生者の方よ」
その言葉に、リリィが楽しそうに目を細めた。
「係長、いいことをおっしゃいますね」
「あなたに褒められると不安になるわ」
「安心してください。星五つです」
「減給するわよ」
リリィは黙った。




