第三十八夜 決壊
山岡刑事の追及は、最初はひどく穏やかなものだった。
麻里奈が拉致された時の状況。
雪の上の足跡。
車の轍。
俺は知っている限りのことを、あえて早口で事細かに説明した。
沈黙が怖かったからだ。
「なるほどね。状況はよくわかった」
山岡刑事はパイプ椅子に深く腰掛け、両の手を少し乱暴に机に降ろした。
その乾いた音が、やけに取調室に響く。
記録をとっている若手の刑事が俺の表情を窺っていた。
「だがね、禎元くん。どうも引っかかるんだよ」
「引っかかる……ですか?」
無意識のうちに、声が上ずった。
「関さんがさらわれたのは、単なる通り魔的な犯行なのか? それとも、あの場所に君たちが集まっていることを知っていた、何者かの計画的な犯行なのか」
山岡刑事の眼光が、突然刃物のように鋭くなった。俺の皮膚の表面を、じっとりと冷たい汗が這い上がっていくのがわかる。
「君たち、誰かに恨みを買うような心当たりはないかな? あるいは、何か大きな隠し事をしているとか」
ドクン、と心臓がひどく不快な音を立てて跳ねた。
脳裏に、スクランブル交差点ですれ違ったあの男の、爬虫類のように粘り気のある視線と、不気味に歪んだ口の動きがフラッシュバックする。
(み・つ・け・た)
間違いない。麻里奈を連れ去ったのはあの男だ。俺たちに復讐するために。
喉がカラカラに渇いて、唾を飲み込むことすら痛い。今ここでそれを話せば、麻里奈を助ける手がかりになるかもしれない。
だが、それは同時に「パンドラの匣」を開けることだ。
三年前に俺たちが男を川に突き落とし、それを隠蔽した事実が白日の下に晒される。
双葉の親父の議員生命は終わり、俺たちは「正当防衛」を主張する間もなく、嘘に塗れた犯罪者として糾弾されるだろう。
サッカーも、これからの未来も、すべてが崩壊する。
「……いえ。心当たりなんて、ありません」
俺は膝の上のジャージを力任せに握りしめ、視線を机の木目へと落とした。
保身という泥水に頭まで浸かりながら、俺は必死に嘘を吐き出した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その頃、壁を隔てた別の取調室で、香織は女性刑事の富沢警部補と向かい合っていた。
「三谷さん。怖かったわよね。無理にとは言わないけれど、何か思い出したことがあったら教えてちょうだい」
富沢は母性を含んだ声で、優しく香織に語りかけていた。
香織はパイプ椅子の上で、自分の両腕を抱きしめるように固くうつむいていた。
頭の中を渦巻いているのは、雪の中へ消えていった麻里奈の泣き顔だ。
そして、これまで自分が大人たちから受けてきた理不尽な記憶が、吐き気を催すほどの生々しさで蘇ってくる。
ひとみ先生の、首筋を這うような気味の悪い指先の感触。
沢崎の、同情を引こうとする卑屈で歪んだ執着。
いつも自分は、大人の身勝手な欲望や嘘に押し潰され、ただじっと息を潜めてやり過ごすだけの、無力な子供だった。
三年前のあの日もそうだ。
自分を守るため、恐怖で動けなくなった奈央を守るために、無我夢中でバットを振り下ろした。
手に残る、あの硬くて鈍い感触。
男の耳から流れたどす黒い血。
なのに、大人の社会から断罪されるのが怖くて、双葉の提案にすがりつき、嘘の毛布にくるまって震え続けてきた。
(でも、もう嫌だ)
香織は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、いつも彼女が盾にしていた「コミュ障」の仮面も、過去に怯える少女の弱さもなかった。
肺の底まで冷たい空気を吸い込み、彼女は自分を縛り付けていた透明な鎖を、自らの意志で引きちぎった。
「刑事さん。関さんを連れ去った犯人に、心当たりがあります」
「本当!? 誰なの?」
「……三年前の、林間学校の日のことです」
香織の声は、微かに震えていた。だが、冷徹なまでに静かで、確かな芯があった。
「アタシが、あの男を金属バットで殴りました。だから、これは……アタシたちがついた嘘の報いなんです」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
コンコン、と俺のいる取調室のドアを誰かがノックした。
山岡刑事が立ち上がり、廊下へ出て行く。
ドアの隙間から、別の捜査員が山岡刑事に切羽詰まった様子で何かを耳打ちしているのが見えた。
数分後。部屋に戻ってきた山岡刑事の顔つきは、先ほどまでの「誘拐事件の事情を聴く刑事」のそれではなくなっていた。
部屋の空気が、一瞬にして重く、氷のように冷たく張り詰める。
「……禎元くん」
山岡刑事は机に両手をつき、逃げ場を塞ぐように俺の顔を正面から見据えた。
「隣の部屋で、三谷さんがすべて話してくれたよ」
「えっ……」
頭を殴られたような衝撃に、俺は息を呑んだ。
「三年前、増尾川の近くの森で、君たちが一人の男と遭遇したこと。その男を、金属バットで殴り、川に突き落としたこと」
頭の芯が真っ白に飛んだ。
香織が? 誰よりもあの夜の記憶に怯え、独りになることを恐れていた香織が、自らあの秘密を喋ったっていうのか?
「三谷さんはね、『自分がバットで殴った。全部自分がやったことだ』と、泣かずに淡々と言っている」
山岡刑事の声が、低く凄みを増して俺の鼓膜を打つ。
「彼女は、たった一人で君たちの罪を全部被ろうとしているんだよ。……禎元くん。君は、このままあの子一人にすべてを押し付けて、自分は知らぬ存ぜぬを突き通すつもりか?」
俺は椅子から転げ落ちそうになるのを必死に堪え、奥歯を強く噛み締めた。
香織の顔が浮かんだ。台風の夜、保健室の狭いベッドで背中合わせになった時の、あの脆くて小さな背中。
俺はあいつに、「俺は香織の味方だ」って偉そうに言ったじゃないか。
なのに今、俺はあいつがたった一人で警察という大人に立ち向かい、泥を被ろうとしているのを、安全な場所から見殺しにしようとしている。
(俺は、また逃げるのか?)
双葉の親父の面子? 強豪チームのスタメン? これからの平穏な高校生活?
そんなちっぽけな保身のために、香織を犠牲にするのか。
胸の奥で、三年間にわたって必死にせき止めていたダムが、メキメキと音を立ててひび割れていく。
「……違います」
俺の口から、掠れた声が漏れた。
膝の上で握りしめた拳が、制御できないほど小刻みに震えている。
視界が滲んだ。だが、もう止まれなかった。止まりたくなかった。
「香織……三谷だけじゃありません。俺も、俺たち全員がその場にいました」
決壊した。もう、元の日常には戻れない。
だが、不思議と心は澄み渡っていた。俺は顔を上げ、山岡刑事をまっすぐに見返した。
「話します。三年前に、俺たちが何をしたのか。そして、麻里奈を連れ去ったあの男が何者なのか……俺が、全部話します」
月明かりすら届かない冷たい取調室で、俺たちはついに、三年間に及ぶ沈黙と嘘の壁を壊したのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
壁を隔てた別の取調室で、双葉は腕組みをしたまま、ひどく硬いパイプ椅子に背中を押し付けていた。
無機質な白い壁。壁に掛けられた時計の秒針が、無遠慮にカチカチと音を立てている。
「但馬くん。君の家から連れ去られた関さんのためにも、何か隠していることがあるなら話してくれないか」
向かいに座る初老の刑事が、諭すように語りかけてくる。だが、双葉は頑なに口を閉ざしていた。
(言えるわけがないだろう)
双葉の脳裏を支配しているのは、拉致された麻里奈の安否よりも先に、冷酷な父親の顔だった。
『私は市会議員だ。お前は私の顔に泥を塗るような真似は絶対に許さん』
あの横柄な声が、耳の奥で何度もリフレインする。
もし三年前に男を川へ突き落としたことが世間に出れば、但馬家の体面は完全に崩壊する。
傲慢な父は発狂し、ただでさえ心を病みかけている母は完全に壊れてしまうだろう。
ニートの兄はここぞとばかりに自分を嘲笑うはずだ。
俺は「但馬一穂の息子」だ。
この特権階級の鎧を着ている限り、学校でも、あの空虚な家の中でも、俺は自分を保つことができる。
あの事件の夜、「何もなかったことにしよう」と提案したのは俺だ。
あの時から、俺は自分の手を汚した事実から目を背け、父親の権力という安全なシェルターに逃げ込んだのだ。
(麻里奈……すまん。でも、俺にはどうしようもないんだ)
双葉は奥歯をギリリと噛み締め、膝の上に置いた拳を白くなるまで握り込んだ。
その時だった。
バタン、と乱暴な音を立てて取調室のドアが開き、若い刑事が飛び込んできた。
初老の刑事に駆け寄り、何事かを早口で耳打ちする。
初老の刑事の顔色が変わった。彼は小さく頷くと、若い刑事を下がらせ、再び双葉に向き直った。
「……但馬くん。どうやら、君がこれ以上一人で重荷を背負う必要はなくなったようだ」
「……何の話ですか」
双葉は低く唸るように返した。
「隣の部屋で、三谷さんと、禎元くんがすべてを話してくれたよ」
刑事の言葉に、双葉の全身が硬直した。
「三年前の林間学校の日のことだ。君たちが遭遇した男のこと。三谷さんがバットで殴り、そして……君が、その男を川へ突き落としたこと」
ドクン、と心臓が破裂しそうなほど大きく脈打った。
香織が? 晴矢が? 話しただと?
あいつらは馬鹿か。
それを言えば、自分たちの人生がどうなるか分かっているはずだ。
強豪チームでのレギュラーの座も、築き上げてきた平穏な日常も、すべてが水泡に帰す。
俺が必死に守ろうとしていた「絶対の秘密」を、あいつらは自ら手放したというのか。
「三谷さんは、『自分がすべてやった』と庇おうとしたらしい。だが、禎元くんが『自分たち全員がそこにいた』と自供したそうだ」
刑事の静かな声が、双葉の胸の奥底に突き刺さる。
「彼らは、関さんを助けるために、自分たちの未来を投げ打つ覚悟を決めたんだよ。……君の友達は、立派だな」
その瞬間、双葉の顔からスッと血の気が引いていくと同時に、ひどく熱いものが込み上げてきた。
頭の中で、ガラガラと音を立てて何かが崩れ落ちていく。
俺は何を守ろうとしていたんだ?
愛人の元へ通う父親の、薄っぺらなプライドか?
息の詰まるような、嘘で塗り固められた但馬家という鳥籠か?
(俺は……なんてちっぽけで、惨めなクソ野郎なんだ)
香織は、一人で大人の世界に立ち向かった。
晴矢は、仲間を見捨てず、泥を被る覚悟を決めた。
あいつらは、とっくに「過去」から自立しようとしていた。なのに俺だけが、いつまでも親の威光という鎧にすがりつき、拉致された麻里奈を見殺しにしようとしていたのだ。
「……ははっ」
不意に、双葉の口から乾いた笑い声が漏れた。
初老の刑事が怪訝な顔をする。
だが、双葉は止まらなかった。
両手で顔を覆い、肩を震わせて笑った。
それは自嘲であり、同時に、重苦しい呪縛から解き放たれた歓喜の笑いでもあった。
「但馬くん?」
双葉は顔を覆っていた手をどけた。
その瞳は、もう「市議会議員の息子」のものではなかった。
すべてを失う覚悟を決めた、ただの十四歳の少年の、澄み切った目をしていた。
「……親父に知られたら、間違いなく殺されるな」
双葉は憑き物が落ちたような声で呟き、まっすぐに刑事を見据えた。
「俺がやりました」
双葉ははっきりと、一言一言を噛み締めるように言った。
「香織……三谷がバットで殴った後、男を川に突き落としたのは、俺です。すべて俺が主導して、本当のことを隠そうとしました」
もう、親父の顔色を窺うのはやめだ。
俺は俺の責任で、俺の罪を償う。そして、必ず麻里奈を取り戻す。
「刑事さん。あいつらが話したことは全部本当です。だから……俺にも、すべて話させてください」
かくして、最後まで強固だった「但馬の鎧」は完全に砕け散った。
三つの取調室で同時に紡がれた真実は、一本の線となり、暗闇に潜む首藤へと真っ直ぐに向かい始めたのだった。




