第三十一夜 悪夢の始まり
「おい、君、大丈夫か⁉︎」
男は人工呼吸を施され、ようやく意識を取り戻した。
「ゔぅぅっ」
ひどい頭痛がする。思わず呻きが漏れた。
男は、相楽橋から流され、4㎞下流でほとんど水深が無いところで仰向けになっていたところを発見された。
「良かった。あんた運良くあそこに引っかかってて、水をあまり飲んでなかったんだ」
恰幅の良いゴマ塩頭の駐在所の巡査は、床固工*を指さして言った。
増尾川は、明治の時代から度々氾濫を起こしていたため、西洋の技術である床固工を使って暴れる川を制御してきた。
川の水量がこの部分で少なくなっており、川砂の堆積している浅瀬に打ち上げられていたのだった。
駐在の隣には、この溺死寸前で助けられた男の発見者が安堵した面持ちで立っていた。
「あんた、一体どうしたんだ?」
巡査に男は聞かれたが、数日前までの記憶がすっぽり抜けている。
するとまた頭の芯が何かで掻き毟られる様な痛みを感じて呻いた。
「ああ゛っ」
苦痛に男は気を再び失った。
「おい、あんた! どうした! 大丈夫か⁉︎」
男は助けられたが、男の意識は再び深い闇の底へ堕ちて行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
昏睡状態だった男は、三週間眠り続けた。
再び目を開けた時、男は点滴に繋がれて、心拍計も取り付けられていた。
「どこだ、此処は」
個室の病室のようであった。
「あの時、頭が痛かったんだ」
そっと頭に触れてみる。
包帯が巻かれていた。
「おいおい、どうなってんだ」
男は心配になった。
ナースコールのボタンが目に入ったので、押してみた。自分の名前はわかる。
しかし川から救出された前の数日間、自分が何をしていたのか、やはり記憶は戻っていなかった。
「首藤さん! 意識が戻ったのね⁉︎」
齢は四十前後だろうか。背が高く、顔立ちの整ったベテラン風の看護師が病室のドアを開けて入ってきた。
「ここは何処だ?」
「ここは、武蔵山市民病院よ」
「一体俺はどうなってんだ?」
「強い力で頭に外傷を受けて、脳出血していたのよ。角材とか、鉄パイプで殴られたような跡があったわ」
「全く思い出せないんだ」
「そう。あなたが眠っている間、開頭手術をしたの。本当に危ないところだったのよ」
男は身震いした。
「俺、いつここを出れるんだ?」
看護師は、
「分からないわ。あなたは、頭蓋骨骨折しているの。今後のことはまず先生とお話ししましょう。それと…」
看護師はゆっくりとした口調になって、
「あとは警察に事情聴取されることになるわね」
と言った。
「冗談じゃねえ。今すぐ俺はここを出る」
看護師は静かに、
「やれるもんなら、やってみなさい」
と強い口調で、きっぱりと言った。
「あなたは三週間、何も食べていない。栄養は全部点滴から摂っていたわ。歩けて…そうね。五百メートル行けばいい方じゃないかしら」
「なんでもいい! 俺をここから出せ!」
「なるほど。では、無保険で開頭手術。個室ベッドに点滴、薬。さて、お幾らかしら?」
「知るか! お、お前たちが勝手にした事だろうが! 俺は払わねえぞ!」
看護師は鋭い眼光で言い放つ。
「人の善意を踏みにじるような事をするんじゃありません!」
流石の男も黙った。
「何を恐れているの? 単なる事情聴取よ? それとも何か記憶が戻ったのかしら」
「いや、思い出せないから怖いんだ」
男の正直な気持ちが吐き出された。
「治療費については、ゆっくり考えましょう。その前にあなたの快復が先よ。頭蓋骨骨折のまま退院させる病院なんてないの」
男は大きく頷いた。
「悪かったよ。 この通りだ」
男は殊勝に詫びた。
「先生を呼んできますね」
「三谷」と書かれた名札をつけたその看護師は、軽く会釈をして病室を出て行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
林間学校から帰った後、香織は食欲が無くなり、麻里奈は夜眠れなくなった。奈央は、突然泣き出すようになった。所謂PTSDの一種だ。
俺たち男子もタダではすまなかった。
雄二はよりゲームに没頭するようになったし、双葉は元々ぶっきらぼうだったが、人を寄せつけないような雰囲気をまとうようになった。
そして俺は言いたいことが全く言えなくなってしまった。
それほど仲が良かったわけではない双葉と俺は、自然と話すようになり、意識的に《《あの事件》》の話題は避けた。
雄二も学校にいる間は、俺と双葉とばかり話すようになって、最後には香織達も合流してきた。
親たちも俺たちの変化に気がつかないはずもなく、奈央の母親は、その時から雄二を疑いはじめたんだ。
沢崎さんに逆恨みを買う羽目になったように、香織はピアノの練習に身が入らなくなった。
俺たちは、あの男のお陰で人生の歯車が狂っていった。




