終話 小さな暮らし
私は小さな家で、十歳になる娘のあかり、犬と猫と暮らしている。
朝になると犬が私を起こしに来る。
私は寝たふりをする。
鼻でフガフガと押され、今日も匂いを嗅がれる。
寝起きの口臭は臭くないのか? いつも思う。
そんな芝居に付き合ってくれるのか、彼は一緒に寝始める。
結局、猫が起きだし私をじっと見つめる。
その圧に私はむくりと起きだす。
隣ではあかりが寝ている。
春分の日の朝は、どこか特別な光がある。
明るいのにやわらかくて、窓辺の空気まで少し透き通って見える。その光を見るたびに、私は決まってあの世界のことを思い出す。
だから我が家では、春分の日と秋分の日には少しだけ贅沢をする。
好きなものをたくさん作って、時間を気にせず食べる。温泉の素を入れたお風呂に何度も入り、湯気の中でだらだらと過ごす。
それが、私たちなりのお祝いだった。
その日も家の中には焼き物の香ばしい匂いが漂い、窓ガラスは湯気でほんのり曇っていた。
湯船につかっていると、浴室の外からあかりの声が聞こえた。
「お母さん、お客さん!」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
ほんの一瞬だけ、昔の癖が戻る。
「ちょっと待って! 変な人かもしれないから家に入れないでね!」
慌てて立ち上がった、その時だった。
ガラリ、と扉が開く。
そして。
そこに立っていたのは、ルルだった。
「師匠! お久しぶりです!」
変わらない笑顔だった。
その顔を見た瞬間、胸の奥に懐かしい熱が広がる。
会えなかった時間が長かったことなんて、どうでもよくなってしまうくらいに。
けれど感動は長く続かない。
「って、師匠! 裸ですね! 全然変わってないですね!」
「いきなり開けるなーッ!」
私は反射的に手桶のお湯をぶっかけた。
「ちょ、やめてください! 師匠、ほんとに久しぶりなんですよ!」
湯気の向こうで笑い声が弾ける。
その音を聞きながら、私は思う。
ああ、本当に変わっていない。
それからルルは、ときどきふらりと遊びに来るようになった。
いつの間に覚えたのか、流暢な日本語を話し、私のパソコンを占領して小説を書く。
「文字が綺麗すぎます。私はこういう物語を書いていたのですね?」
そう言いながら画面に並べるのは、相変わらずむさ苦しい冒険者たちの話ばかりだ。
しかも彼女はキーボードに触らない。文字だけが勝手に画面へ並んでいく。不思議そうな顔をするあかりに、私は「新しいAIだよ」と説明している。
二人はアニメを見ていることが多い。
「ルルちゃんあれはできるの?」
「今度、川原でやってみましょう。もっとすごいものを見せます」
たまに不穏な会話が聞こえる。
私は台所に立ちながら、その様子を眺める。
足元では犬と猫が丸くなり、窓の外には春の光が揺れている。
しかし、こんな日が来るとは、昔の私は想像もなかった。
私は人の幸せを少しずつ学んでいった。
幸せというのは、大きな奇跡のことではない。
誰かの笑い声が聞こえること。
ご飯の匂いがすること。
帰ってくる人がいること。
そして、年月は流れた。
あかりは大人になった。いつの間にか私より背が高くなり、気づけば世界中の人たちと仕事をするようになっていた。
後に彼女は、世界を大きく変えることになる万能型AIの開発者として知られるようになる。
なぜ、そんなものを作ろうと思ったのか。
どんなアイディアがそこにはあったのか。
取材や講演で何度も尋ねられ、そのたびに彼女は少し困ったように笑って答えていた。
「母が言っていたことを、やってみただけです」
私はその答えを聞くたびに、少しだけおかしくなってしまう。
だって私は、そんな大それた計算を彼女に教えた記憶はない。
ご飯はちゃんと食べなさい。
困っている人がいたら助けなさい。
面白そうならやってみなさい。
私が彼女に渡したのは、システムを動かすコードではなく、そんな当たり前の日常だけだった。「あれはAIだよ」なんて笑ったルルの魔法も、あかりにとっては開発のきっかけになったのかもしれない。
人間というのは不思議だ。
自分が忘れてしまった言葉が、誰かの中に残り、また別の誰かへと受け継がれていく。
春の日の光みたいに。
静かで、ゆっくりと、地面に溶け込み、新しい芽となり広がっていく。
母という名の『スイッチ』が灯した小さな明かり。
私の手を離れ、新しい世界のすみずみまで届いてくのだと、そう思えるからだ。
鏡の前で抜いた白髪を見つめながらそんなことを思う。




