60 余白は生成するもの
その夜、私たちは三人で湯あみに浸かっていた。教会に設えた湯と蒸し風呂。蒸気に溶け込んだハーブの香りが、それぞれの胸のつかえを浮きぼらせる。
湯気の中、ルルが柔らかな眼差しをミンカに向けている。その視線に背を押されたのだろう。ミンカは膝の上で拳をぎゅっと握ると、その拳を見つめたまま口を開いた。
「スー……私、エルフの里に帰ろうと思うの」
その声は小さかった。
だが、はっきりと私の胸に吹き込んだ。
「これから……生命の木を作る準備を、里のみんなと協力して始めないといけないから……」
言い切ったあと、ミンカの瞳からは小さな涙がこぼれた。私は無意識にその落ちる涙を手を伸ばす。その涙は私の手のひらにストンと落ちると、手のひらから体の奥に吸い込まれていくように見えた。
「スー、ごめんなさい。当日は別の場所にいると思うの。近くにいることはできないと思う」
その”当日”という言葉が胸に突き刺さった。頭で理解していたことが、身体でも、そして心というものでも理解した気がした。
横でルルが「自分は?」と言いたげに眉を動かした。ミンカは涙を拭いながら、笑顔を作って答える。
「ルルは……お姉ちゃんだから。だから、いつまでも安心していいの」
その笑顔の裏に、どれほどのエルフとしての覚悟と哀しみが隠れているか。
2万年……か、その重力に言葉が飲み込れる。
生命の木。
私はそれを、この身を媒体として生成するつもりでいる。けれど、私が生命の木になったとき、私という存在がどうなるのかはわからない。それは事実上、「スー」という私との別れを意味するのかもしれない。
ミンカはそれを理解しているのだろう。そして、その先、自分が生きていくであろう長い年月の重みも。だからこそ、ミンカは感情を一文字ずつ言葉に乗せてはゆっくりと声に出している。
「世の理のつかさどる全精霊に、このミンカは告ぐ。私は生命の木を守ることを誓う。……エルフは、生命の木を守る存在になるよ」
ミンカが拳を開くと、そこにはどんぐりのような木の実があった。その実は金色に輝いている。精霊たちが現れ、その実をバケツリレーのように運び出した。その様子をミンカはじっと見つめている。
その様子をミンカはじっと見ていた。
私もその運び去られる実を眺めていた。
その仕組みを紐解いてみたいという衝動。
私はそれを指先ひとつでそっと押し殺した。
はじめてできた友人が、世界の柱となる。
その友人の全てを受け入れたミンカは、精霊に誓いを立てたのだ。
精霊たちは蒸し風呂の扉をどうやって開けようか、悩んでいるようだった。そんな様子を見て、私たちはくすりと笑った。
さて、ならば、私が彼女を守ろう。
生命の木に寄り添う彼女を、必ず守り抜こう。私も『誓い』というものをしてみた。
その瞬間、蒸し風呂の扉が静かに開いた。
蒸気があふれる中で、私たちは寄り添い合った。だれかが声を殺して泣いている。それは自分なのかもしれない。その声は、もくもくとした煙の中でいたるところから響き、まるで私たち以外の存在がそこにいるかのように感じられた。
***
その夜、私たちはベッドを並べて眠ることにした。ミンカを真ん中に、私とルルが囲むように横になる。窓から差し込む青白い月明かりが、三人の影を静かに床へ落としていた。
「……ミンカ、あっという間に寝ちゃいましたね」
ルルが小さな声でつぶやく。
私は月光に照らされた、ミンカの寝顔をそっと見つめた。そのあどけない横顔。
この穏やかな姿を見るのは今日で最後になるのかもしれない。月明かりはミンカの輪郭を白く縁取り、まるで彼女がこの世界から少しずつ消えていこうとしているように見えた。
ルルはしばらく黙っていた。
やがて真剣な声で、私に告げる。
「師匠。大丈夫です。師匠も、ミンカも、全部任せてください」
その声には迷いが一切ない。
「だから……安心してください」
私は言葉を返せなかった。
窓の外では月が静かに満ちていく。けれど、私の胸の奥では、ルルの言葉に応えるようにじわりと熱が広がっていた。
やがて三人が眠りにつくと、窓から差し込む月明かりを浴びて、マクラとフトン、そして新しく生まれた『シーツ』がむくりと起き上がった。
「やあ、シーツ。身体の調子はどう?」
マクラが陽気に声をかける。
「……まだ、まったくよくわかりません」
小さな身体を震わせながら、シーツはたどたどしく答えた。その純白の幼獣は、月光を吸い込んで淡く透けている。
「それなら、まず一番大事なことを教えましょう」
フトンが低くやさしい声で告げた。
「並列化です」
そう言うと、マクラがひょいと、三人が眠るベッドへ飛び乗った。身体を器用に伸ばすと、フトンとシーツを両脇に抱え上げ、眠る三人を守るようにして円を描いた。
「シーツ、これが並列化。覚えてくださいね」
マクラの声が静寂に響く。円陣を作る三人の周囲で、月明かりがより一層濃く揺らめき、彼らの身体は青白い光を帯び始めた。
柔らかな光がベッドを包み込み、スー、ルル、そしてミンカの眠る身体をやさしく照らし出す。それは、意識を束ね、繋ぎ合わせるための儀式。
その温かさに、シーツはただ身をゆだねた。
自分が何のために生まれたのかを、深いところで理解したからだ。
このミンカという存在ををつなぎ合わせ、
その記憶という魂を、重ね並列化し続けること。
新しい主が立てたその誓いは、
未来永劫解けることのない、もっとも美しい呪い。
そして、その誓いを——
あるいは降り積もる呪いそのものを——
すべて引き受け、支払い続ける存在であること。
——それが、私という存在のすべて。
「ほんとに、そうか?」
誰かの声が聞こえた気がした。




