57 私の知らない物語
気づくと、喧騒に包まれたギルドの片隅で、パオが目を閉じて静かに立っていた。背には古びた大きな槍。長い鼻のリズム、耳の筋肉のわずかな動き——そのどれもが静かに揺れている。
パオの装備からは、次の戦いへ向かおうとする決意が読み取れた。だが、今日はいつもと違う“空気”がある。私の存在が、その理由の一つなのだろう。
「パオ! マリアンヌから報告を聞いた。水の遺跡、手伝ってくれてありがとう!」
私が声をかけると、パオはゆっくりと目を開いた。
「私は結局、船に居ただけだがな」
「あのスライムがいたから解放できたんだよ」
「そうか」
短いやり取り。パオの声に混じる金属のような響きから、それが何らかの「覚悟」であることを私は理解した。
「パオ、これからどうするんだ?」
「魔物が湧き出る洞窟があってな、そこに行こうかと」
「それってダンジョンのこと?」
「そうだ。よく知っているな。昔はそう呼んでいたよ」
パオが微笑んだ。その目は遠い昔**を**思い出しているようだった。
「お宝もあるんだろ?」
「魔物を倒すと、不思議と何かが見つかる場合があるな」
「そうか! それは私も行ってみたいな!」
スーの匂いには憧れが混じっていた。私が誘えば、時間が許す限りスーは喜んで付いてくるだろう。きっと楽しい旅になるはずだ。パオはギルドの高い天井を見上げ、静かに首を振った。
「ダンジョンはどこにでも突然現れることがあってな。今回のそれは、ヴェリカ森の浅い場所にあるんだ」
「そんな場所に? よく知ってるな」
「まあな、私は長生きだから。あそこは……私に縁のある場所だしな」
その言葉で、スーは悟った。
これまでの話から察するに、彼女の仲間がかつてその地で命を落としたのだ。
「エルフの娘は元気か?」
「ミンカのこと? 元気だよ。知り合いなの?」
「知り合いとは言えぬが、こちらが勝手に知っているだけだ」
「会っていく? 教会にいると思うけど」
「……元気にしているならいい。向こうは忘れているだろうし」
沈黙が二人を包んだ。パオはミンカを、そしてエルフたちを知っている。ヴェリカ森の奥にはエルフの里がある。スーの胸に、言葉にできない何かが渦巻いた。
「スー」
パオが私の名前を呼んだ。いつもの温かい声。
「スーがやろうとしていること、私は応援しているよ」
胸がドキリと鳴り、呼吸が止まった。
パオの瞳がまっすぐに私を射抜く。そこには、惜別と、誇りが混ざり合っていた。
「そんな顔をするな。スーとの出会いは、私にとって……お宝だ。かけがえのないものを、私はスーを通して得ることができた。その宝は、私の中にしっかりとある」
そしてパオは、明るく豪快に笑った。
「それに、主狩り仲間だしな!」
響き渡る笑い声に、周囲の冒険者たちが慌ててこちらを振り返る。
パオにつられて、私も笑った。
「私もパオからたくさん学んだよ! 私が今生きているのは、パオのおかげだ」
パオの大きな耳が微かに横に広がった。彼女が嬉しいときに見せる仕草だ。その動きから、私は彼女の感情の波をはっきりと感じ取った。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
笑って吹っ切れたのか、パオはさらりと言った。
また胸が痛んだ。本当の別れが近づいている事実に、私はうつむき、絞り出すように声を出すのが精いっぱいだった。
「……町の出口まで、見送るよ」
***
私はパオと並んで町の出口に向かっていた。
「そういえば去年の今ぐらいだな」
パオが思い出したように言った。
「二人で採取の遠征に行ったこと?」
「そうだ。あれは私の冒険の中でも、かなり楽しかった思い出だ」
「私も楽しかった。ありがとう、パオ!パオは私の師匠だ!」
「晴れて弟子も主狩りにもなったしな!」
そう言って、私たちは笑い合った。
遠征の最中も、こんなふうに私たちは陽気に笑っていた。
町の出口に着いてしまった。
「……」
私は何を言えばいいのかわからなかった。
「こういうときはな。お互い『がんばれよ!』って言うだけでいいんだ」
パオはスーの頭に手を置き、そっと撫でた。
スーは一瞬、言葉を探すように息を吸った。
そしてパオの大きなお腹におもいっきり抱き着いた。
「…がんばってね。パオ」
「そっちも、がんばりなよ。私はいつも応援しているよ。
今回も、私なりにできることをしてみるつもりだ」
私はどのくらいパオに抱き着いていたのだろうか?
自分でもわからなかった。
「さて、私は行くよ」
私に静かに言うと、パオは背を向けた。
歩き去る背中を見つめながら、私は初めて『別れ』というものを実感した。
転生して以来、はっきりと胸に残る別れだった。
胸からごっそりと何かが抜けだし、その空間を埋めるように胸が締め付けられた。
もっと、パオと冒険したかった。
別れたそばから、そんなことを思った。
けれど、パオは言った。
「私なりにできることをしてみるつもりだ」と。
ならば、私も、私なりにできることをしよう。
いずれ再会できるその時は、ダンジョン探索に連れて行ってもらおう。
パオの背にあった槍は、おそらく死んだ仲間のものだろう。
その槍を背負って向かう先は仲間の仇がいるに違いない。
ミンカのことも気にしていた。これは私の知らないパオの物語なのだろう。
突然、強い風が吹き荒れた。その風は遠くを歩くパオの言葉を運んだ気がした。
私はその風をできるだけ胸いっぱいに受けながら、はるか遠くのパオの背を見つめた。




