(四)姉持殿の最期
申重の父の名を、姉持申政という。父と同じ申の字を名付けられたのは、兄弟の中でも三男の申重だけである。
といっても単に偶然で、申重が他の兄弟と比べて特別であったわけではない。
姉持家では、最初に生まれた男児に猪、次に鹿、その次には申か猿の字を充てる。疫病が流行った時代に生まれた兄弟が早死にし、遅く生まれた三男坊の申重が家督を継いでそうなった。
四男以下ともなると名付けの決まりも無くなるらしい。姉持の家紋に松が使われていることから、申重の弟は松吉郎と名付けられた。
父・申政が祖父から受け継いだ堅牢な山城は、それ自体の規模もさることながら、城下に築かれた町々までもが大変豊かで、山城から城下町、さらに下方の山裾に広がる農村を含む一帯を、人々は「姉持山」と呼んだ。
それだけ栄えた姉持山も今は跡形もないのだが。
申重の二人の兄らは父と共に山砦の内側で、日々武芸を磨き書を嗜み、それはそれは立派な若武者と成ったようである。
一方、市中に身を置き質素な生活を営んでいた申重と松吉郎は、武人らしい稽古などろくにしたことのないせいで結果命拾いをした。
なにしろ申重も弟も、身なり恰好はその辺の農民とさして変わりない。
あの山城が攻め落とされた日も、申重と松吉郎はぼろを着て、山中に造った炭焼き小屋で火番をしていた。
母が妹の小岳を連れ、命からがら炭焼き小屋へ逃げ込んできたのは、夜が終わり空も白らんできた頃である。
それが偶然だったのか否かはもう知るすべもないが、山城に奇襲をかけられたとき、父はそこにいなかった。幼い愛娘の顔を見るため、母や申重らが住まう家を訪れていたそうだ。
父は家臣の報せを受けて山城へ戻る際、母へは小岳を連れて炭焼小屋に逃げるよう言いつけた。
戦火のを恐れ逃げ惑う民草に紛れる格好で、申重たちもどうにかこうにか姉持山から落ちのびた。
やがて山裾の城下町とは似ても似つかぬ港町まで流れ着いた申重と松吉郎は、名をそれぞれ重三と余四郎に改めた。もちろん姉持とも名乗らない。生まれはどこかと聞かれれば、母の生家である藤横谷をもじり藤谷と答えることにもした。
父から賜った名を変えることに、それほどの抵抗はなかった。命を失くすことに比べたら、名前などいくら捨て変えても構わないものである。
山育ちの重三にとって、どこもかしこも見慣れぬ海辺の町は余所余所しく、なかなか気分が落ち着かなかった。
こんど町へ行商が訪れたときは、彼らと共に町を出ようと決心したところ、その翌日に行商がやって来た。そのときはこれも何かの縁か導きか、と、心の中で一人驚いたものである。
名前も家も、失くそうが絶えようがもはや構わない。そう思うのに、重三にはひとつだけ、どうしても振り切ることのできない懸念があった。
「山で死ね」