太陽のかぜ
この詩は、王者であるらいおんが、太陽のかぜを味方に、自己のレゾンデートルを見出す過程を、王様クレィヨンのタッチで線描しています。ピーター・ポールアンドマリーのパフに登場する、魔法の竜・パフと少年・ジャッキー・ペーパーを思い出す読者もあるかも知れません。
冒頭から、らいおんの誇り高い姿勢が表現されています。
「なんてったって 王者 だからな!」
この言葉には、彼の自信と威厳が感じられます。太陽のかぜは、彼にとってのシールドであり、王者としてのアイデンティティを象徴しています。
詩の中で、らいおんは自らのたてがみを誇り、太陽のかぜを受けることで無敵であると疑いません。この部分は、自己肯定感やレゾンデートルを探求する人間の姿と重なり、読者に深い共感を呼び起こします。特に、「王者はなんでもわかるんだ!」というフレーズは、力強さと同時に、王者としての責任感をも示唆しています。
しかし、時が傾き、らいおんは太陽のかぜを理解できなくなり、心のときめきを失います。この変化は、人生における無常や、自己のアイデンティティの喪失を象徴しているように思えます。特に、「らいおん は 哀しみ に 吼えた」という部分は、彼の内面の葛藤を強く印象づけ、読者に深い感慨のうねりをとよもします。
この詩は、頑強と脆弱、矜持と忸怩、アンビヴァレントな感情の、律動の遠心分離によって成り立っています。らいおんの心情の変化は、読者に自己証明や存在意義について熟考を強います。詩のリズムや言葉の選び方も巧妙で、感情の変化を見事に表現しています。また、漢字、ひらがな、カタカナの視覚効果やその配合も間然とするところがありません。
リルケや三島由紀夫の詩を愛し、ハバネロ批評で知られている私ですが、ババロア点、百二十点をつけることを禁じ得ませんでした。ぜひ、この詩を詠んで、らいおんの心の旅を感得してください。
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時がみまかり、林や森全体を鳴らした蟬たちが仰のけに空に対峙するように、らいおんはくさはらにうっぷしていました。
鬣はすがれ、咆哮する力も尽きています。らいおんは、生ではない方へ、少しでも生でない方へ向かっていました。
それは死して屍拾う者なしという谷の奥で、海の波が聞こえる夕方です。
ふとらいおんに山の音が聞えました。
風はありません。薄暮でしたが、しめっぽい霧で、両脇の山肌はぼやけています。しかし風はあったていないのです。
らいおんの埋もれているシダの葉も動いていません。
遠い落雷の音に似ていますが、地鳴りのような底に力の籠った音でした。
恐ろしい音でもありましたが、音がやんだ後で、らいおんは空を押し上げるような力でふわぁっと浮くような、安らぎを覚えました。生死の峠でもそんなことがあるのです。
山の音は、らいおんに確かに聞こえていました。最期のたてがみを奮わせて、近しい音を探しました。どんな音に似ているかと訊かれれば、そんな音などしなかったと思われる、音抜きされた音です。
太陽の夕凪が通りかかって山を鳴らして行ったのです。
山が鳴るのですから、鳴動して問いが残されました。らいおんの骨格とともに。
そばっ子がグルテンフリーで繋がって、こむぎっ子が仲間はずれされたので、ニ八先生は、輪の中にこむぎっ子を促しました。するとこむぎっ子がそばっ子に意地悪したので、十割先生は輪の外にこむぎっ子を促し、そばっ子はグルテンフリーで繋がりました。
そばっ子とこむぎっ子がつながるにはどうしたらいいでしょう?
コンパニオン、その答えは、夕凪に吹かれている。夕凪の中に。




