1 小さな反乱
いつもの日常のはずだった。忙しいが平凡な日常のはずだった。
ある日の事だった。俺はいつものように、八時過ぎに自分の勤務先であるスーパーに出勤し、いつものように担当である総菜加工場に入り、加工作業の準備をしていた。 八時半にはパートスタッフが出勤してくる。俺は調理器器具の確認をしたり、消毒済みのまな板を水洗いしたり、一人忙しく働いていた。
八時二十五分。いつもならボチボチと加工場に入って来るパートスタッフが、誰も入ってこない。少しいぶかし気に思いながらも、八時半ギリギリには出勤してくるだろうと考えた。
八時半。まだ誰も出勤しない。そして誰からも連絡は来ない。本日出勤予定の七名全員がだ。不思議に思った俺は、タイムカードの機械がある事務所に急いだ。タイムカードの機械が壊れたかなんかしたのかと考えたからだ。
事務所は無人だった。他の社員もスタッフも作業に入っていた。スーパーの食品部門の朝は忙しい。八時半にもなると、事務所で油を売っている人間など一人もいなかった。
俺は、急に不安に駆られた。なんで誰も来ない?
(スタッフと入れ違いになったのかも知れない)
俺はすがるような気持ちで加工場に戻った。当然ながら誰もいない。一人呆然としていると加工場のスィングドアが開く音がした。
(あ、やっと来たか)俺がホッとして振りむいた視線の先には、パートスタッフでは無く、食品マネジャーが顔を覗かしていた。
「おう、伏木、おはようさん……なんだ、今日はまだ誰も来てないのか?」マネジャーは笑顔で声を掛けて来た。
「それが……」俺は唾を飲み込みながら答えた。心臓が跳ね上がり声が掠れた。
「出勤時刻になっても誰も出勤してこないんです……」
「……おい、お前それって……」マネジャーの笑顔が凍り付く。
「お前、スタッフには連絡してみたんかっ?!」
「まだです」
「なにしてるんだっ!。取りあえず連絡してみろっ!」
「はいっ!」
俺は、ポケットから手帳を出すと、加工場の壁に掛けている電話を取り上げると、スタッフに順番に電話を掛けてみた。誰も出ない。
「マネジャー、誰も出ません……」
「なんだお前……もしかして『反乱』喰らったんか……心当たりあるか?」
「そういえば、昨日、ヨコヅ……新川さんの勤務態度が悪いんで指導しました」
「あぁ、あの人か。そのことを根に持って、反乱企てたのか?……伏木お前一体どんな指導をしたんだ?……いや、今はそんな事を言ってる暇は無いな……とにかく開店だ。原因究明は後だ。開店させないと。俺は人を集める。お前は原料を加工場に入れろ。急げ!」
「はいっ」
俺は、『ヨコヅナ』と陰で呼ばれている、ふてぶてしい顔した巨漢の中年女性のベテランパートの顔を思い出して、やり場のない怒りに囚われた。昨日、こちらの指示に余りにも従わない態度に業を煮やして、少し厳しく叱責したのを思い出した。……彼女は何も言わなかった。大きい顔をふくれっ面にし、更に大きくなった顔を翻すと、俺から離れて行ったのだ。その時、返事すらしなかった。
(あいつ……これが返事かよ)心の中で呟いた。
彼女の『返事』はこれだけでなかった。本日納品されて、冷蔵庫に保管されている原料を仕分けしていると恐ろしい事が判明した。
(ヨコヅナ……寿司ネタの発注止めやがった……?)
売り上げ主力の寿司の原料が納品されていないのだ。寿司は当日売り切りで、当然、ネタも翌日に持ち越したりしない。なので毎日発注が必要だ。
もちろん、何らかのトラブルで発注が出来ない。といっ事態を回避するため、事前に一週間分の計画発注を前もって行い、もし発注忘れがあっても、計画発注分は納品される仕組みになっていた。
(それが、一つも納品されていないという事は……)俺は震える手で、発注端末の電源を入れると寿司原料のページを見る。予想通り、寿司ネタは全て実発注でゼロ修正されていた。
足が震えた。体が震えた。俺は冷蔵庫から飛び出した。マネジャーが早朝アルバイトや他の社員を掻き集めている最中だった。
「伏木! 早く原料持って来い!」
「マネジャー……寿司ネタが納品されて無いです……」
強張った顔で伝えられた恐ろしい情報を聞くや否や、マネジャーは俺に訳も聞かず、加工場の電話をひっつかむと、水産部の加工場を呼び出した。
「仲谷ァァァァァァッ!今すぐ総菜加工場に来いッ!」
すぐに白衣に白のビニールの前掛けをした水産部主任の仲谷が、白い長靴をバタバタ言わせながら総菜加工場に飛び込んでくる。
「マネジャー。なんですか?」
「おまえんところにある、造り用の原料を出来得る限り総菜部に廻せ。足りなくなる分は追加発注しろ。本部発注は無理だろうが、お前、別の発注ルート持ってるだろ?」
仲谷は惣菜スタッフが一人もおらず、更に緊迫した加工場の空気から何かを察したらしい。何も言わずに素直に頷くと電話を取り上げ
「あ、細入さん?水橋さんに、お造りを作るの止めるように伝えて……すぐに!
…………OK? ありがと。あと、今あるお造り用の上身は、バッカンに載せて総菜加工場に持って来て。急ぎで。たのんます」
一旦電話を切ると、すぐに受話器を上げ、外線ボタンを押すと別の所に電話を掛ける。
「小杉水産さん?まいど。ちょっと無理なお願いなんだけど、今からお造り用の原料って持って来れます?……そう大至急で……あぁ、もちろん『借り』になりますって。分かってますよ………………すみません!恩に着ます。ありがとうございます!……加工はこっちでしますから『丸』で大丈夫ですよ。いま何持ってます?……」
仲谷はここまで話すと、マネジャーと俺の顔を見ると『大丈夫』といった表情を作り、受話器を持っていないほうの手でOKサインを作った。俺はホッとして膝から力が抜けそうになった。横にいるマネジャーもあからさまに安堵の表情を浮かべていた。その後、仲谷は送話口を手で押さえながら、俺の顔を見ながら声を掛けた。
「先輩、寿司ネタ発注忘れしたんですよね。何が足りないんですか?」
「全部」
「全部って……」仲谷は流石に驚いた顔をした。
「仲谷ぁ。なんでも良いから持って来てもらえ!」マネジャーが横から怒鳴る。
マネジャーの怒鳴り声に慌てて仲谷は頷くと、小杉水産と会話を続ける。俺はマネジャーに促されて、揚げ物や和惣菜、洋惣菜の原料を冷蔵庫から加工場に運び入れた。
他部門からの社員やパートさんからなる混成部隊が作業に取り掛かる。グローサリー部門主任は惣菜部門経験が長かったので、揚げ物の作業に入って貰った。熊のような体躯で、いつも落ち着き払っている彼はニヤニヤ笑いながら「災難だな」と俺に声を掛けると、それでもテキパキと作業指示を出してくれた。
仲谷には、そのまま総菜加工場で寿司のネタ作りをして貰った。仲谷は総菜部門の経験は無い。「俺、寿司なんて作った事ないっすよ」と言いながらも、刺身包丁を器用に扱って上身をスライスし始めた。
壁の時計は九時。開店まであと一時間。その時、スィングドアが開いて二人の女性スタッフがおずおずと顔を出した。総菜部のスタッフである、若いフリーターの福岡さんと井波さんだった。
「あ、あの……」
「あっ!二人とも! 来てくれたのか!」マネジャーがいち早く声を掛ける。
「昨日、LINEでメッセージがあって……でも、やっぱりそういうのはダメだと思って……二人で来ました。……ご迷惑おかけしてすみませんでした」
「いいよいいよ。ごめんな!迷惑かけたのはこっちだ!来てくれてありがとう!作業に入ってくれるか?」
マネジャーは、二人に対して明るく励ますような声を掛けた。彼女らからしたら仲間を裏切った事になる。庄川さんも井波さんも大人しい性格だ。勇気が必要だっただろう。それでもわざわざ来てくれたのは、二人が真面目な性格だからだろう。それを慮ってか、マネジャーは優しい声を掛け続けた。
「はい」二人は、張り詰めた雰囲気に気圧されながらも加工場に足を踏み入れた。俺は庄川さんを和洋惣菜の加工に、井波さんを寿司の加工に入って貰った。
「井波さん、寿司のネタ切り出来る?」仲谷も精いっぱいの笑顔を作って、井波さんに声を掛ける。ただ、緊張を押し殺した無理やりなその表情は、幼女を飴で釣って連れ去ろうとする変質者の如き不気味な笑顔だった。
「ひぃっ……あ、はい。出来ます」仲谷の笑顔を見た井波さんが、返事をしながらも怯えたようにあとずさった。
「遅れてすみません」
その時、加工場に青果部門の主任が爽やかに入って来た。彼はスーパーに勤務しているのが場違いなくらいな、爽やか系のイケメンだった。そのイケメンっぷりから、女性スタッフの受けは異常に良く、『パートスレイヤー』という名誉ある異名を(陰で)戴いていた。
「仲谷、一旦変わろう。自分の売り場見れてないだろ?一度見て来いよ」
「あ、先輩。助かります。取りあえず、このバッカンに載せてある上身を、寿司ネタの大きさにスライスお願いします」
「分かった。魚切るの久しぶりだな」水産部門の経験がある彼は、口ではそう言いながらも慣れた手つきで刺身包丁を握った。
「井波さんだっけ? 迷惑かけてごめんね。一緒に頑張ろうか?俺、魚切るの三年ぶりだから色々教えてね」彼は整った顔を井波さんに向けると、彼女の眼をじっと見つめながら、飛びっきりの笑顔で優しい声を掛ける。
「はっ、はいぃ」井波さんは顔を赤らめながら、仲谷の笑顔を見た時とは打って変わって嬉しそうな笑顔で応えると、いそいそと寿司ネタをカットし始めた。




