駆逐 筆頭御典医、ボルチョックの話
「ゔぃじゃやん準大公 オキュリ キャルレ ナンティウ(ヴィジャヤン準大公、青き御使いを目撃)。
アシペレ プレティオ ラパイ(尊き宝玉を拝領す)。 セ コンスティ(確認を乞う)」
古語で書かれたスティバル祭祀長からのお手紙を持つ手が震えた。 伝説の青き御使いが遂に現れた? そのうえ尊き宝玉を拝領とは。 あの準大公が? 真か?
スティバル祭祀長からお手紙を頂戴した事は今まで一度もない。 だが直筆を拝見した事なら何度もある。 文末の花押がなかったとしてもこれが本物である事に関して疑いはない。 あまりの衝撃に呆然自失となり、時が経つのを忘れた。
「ボルチョック先生、お召しです」
助手の声にはっと我に返り、お手紙を急いで金庫に仕舞った。 私が知る限り青き御使いに関する記録は全て口伝で、文書で残されているものは一つもない。 このお手紙は皇国史上唯一の青き御使いの実在を証言した文書となるだろう。
何しろ目撃したのが準大公だ。 状況を正確に描写するようお願いした所で突拍子もない報告になるに決まっている。 今まで提出された報告書や供述調書だとて、やれ寝ている所を瑞鳥にハンモックごと掴まれたの、海坊主とは元々幼馴染だったの、紅赤石は沈んだら勿体ないから取り出したの。
数え切れない目撃者がいる事だし、全部が作り話とは言わない。 だが一体どこまでが夢、又は妄想で、どこから事実なのか。 何度読み返しても解読不能だった。
スティバル祭祀長も準大公の報告書をお読みになっているから古語をお使いになられたのではないか? 尚書庁に勤務する者にとって古語は必須だが、通常の書簡に使われる事はない。 しかし国史は今でも全て古語で記録されている。 原文が通常文だと、どのように解釈すべきかで紛糾する事がよくあるのだ。 それは準大公の報告書に限った事でもない。
もっとも今回の件に関しては目撃なさったのが祭祀長であったとしても文書で残そうとはなさらなかったような気がする。 奇跡はどれ程正確に描写しようと、それを実際に見た者でなければ作り話としか思えないもの。 私自身、瑞鳥も海坊主もこの目で見ている。 なのに未だに信じ難い思いを拭えずにいるのだから、私が見た事をありのまま書き残そうと読んだ人が信じるとは思えない。
「陛下は第五居室にいらっしゃいます」
侍従に案内されて入室すると陛下は窓から冬枯れのお庭を眺めていらした。 お顔の色が優れない。 お化粧で隠されているが、陛下の素顔を見慣れている私には分かった。 けれど私に悟られたと陛下がお気付きになれば、四六時中、それこそ就寝時にもお化粧を落とさなくなるだろう。 私を信頼していらっしゃらない故ではない。 臣下に不安を抱かせない為には多少の不便や不快は我慢せねば、とお考えになるのだ。
私は何も気が付かない振りをした。
「お召しにより参上致しました。 御気分にお変わりでもございましたか?」
「常の通りだが、長い会議となる。 念の為、気を流しておきたい」
「畏まりました」
閣僚会議など全て御臨席なさる必要はないであろうに。 後で宰相に総括を奏上させれば済む事だ。 御欠席を問題とする者がいる訳でもないのに御公務を減らそうとはなさらない。 せめて週に一度は御休息なさるよう、再三進言しているのだが。 戴冠以来、陛下が影武者に代行させた御公務は一つもない。
先代陛下もお倒れになるまで激務を淡々とこなしていらした。 私の師である先代陛下の筆頭御典医、アラカオマエ先生が一抹の悲哀を瞳に浮かべておっしゃった事を思い出す。
「御無理に御無理を重ねる御気性なのだ」
その御気性こそが代々の陛下が悩まされている瘴気の原因のような気がしないでもない。 それを証明する術はないが。
瘴気は治世が進むにつれ、陛下の体内に蓄積されていく。 症状はこれと特定されていない。 多くは疲労、倦怠感、発熱、食欲不振となって現れるが、発疹や骨折等、その陛下特有の症状もある。 先代陛下の場合、時々お声が出なくなった。
代々の御典医、薬師が寝食を忘れて症状を拡散、或いは軽減する薬を探しているが、似たような症状の患者になら効果がある薬でも陛下には効かない。 かと言って当代陛下に新薬を試す訳にもいかない。 唯一の対症療法が筆頭御典医による瘴気の転移だ。
陛下へ気を流す事により、瘴気を散らす。 気功が優れている者になら出来る治療だが、気を流せと言われても出来ない者にはどのような説明をした所で出来ない。 訓練すればいつか出来るようになるというものではないのだ。 気が流せる者かどうかは触診すれば分かる。 私はそのようにしてアラカオマエ先生に見出され、それ故筆頭御典医に選ばれた。
いつものように陛下のお手に触れ、瘴気が少しでも軽くなるよう気を流した。 ほうっと陛下がため息を吐かれる。
「大儀であった」
そうおっしゃって陛下は会議へと向かわれた。 気を流す前と後を比べ、瘴気の陰りに変化はない。 言ってしまえば毒が沈殿しているコップの水を撹拌したようなもの。 一時毒を散らしただけで消した訳ではないのだ。
何もやらないよりましとは言え、無力な自分が情けなくなる。 気功術はお疲れを軽くするが根本的な快癒にはならない。 施術する側もそれなりの犠牲を払っているのに。
気を流せば瘴気を引き受け、気功の老化を早める。 先代陛下が退位なさった時アラカオマエ先生は六十二歳だったが、先生の気功は百歳を越える老爺並みに弱り、完全消失の一歩手前でいらした。 外見は大して変わらないから気が流せる者でなければこの老化に気付かないが。
もし先代陛下の在位が続いていたら私がアラカオマエ先生の跡を継いでいた。 瑞鳥飛来により先代陛下の在位期間は予定より早い十二年で終わり、私は気を流さずに済んだが。 おかげで私の気功に大きな変化はまだない。 もし先代陛下にも気を流していたら私の気功は後五年も保たなかったと思う。
陛下は御身を削ってこの国を支えていらっしゃる。 それを思えば我が身を削るのに躊躇はない。 けれど現在私以外で気を流せる御典医はサジ・ヴィジャヤンしかいないのだ。
ハレスタード陛下の瘴気は戴冠後一年で既に始まっていらっしゃる。 アラカオマエ先生の医療記録を見ると先代陛下より一年二ヶ月も早い。 先代陛下より進行が早いのだとしたらハレスタード陛下在位中に私の気功が尽きる可能性が高い。
サジ・ヴィジャヤンは今年二十五歳。 筆頭御典医就任が十年後だとしても三十五歳で、史上最年少の就任となる。 気功は生まれつきの能力だが、年を経る毎に強度が増加するから、四十を越えたヴィジャヤンは私より遥かに強い気が流せるようになっていると思う。
しかし三十代で陛下を支えるのは若木に重しを付けるようなもの。 強度の増加はその時点で止まり、枯渇も早まる。 もしハレスタード陛下を支えただけで彼の気功が尽き、気を流せる者が他に現れなかったら、次に戴冠される陛下には筆頭御典医がいない事になってしまう。 なるべくヴィジャヤンの筆頭就任を遅らせたいのだが。 さればと言ってハレスタード陛下に気を流す事を止める訳にもいかない。
それともハレスタード陛下に早期の譲位をお勧めする? お勧めした所で頑固な陛下が応じるとは思えない。 ではいずれヴィジャヤンの次が現れると信じてハレスタード陛下に気を流し続ける? そして誰も現れなかったら?
どちらを選択しようと暗澹たる結果が待ち受けている事に変わりはない。 けれど宝玉が見つかったのならそれらは全て見ないで済む悪夢。
今すぐこの吉報を奏上し、陛下の重荷を軽くして差し上げたかったが、お手紙には「確認を乞う」とある。 スティバル祭祀長御自身にも定かではないのだろう。 失われて数百年を数える宝玉なのだ。 無理もない。 ここで逸って奏上し、お喜びになった陛下が各方面に祝賀の準備をさせてから何の効果もないと分かった場合、面倒な事になる。
仮に陛下はお怒りにならなかったとしても周囲の失望は大きい。 なぜ効果がないのだ、誰かのせいではないのか、発見者は誰だ、と準大公のせいではなくとも準大公を責める声が上がるに違いない。 準大公御自身は周囲の声などお気になさらないかもしれないが、もし皇王妃陛下の御機嫌を損ねる事にでもなれば後々サリ様のお立場を難しくする事が考えられる。
ここは一時辛抱するしかない。 確認自体は簡単なのだから。 私の中には陛下の瘴気が残留している。 それが消去されれば本物だ。
ふと、準大公の報告書を思い出した。 そう言えば、準大公が海坊主と初めて会ったのはベルドケンプ島。 報告書の中に青き御使いらしき事は何も言及されてなかったから気にも留めなかったが。
代々の筆頭御典医に伝わる話によると、天は数百年もの長きに渡り、肌が青く、賢智に長けた御使いを陛下へ遣わし、治世をお助けになったのだとか。 ところがその尊き援助を当然として御使いを蔑ろになさり、お怒りを買った陛下がいらした。
「ふん、助けがいらぬのなら勝手にするがよい。 ではベルドケンプ島へ遊びに行くとするか」
そのお言葉を残され、御使いは行方知れずとなられた。 他にどこを探せばよいのか当てがある訳でもないから、それ以来ベルドケンプ島へ派兵している。 しかし誰一人として御使いのお姿を目撃していない。 あの島を訪れた事がおありの準大公も含め。 なぜあの島ではお姿をお見せにならなかったのか?
当時準大公は年端もいかない少年だったから? いずれお姿をお見せになるおつもりだった? もしや海坊主は天から遣わされた聖獣? 準大公と御使いはあの当時から深い縁で結ばれていたのか? 海坊主の鳴き声が天に届き、少年が青年となった事を知った御使いが地上にお戻り下さった?
長い間失望に失望を重ねている。 確認が済むまで安易に喜ぶなと理性は警告しているものの、こみ上げる熱き期待は抑え難い。
御使いがお隠れになってから、どの陛下の在位期間も極端に短くなった。 建国の頃は今より食料事情が悪く、お住まいも平民の家に毛が生えた程度の粗末なものであったが、三十年から四十年、五十年近く在位なさった陛下もいらしたのに。 今ではせいぜい十二、三年。 長くても十五年。 僅か八年で退位された陛下もいらっしゃる。
次代様がお生まれになっているから大丈夫と言えるものではない。 筆頭御典医なしで陛下の寿命がどれだけ続くか私にも分からないが、最悪の場合二、三年で退位となる事さえあり得る。 それでは朝令暮改も同然。 皇国の命運を左右する事にもなりかねない。
陛下が変われば優先される事が変わるし、陛下の母上、皇王妃陛下の出身国がどこかによって外交や国際情勢も変わる。 改変を望む者にとっては短い在位の方がよいのかもしれないが。
崖っぷちと言ってよい状況に齎された朗報だ。 嬉しい事は嬉しい。 それにしても、なぜ準大公?
御使いの御帰還を最も必要とし、待ち望んでいらっしゃるのは陛下だ。 普通に考えたら陛下の御前に現れて然るべきだろう? まさか当代陛下に何か御不満でもおありなのか?
陛下では障りがあるなら祭祀長でもよいし、こう言っては何だが、準大公以外の御方なら誰でもよい。 あの御方が受け取ったというだけで、せっかくの宝玉の有り難みが減るような気がする。 豚に真珠とまでは言わないが。
陛下の冠を飾っても恥ずかしくはない紅赤石でさえ御遠慮なさった御方だ。 まさかとは思うが、宝玉の価値を知らずに誰かにくれてやったりしていないだろうな? それでも渡した相手が分かっているなら買い戻せる。 なくしました、と平気でおっしゃりそうなのが怖い。
痩せても枯れてもヴィジャヤン伯爵家正嫡子。 代々頭脳明晰で知られる名家だ。 危急存亡の今こそ先祖代々受け継いだ資質を発揮する、と思いたい。 だが御尊父のヴィジャヤン準公爵とは似ても似つかぬ御子息。 思い出せば思い出す程、目の前が暗くなって行くような心地がする。
宝玉を拝領なさったのが準公爵であったら何の不安もないのだが。 準公爵と特に親しい間柄ではないが、皇太子殿下御相談役をなさっていた時、何度かお話しする機会があった。 お言葉の端々から滲み出る知性に、切れ者という噂も宜なるかなと感じられた。 ヴィジャヤン伯爵である長兄、御典医の次兄、どちらも大変優秀だから御尊父でなくてもよい。
準大公でまず思い出すのは軍対抗戦での観戦態度だ。 あれは確か、準大公が北軍に入隊なさった年。 まるで生まれて初めての観戦であるかのようにキョロキョロ周囲を見回していらした。 本当に生まれて初めて観戦している者でもあのような恥ずかしい真似はしないと思うが。 貴族の子弟なら大体十二、三歳から観戦する。 あれは準大公にとって五度目の観戦だったはず。 私の席から見下ろす形だったのでよく見えたが、準大公は私にお気付きにならなかったであろう。 あれを初対面と言っていいものかどうかは迷うが、普通に会ったとしても賢いという印象を与える御方でない事だけは確かだ。
サジ・ヴィジャヤンの結婚式でも皇寵を与えた私に対してお礼は、ありがとうございます、の一言だけ。 皇恩に感謝する挨拶さえなかったのには驚きを通り越して呆れるしかない。 勇名を馳せる前から礼儀知らずな御方と聞いていたが、あそこまで礼儀知らずだと、なぜ今まで何の噂にもなっていないのか、それが不思議だった。
一口に貴族と言っても少なくない数がいるのだから質が落ちる事はよくある。 悪い噂の一つや二つ、耳にするのは珍しい事ではない。 どこそこの馬鹿息子がああしたこうしたは格好の暇潰しで、親が賢ければ賢い程中々溜飲が下がるらしく、広まる陰口となる。 親が必死に隠そうとすればする程かえって広まるものなのだが。
今にして思うと、公侯爵でさえ礼儀のれの字も知らない伯爵家の三男に対し、どこか温かい態度で接していらしたような気がする。 どなたも義理でお声を掛けているようには見えなかった。 父の七光りがあるとは言え、それだけで格上の貴族からお言葉を頂戴出来るものではない。 ただ皆様から構われていたのは貴族であのように分かりやすい御方は珍しいからかもしれないが。 赤くなったりもじもじしたり、あたふたするのを見るのは面白いと言えば面白い。
英雄とは尋常ならざる者。 準大公が英雄である事に関して議論の余地はない。 はっきり変人と言っては角が立つが、つまりはそういう事なのだ。 更に言ってしまえば、そこが人気の源のような気もする。
私には単なる無思慮にしか見えなくても、準大公のせいで上を下への大騒ぎをしている皇王庁の中にさえあの御方を悪く言う者はいない。 お止めしない周囲が悪い、と奉公人や部下を責める者ならいるが、それは理不尽というもの。 前後の事情を聞けば、あの御方のやる事なす事、止めている暇などないものばかりだ。
猫又については準大公家執事ともあろう者が知らなかったでは済まされないと思うが、執事も少々変わっているくらいでなければあの御方の執事は務まるまい。 狛犬と海坊主の後だ。 猫又を愛玩動物にするなど、いかにも準大公のやりそうな事で驚く方がどうかしている。
そもそも犬がどうした、猫がこうしたで走り回るのは愚の骨頂。 害獣とは言え触らなければ無害なのだから防ぐのは簡単だ。 それに比べ陛下の瘴気は防ぎようがない上に差し迫っている厄災。 どちらが火急か問うまでもない。 正直な所、準大公でさえ私にとっては二の次三の次。 宝玉を無事、陛下のお手元に届けて下さったら、今後どれ程無思慮な行動を取ろうと喜んで容赦する。 今ここで天に誓ってもよい。
「ボルチョック先生、お加減は如何ですか?」
翌朝、書類に目を通していると、サジ・ヴィジャヤンが気遣わしげに薬湯を差し出し、私の顔を覗き込む。 ヴィジャヤンにはお手紙の事を話してある。 彼はいずれ筆頭御典医になるのだから陛下の瘴気に関する事は全て知っておかねばならない。
「うむ。 どうも夢見が悪くてな」
所詮は下らない夢の話。 とは思うが、私の不安の表れでもあろう。 結局黙っていられなくて話した。
「準大公がキョロキョロ何かを探していらして。 変だな、どこに落としたんだろ、と呟かれた。 そして私の方を振り向いてな。 そこら辺に青い石が落ちていませんでしたか、と。 自分の叫び声で目が覚めた」
同じ夢に三度魘され、三度目は寝直すのを諦めた事までは言わなかったが、私の目の隈を見て察してくれたか、ヴィジャヤンが労るかのように言う。
「幼い頃からサダ様はよく失くし物を致しました。 それを探しに行くのですが、失くした物は見つからない事が多いのに、必ず失くした物以上に価値がある何かを見つけてお帰りになるのです。 人であったり、物であったり。
時々父が申しておりました。 サダ、そろそろ何か失くしてくれないか、と。 当時は冗談と思っていたのですが。 改めて思い返してみますと、あれは本気だったのでは、とも思うのです。 今回もそうなるとは申しませんが」
彼の言葉には薬湯以上に神経を宥める効果があり、その晩から悪夢に魘される事はなくなった。 一日千秋の思いに変わりはないが。
お手紙を頂戴してから三日後、ようやくスティバル祭祀長が神域に御到着になった。 御到着が後一日遅かったら非礼を顧みず祭祀長御一行に向かって飛び出して行っただろう。 早速サジ・ヴィジャヤンを伴い参上し、祭祀長に宝玉の事をお伺いした。 すると予想もしなかったお返事が返ってきた。
「準大公の左手を握るように」
「左手、でございますか?」
「うむ。 かの宝玉はな、準大公の左の掌中に溶けた」
溶けた? という事は、もうない?
衝撃のあまり聞き返す事が出来ない。 だが祭祀長はとても晴れやかなお顔でいらっしゃる。
「不思議な感触でな。 そなたの気功とは又違う。 では何か、となると私には判別がつけられなかった。 善きもの、とでも言おうか。 非常に力強い。
ヴィジャヤン。 そなたも触れるように。 あれが準大公の掌中に以前からあったのかどうかを知りたい」
程なくして準大公がいらっしゃり、左手を握らせて戴いた。 その瞬間、怒濤の強さで気が流れ込む。 これは、何だ?
耳元で、ごおっという音を聞いたような。 私の中に巣食っていた瘴気が凄まじい勢いで蹴散らされていく。 奔流に流されまいと準大公の左手を両手で力の限り握り締めた。 奔流は徐々に収まり、しばらくして止まったので準大公から手を離す。
私の気を確認すると陛下の瘴気を受け取る前の状態に完全に戻っている。 念の為サジ・ヴィジャヤンに視線を向け、瘴気が消えているかを目顔で問う。 消えております、という頷きが返って来た。 そして準大公の左手に触れ、この奔流は以前はなかったと言う。
最早一刻も無駄にしてはならない。 明日、朝一番で陛下にお試し戴かなくては。
準大公が下がった後で祭祀長が陛下へ先触れをお出しになった。
「ボルチョック、ヴィジャヤン。 供をするように」
「「御意」」
陛下が御臨席になり、まず祭祀長が青き御使い、そして宝玉が溶けた経緯を奏上なさった。
「大人の腰くらいの身長で、極寒にも拘らず青い素肌をお見せになり、見事な宝玉の胸飾りを付けていらしたとの事。 青き御使いで間違いないと存じます」
「お姿を見たのは準大公だけなのだな?」
「はい。 タケオ大隊長が目の端を青い影が過ったと申しておりましたが、他に似たような影を目撃した者はおりません」
「ふうむ。 そして残された宝玉は準大公の左の掌中に溶けた、と?」
「然様でございます」
「本人以外で宝玉を見た者は?」
「おりません。 準大公が屈み、石の上から何かを摘んだ様子は同行した兵士全員が遠くから見ておりましたが」
次いで私が瘴気の完全消失を奏上した。 陛下の瞳にかつて見た事のない輝きが現れる。
「準大公に会おう」
翌朝、陛下は準大公と握手なさった。 その時、ぎゃあという叫びを聞いたような。 瘴気の断末魔?
同時に湧き上がる気の激流。 私との握手で起こった気流とは比べものにならない。 窓を開けてもいないのに聖水を張っている大皿にさざ波が立つ。
準大公は、と見ればどうやら相当な痛みがあるようで、歯を食いしばり、堪えていらっしゃる。
陛下のお顔がほんのり赤みを帯び、瘴気の陰りが段々薄くなっていく。 しばらくして、どんなに気を凝らしても陰りが感じられなくなった。 陛下の瞳にも曇りはない。
聖水を張った大皿は鏡であるかのように天井の絵画を映している。
駆逐されたのだ! 生きてこの日に見えようとは。 思わず知らず目頭が熱くなった。
陛下が力強く頷いておっしゃる。
「間違いない。 準大公。 近衛に移る気はないか?」
「ありません」
ありません? ありません、だと? ここは、御心のままに、とお答えすべき場面だろう?
何をおっしゃりたいのか、準大公は無意味に手をぱたぱたさせた。 まさか、これが噂のヒャラ? ともかく準大公にお言葉を取り消すつもりはないようだ。
感動を打ち消す勢いで怒りがこみ上げてきたが、陛下は静かにおっしゃる。
「然様か。 まあ、よい。 本日は大儀であった」
準大公が常にお側にいなくとも実害はないと言えばない。 再び瘴気が蓄積されたとしても症状が現れるまでに一年はかかる。 準大公は毎年登城なさるのだからその時にまた瘴気を払って下さればよい。 とは言え、普通の臣民なら常に陛下のお側でお役に立とうと思うものではないのか? 準大公に向かって「普通の臣民なら」とは笑止の沙汰と思うが。
陛下に続いて祭祀長も御退席なさると、準大公はタケオ大隊長に笑顔を見せながらおっしゃる。
「間違いないって褒められたの、生まれて初めてかも。 これをブラダンコリエ先生に話したら百点満点もらえたりして。 あ、だけど先生は点が辛いからな。 でも九十点は堅いですよね?」
陛下の秘密を儀礼教師に明かすだと? 頭に血が上り、ふざけるな、と叫びそうになったが、その前にタケオ大隊長が答えた。
「九十とはまた大きく出たな。 平均三十二点のくせに。 百だろうと二百だろうと自己申告するのは勝手だが、ああ見えて先生は結構疑り深い。 全部が嘘とは思わないまでも、話を盛りやがって、くらいは思うんじゃないか?
ま、予定外の面会だ。 お前にしてはよくやった。 これっきりで後が続かなけりゃ、なんだまぐれか、でお仕舞いさ。 ご苦労さん、で五十点」
「五十点? それっぽっち? 陛下がお元気になったのに? あれ、随分痛かったですよ」
「俺の拳骨よりもか?」
「そ、そこまでは」
「なら、がたがた文句を言うな。 先生だって鬼じゃない。 お前が五十点を帳消しにするような真似さえしなけりゃ追加点をくれるさ」
お二人の会話のあまりのばかばかしさに毒気を抜かれ、落ち着きを取り戻した。 天へ誓いを立ててから三日しか経っていないのに、危うく破る所だった。 にこにこ笑いながら泰然自若で知られる私を激怒させるとは。 準大公、恐るべし。
気を取り直し、一息ついてからお二方を戒める。
「準大公、タケオ大隊長。 陛下との御面会の詳細は只今同席した者以外には御内密にお願い申し上げます。 たとえほんの一部であろうと、上官、奥様、親兄弟、誰であろうと他言無用です。 これには御典医、スティバル祭祀長以外の祭祀長、皇王族の皆様を含みます。 サジ・ヴィジャヤンに話すのは構いません。 ですが儀礼教師に話すなど以ての外。 お分かり戴けましたか?」
準大公にも御理解戴けるよう、ゆっくり噛み砕くように話した。 タケオ大隊長は軽く頷かれ、準大公はこくこく頷かれた。
タケオ大隊長は大丈夫そうだが。 準大公には一抹の、いや、かなりの不安が残った。 本当に、本当に、お分かり戴けたのだろうか? 点をもらう為に何かとんでもない事をやりそうな。 或いは教師には黙っていてもケルパ神社の僧侶とか、神官に話し、神官にも黙っていろとは言われなかった、とおっしゃるのでは?
どこも大なり小なりそうだが、祭祀庁も一枚岩とは言えない。 真の中央祭祀長はスティバル祭祀長と噂されているが、普段城内にはいらっしゃらないから様々な思惑が錯綜している。 陛下の瘴気について私が報告しているのはテイソーザ皇王庁長官とスティバル祭祀長だけだ。 スティバル祭祀長がネイゲフラン中央祭祀長にどこまで伝えていらっしゃるのか私は知らない。 ネイゲフラン祭祀長付き神官に、質問されたからありのまま答えました、では困る。 非常に困る。
瘴気は消えたはずだが、背筋に悪寒が走った。 なぜかそこで脳裏に準大公が現れ、明るく微笑みながらおっしゃる。
「恐れている事に限って起こるんだよね。 ちゃんと」
準大公に関しては全てサジ・ヴィジャヤンに任せる事にしよう。