外出 4
明日皇都に着くというのに、提出するばかりになっている準大公の事情聴取書を手にして私はまだ迷っていた。
事情聴取書自体は実に単純、簡潔、明解だ。 今まで私が事情聴取官として提出した事情聴取書の中で最短であるだけでなく、退官するまで再びこれ程短い事情聴取書を書く機会があるとは思えない。 他の事情聴取官が提出した物と比べても短いだろう。 もしかしたら過去だけでなく、未来を含めても不動の最短ではないか?
しかし問題は短い事ではない。 準大公は全てをありのまま供述なさった。 類い希なる偉業を日常茶飯事であるかの如くに語るのは、ある意味事実に反しているが、あの御方にとってはこれが事実。 少なくとも私はこの事情聴取書の中に嘘は一つもないと思っている。
けれど私がどう思おうと審問官が忖度する事はない。 審問官が忖度するのはここに書いてある事が事実であるか否か。 そして事実なら、その事実がサリ様の安寧を脅かすものであったか否か、だ。
私は審問官ではない。 けれど審問を傍聴するまでもなく分かる。 準大公を個人的に御存知の方が審問官の中にいらっしゃるなら別だが、そうでもない限りどなたもこれを事実とは思うまい。 それも無理はない。 内容が内容なだけに。
内容の吟味は私の仕事ではない。 それは審問官の仕事だ。 私の仕事はこの事情聴取書を提出すれば終わる。 では、これをこのまま提出するのか?
私は事情聴取官就任以来、一度も事情聴取書の改竄をした事がない。 それを密かに誇りとしてもいた。 今まで改竄しろという「目配せ」がなかった訳ではないし、そのような反骨精神を見せては長生き出来ないぞと忠告された事もある。 だが私は気にかけなかった。 元々長生きなど望めない仕事だし、長生きしたい訳でもない。 課長や部長が改竄したいなら勝手にすれば良い。 同僚が改竄するのだって止めようとは思わないが、自分がやる気はなかった。
けれどこの事情聴取に関しては迷いに迷った。 大審院事情聴取に嘘をついた、又はついたと審問官に疑われた場合、被告が拷問される事があるから。
皇寵をお持ちの準大公を拷問するという事があり得るだろうか? あり得ない、と言い切れないから迷うのだ。 大審院や皇王庁には様々な思惑がある。 誰にどんな思惑があるかなど一事情聴取官には推測のしようもない。 準大公だからこそ、大審院の権威を知らしめようと拷問を命ずるというのは充分あり得る話なのだ。
己の誇りに拘って改竄せずに提出し、その所為で準大公がゼラーガの裏門へ送られたら? 掛け替えのない巨星が落ち、真っ暗になった夜空を眺め、それでも私は正しい事したと思えるだろうか?
拷問とはならなくとも、それが嫌なら自死を選べと勧告される事もないとは言えない。 或いはこの事情聴取書が原因で、あの御方からサリ様の養育権が取り上げられたら? それでなくてもサリ様が未だに北の御両親の下で養育される事に関し、その是非が論議されているのだ。
今まで私がお上の政治的な思惑を気にした事はない。 サリ様がお元気でいらっしゃるなら、どこで誰がお育てしようと構わないではないかと思っていた。 しかしあの家族の団欒が後宮で可能とは到底思えない。 後宮に足を踏み入れた事がある訳でもない私が心配するなど僭越以外の何ものでもないが。
サリ様が取り上げられたとしても、あの御方なら私を責めたりなさらないだろう。 だからこそ尚の事、私の良心を苛むに違いない。
ならば改竄する? どこを? どのように? 答えは出ない。
どうして誰も私を殺しに来ないのか? いっそひと思いに死んでしまおうかとさえ考えたが、担当事情聴取官が自殺したら、遺書が残されていたとしても世間は準大公が殺したと思うだろう。 それではあの御方の御迷惑になるだけだ。
それにしても、なぜ改竄しろと誰も言って来ないのか? 改竄するより事情聴取官を殺した方が簡単だが、殺さないならどこをどうしろくらい言って寄越すべきだろう?
準大公がそんな事をおっしゃらなかったのは不思議ではない。 そこまで気が回るような御方ではない事は、お会いしたその日の内に分かった。 けれど準大公の周囲にはさすがとしか言いようのない人材が揃っている。 執事を始め、マッギニス補佐、タケオ大隊長と、私を脅そうと思えばいくらでも脅せたはずではないか。
北でお会いした方々ばかりではない。 準大公の御両親、親戚、姻戚関係には上級貴族が目白押し。 私に直接圧力を掛けてもいいし、私の上司を通じて「目配せ」する事も簡単なはず。 なのに未だに誰からも指示も示唆もない。
そもそも私がこの仕事に選ばれたのだって何らかの作為がなければおかしい。 課長はある意味公平な御方で、仕事の割り振りは事情聴取官の名前順にしていた。 殺される仕事が回って来ても運が悪かったとなるように。 恨みっこなしと言うか。
私の前に二名、次の仕事を待っている事情聴取官がいた。 ところがこの仕事は彼らを飛ばし、まだ担当事件の事情聴取が終わっていない私に来た。 彼らと私の違いと言えば、改竄した事がないという事しか思い浮かばない。
するとそれが私が指名された理由? だがこのような事件なら改竄しない事情聴取官より改竄する事情聴取官を選ぶべきでは?
ともかく私は選ばれた。 そして殺されなかった。 つまり誰かが私を守ってくれたのだ。
護衛なしで旅をする一文官を暗殺するのは誰にでもやれたと思うが、守るのは簡単ではない。 毒殺、病死に見せかけた殺人。 泊まった宿が火事になった、馬車が谷底に墜落した、強盗に襲われた。 いくらでも方法はある。 では誰が守ってくれたのか?
可能性としては準大公のお父上である準公爵が一番高い。 道順も宿も準公爵御推薦通りに従ったのだし、宮廷内最大派閥の首領と噂される御方だ。 私を守る術もおありだろう。
それならなぜ守ってやると最初から言って来ないのか? 恩を売る為に守ってくれたというなら分かるが、無事に帰った後でも何も言って来ないのでは恩を売った意味がない。
推理小説の探偵がつくづく羨ましい。 準公爵の胸の内を推理するのは複雑な犯罪を推理するよりずっと簡単なはずなのに、頭が痛くなる程考えても私には答えが見出せなかった。
ともかく、準公爵なら私を殺す事はもちろん、改竄を強要する事も簡単に出来た。 それにどこをどう改竄すればいいのか、指示がなければ私以外の事情聴取官がやったとしても迷ったと思う。 なのに何の指示もお出しにならなかった。
呑気な準大公ならともかく、法律にも明るい準公爵ならこの事情聴取書をこのまま提出すればどうなるか重々御承知のはず。 ならば何もなさらないのは故意としか考えられない。 この事情聴取書をそのまま提出する事が準大公の利益になるとは信じ難いが。
結局私は改竄を一切加えず提出する事にした。 自分の推理とも言えない推理に誤りがない事を祈りながら。
旅から帰って大審院の事情聴取官が勤務する一翼に入った途端、通り過ぎる誰彼に目を見張られたり振り返られたりした。 話しかけたさそうに立ち止まった者もいたが、私は一刻も早く事情聴取書を提出してしまいたかったので、エルヴィーン課長の執務室へ早足で向かった。
幸い課長は在室で、すぐに会って下さった。
「ベ、ベルント。 よく生、あ、いや、無事帰ったか」
「はい、只今戻りました。 これが準大公の供述を記した事情聴取書で、こちらは参考供述書です」
課長は書類を受け取ると、中を読もうとせず、その場で封筒に入れ、封をした。 そして破られたらすぐ分かる様に封の上に署名押印して、フダール補佐を呼んだ。
「大至急、ベネッシュ部長へ提出せよ」
「承知しました」
事情聴取書を抱え、急いで退室する補佐の背を見送り、課長は長いため息を洩らした。 ようやく悪魔が退散してくれた、と言うかのように。
「ベルント、今回は実に御苦労だった。 好きなだけ休暇を取って良いぞ」
「いえ、明日から通常勤務に戻らせて下さい」
「う、うむ。 分かった。 それでは年末に特別報賞金が出るよう取りはからっておく」
「御気持ちはありがたいのですが、それは辞退致します。 現時点では提出後、どうなるか不明ですし」
「だがあの準大公から事情聴取書を取り、奇跡の生還を果たしたのだ。 それだけで殊勲賞に値する。 何か欲しい物はないか?」
「もし、ですが。 もし準大公へのお咎めが何もないとなりましたら外出許可を戴けないでしょうか?」
「外出許可!?」
課長はさすがに驚いたお顔をなさった。
「どこか行きたい所でもあるのか?」
「故郷へ墓参りに行きたいのです」
「……前例がないだけに確約は出来ないが。 上に話しておく」
「ありがとうございます」
そして私は官舎へ戻った。
官舎では大審院でよりもっと大きく騒がれたが、疲れているから、と言い訳して誰とも長話はしなかった。 自室に戻った途端、私が帰った事を聞きつけたらしくリエルサが飛んで来た。 私は鞄から外套を取り出し、お礼を言った。
「ありがとう、リエルサ。 これがなければ寒くて死んでいた」
リエルサは息を整えてから外套を受け取って裏返し、裏打ちに付いている自分の名前の刺繍を確認した。 それを脇に置き、両手で私の体のそちこちをぽんぽん叩き始めた。 本当に中身が詰まっているのだろうな、と言うかのように。
「おい、何をする。 幽霊なんか信じていないんじゃなかったのか?」
「信じてはいないさ。 しかし今まで見ていなかっただけという可能性は捨て切れん」
「意外に疑り深い奴だ」
「お前を一目見て幽霊だと叫んで逃げ出した奴よりましだろう?」
「イバーラは以前幽霊を見たとか言ってなかったか?」
「ふん、何が幽霊だ。 願望の間違いだろ。 女人禁制の官舎に、なぜ女の幽霊が出る?」
「死んで身軽になったし、男漁りでも、とか?」
「一度あの世に逝ったくせに、前より下品になって戻って来るとはどういう訳だ?」
「あの世に逝けば上品になると思い込んでいる方が悪いのだ」
「逝くのが怖くなるような事を言うな」
着替えを済ませ、準大公から戴いた股引を手洗い用の洗濯桶へ入れた。 家紋が付いていないので洗濯に出しても誰にも気付かれないとは思うが、万が一にも失いたくはない品だ。
私は衣類で包んでいた小瓶を取り出し、それをリエルサにあげた。
「土産だ。 私は何も買わなかったのだが準大公から塩を頂戴してな。 大峡谷から取れたものだそうだ」
リエルサは蓋を開け、塩の粒をひとつ摘んで舐めた。
「ほう。 深みのある塩だ。 ところで、準大公はどのような御方だった?」
それはとても一口では語り尽くせない質問だ。 暫く考えた後、こう答えた。
「私の想像とは全くかけ離れた御方だった」
追記
先代陛下が御外遊に出発なさった翌年、大審院事情聴取官職務規制法の改正により、護衛付きの外出が可能になった。 改正当初から突然の改正の理由を知る者はいなかったと伝えられるが、ベルント事情聴取官の名石には二つの没年が刻まれており、一つ目の没年が外出規制解除の前年である為、彼が法の改正を実現させたか、直接或いは間接的な貢献をしたと信じられている。




