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弓と剣  作者: 淳A
海鳴
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練習

「大隊長の執務室は第二庁舎へ移転致しました。 御案内申し上げます」

 マッギニス補佐はそう言って、俺を新しい執務室に連れて行った。 第二庁舎は第一よりずっと小さい。 そして第一みたいに御客様やら他の大隊からの誰彼が滅多に来ないから静かだ。 庁舎内を歩いているのは第二大隊隊員、つまり諜報部員で、平の兵士でも俺よりずっと賢い人達ばかり。 ちょっと緊張するかも。 廊下を歩いていると敬礼されたので、皆さんに答礼しておいた。 これから色々御迷惑をかける事になるんだし。


 俺の執務室に入ったら前よりずっと広くて立派な部屋だった。 重厚な執務机が置いてある。

 そこまではいいんだ。 俺の後を歩いていたマッギニス補佐が入ってドアを閉める時、ふっと冷気をドアノブに吹きかけた。

 あ、今日御迷惑をかける事になるのかも。

 その予感は当たっていますよ、と言うかのように、ぴきん、と微かな音がした。 すうっと冷気が室内に流れる。

 マッギニス補佐がゆっくりと振り向く。 顔には何も浮かんでいない。 いつものように。 だけど長い付き合いだ。 いくら呑み込みの遅い俺にだって分かる。 とても、とても、とーーっても悪い事がこれから起こるという事くらい。


「よもやこの期に及んで逃げようとする馬鹿者はいまいが」

 そんなマッギニス補佐の心の呟きが俺の心に届いた。

 マッギニス補佐の辞書に手加減の文字はない。 俺が上官? それが何、て感じ。

 いっそ大峡谷の果てへ逃げる? だけどそんな事をしたらリネに会えなくなる。 それは嫌だ。 世間には駆け落ちっていうものがあるらしいけど。 愛する二人が手に手を取ってどこか誰も知らない所に行くんだって。 リネといつかやってみたいと思っていたから、今それをやっちゃう?

 ただ駆け落ちするには、まずあのドアノブを手袋なしで掴まなきゃいけない。 俺の手の皮がどんなに厚くても無事には済まないだろう。 開けられたって俺の足はマッギニス補佐の冷気から逃げきれる程速くない。 いや、ダーネソンの俊足をもってしても無理だと思う。 二人で競争している所を見た訳じゃないけどさ。


 もしかしたら、次に来るのは「氷化粧」?

 そ、そ、それだけは勘弁してっ! 眉やまつげに氷がびっしり貼り付き、どんなに辛かったか。 思い出すだけで身震いする。 残念な事にマッギニス補佐の必殺技はどんどん凄みを増していくばかり。 日進月歩と言っていい。 中身に進歩が全くない俺との距離は広がっていく一方だ。

 普通なら世間の噂や評判がいくらすごくたって本人は大した事ないものだろ。 俺みたいにさ。 評判と実物がぴったり一致している師範のような例もあるけど。 でもマッギニス補佐の場合、噂や評判が実物のすごさに全然追いついていない。 確かに怖れられてはいるが、父親になって以来少し温かくなった、みたいな現実とかけ離れた噂が流れていたりするんだ。

 食堂でその噂を小耳に挟んだ時は思わず仰け反ったね。 前と比べたって寒さは増していても減ってなんかいないだろ。 子供が生まれてからだってじゃんじゃん大寒波を発生させているじゃないか。 マッギニス補佐の体のどこを触ったって温かさなんて出て来やしない。 まあ、俺だって実際触った事がある訳じゃないけどさ。

 危うくその場で、世間は何を見ているの、と叫びそうになった。 噂というものがどんな風にして出来あがっていくのか俺にはさっぱり分からない。 そんなどうでもいい事を考え、目の前の現実から逃げようとする俺の背中を、ぞわぞわした何かが這い上がっていく。


「そんなの、気にしてる場合?」

 毎度お馴染み、絶体絶命の四文字が不景気な顔を出して聞いてきた。

「しょっちゅう呼び出さないでよ。 危機感が薄れるじゃない」

 そう文句を言って、すっと消えた。 死人に用はない、と言うかのように。

 もう、だめかも。 弱気が俺を包む。


 執務室にはタマラ中隊長補佐が待っていた。 いつもならタマラ補佐の顔を見ただけでほっとするんだけど、今日はタマラ補佐の目を見てがっくりきた。 これから葬式に参列するかのような悲しみに溢れている。 最早これまで?

 俺は、ふらっと倒れ込む様に椅子に腰を掛けた。 覚悟は決めたが、マッギニス補佐に怒られている所をタマラ補佐に見られたくない。

「タマラ補佐。 自室で待機していて」

「大隊長。 タマラには同席してもらわねばなりません。 事情聴取の練習に入る前に御用船乗り換え、そして御出発からお戻りになるまでの全てを詳しく御説明戴く必要がございます。 他に筆記する者を呼んでいる時間の余裕がない為、御了承下さい」


 それからケルパがどう踏ん張って乗り換える事になったか、そこから始まって帰るまで、聞かれるままに全部話した。 大筋はとっくに話している。 簡単に終わるかと思ったら、なぜそうしたかの理由、その時は誰が側にいたか、俺は誰に何を頼んだか頼まなかったか、マッギニス補佐は重箱の隅を突つくように聞いてきた。

 それでも乗り換え、救助、海坊主の移動、直命や帽子を射抜いた事の詳細を聞かれるのはまだ分かる。 なんと先代陛下へのお目通りが叶った時、危く平伏しそうになって変な言い訳した事まで言わされた。 お咎めもなく終わった事なんだし、今更蒸し返さなくてもいいじゃないか。 恥ずいったらない。

 海坊主なんて十年以上前の出会いから、だ。 そしてギラムシオ号の船員と昔どういう経緯があったのか。 もう、二時間以上しゃべりっぱなし。 喉がひりひりする。

「そしてブラースタッドに着きました」


 ようやくそれが言えた時にはナジューラ義兄上を引っ張って泳ぎ切った時よりぐったりしていた。 これから事情聴取の練習かよ。 せめて冷気を引っ込めてくれ、と言いたかったが、ここでマッギニス補佐の怒りを更に煽るような事を言って、今晩家に帰れなくなったら腹が減ってぶったおれる。 下手をすると、そこに氷化粧の追い打ちだ。


 上官なんだから命令するくらい簡単だろって? だけど冷気なんて発していないと言い返されたらどうするの? 冷気を発している証拠を見せろ、とかさ。


 どっちにしても大寒波よりましだろ、て?

 まあ、マッギニス補佐の冷気で責められる恐ろしさを味わった事のない人に説明したって分かってもらえないのは仕方ないけど。 俺に言わせれば、みんなで一緒に苦しむ大寒波より、ひとりで耐えなきゃいけない紫唇刑や氷化粧の方がよっぽどきつい。

 大寒波は極寒とはいえ、終わった後、どんな風に乗り切ったか乗り切れなかったか、お互いの霜焼けを見せ合ったり、骨折とかもっとひどい目にあった人の話をして、あいつよりはましだよな、と慰めあう楽しみもある。 でも俺はまだ俺以外で氷化粧を食らった人を見た事はない。 紫唇刑なら他にもいるけど、氷化粧は紫唇刑よりきついんだ。 紫唇刑もきついが、氷化粧は顔全体が氷で顔を洗ったみたいな感じ。 もう痛いの痛くないのって。 それでも気絶する事は出来ない。 マッギニス補佐はその気絶するかしないかの境目を知っているみたい。


 え? 普段怒られ慣れてるだろ、それぐらい何だ、て?

 それは誤解です。 マッギニス補佐以外の部下からは怒られるというより嫌みを言われている。 まあ、部下の数が増えたから嫌みを言われる機会も増えたけど、一人一人の回数を数えるなら三ヶ月に一回てとこ? タマラ中隊長補佐やネシェイム小隊長のように嫌みの一つも言わず、ひたすら辛抱強く仕えてくれている人だっている。

 トビの怒りは強烈だが、年に二、三回だし。 トビ以外の奉公人からは意見されるか、プレッシャーをかけられるくらいだ。 尤もこれには侮れないインパクトがあり、俺としてはかえって怒られた方が楽なんだけど。

 リネからだって、びしっと言われた事はあるが、怒られた事はない。 第一、リネが今まで怒った事なんてあったっけ? 怒りの塊である師範の妹とは思えない程温厚だ。


 その師範を忘れているじゃないか、て? いや、師範は怒りっぽいんじゃない。 あれは常に怒っている人なんだ。 今では丸くなったというか、昔の様に辺り構わず怒りを発散させる事はないが、怒っているという事を面に出さないだけでいつも怒っている。 何にかは分からないけど。

 念のために言わせてもらうが、俺にじゃない。 そりゃ俺を怒っている時もあるけどさ。 師範はみんなを平等に怒っているというか。 世の中の事、全てに対して怒っている感じ。

 但し、師範の家族は別。 ヨネ義姉上、リヨちゃん、リネに怒ったりはしていない。 師範の結婚式でも師範は自分の家族と一緒の時は怒っていなかった。

 結婚式に怒る人なんていないだろ、と思うかもしれないが、俺が見た限りでは師範が結婚式を楽しみにしていた様子はなかった。 どちらかといえば、嫌々?

 とにかく家族なら怒られずに済む。 すると、どうして俺は怒られているの? 何もしなくたって俺は常に怒られている。 俺は家族じゃないの、と聞きたいが、早死にしたい訳でもないし、余計な事を聞いたりはしない。

 マッギニス補佐にだってよく怒られているとは言っても、マッギニス補佐の怒りは全て計算されている。 俺の間違いは偶然でもマッギニス補佐の怒りは偶然じゃないんだ。 例えば寒波を起こすのだってマッギニス補佐がここは一発寒波を食らわせておいた方が良いと判断したからタイミングを計って起こしている、て感じ。 その証拠に俺が似た様な間違いをしたって似た様な寒波が起こるとは限らない。 それで予想も心の準備も出来ないでいる。


 とにかくこの後に練習だ。 どうかこれ以上寒くなりませんように。 そう祈りながら取りあえず水を飲んで、ほうっと一息ついたらマッギニス補佐が立ち上がる。

「大隊長。 これにて失礼致します。 タマラ、付いて来い」

 そして退室しようとした。

「あれ? 練習はしなくてもいいの?」

「事情聴取官には只今大隊長が御説明下さったままをお答え下さい。 聞かれた事以外は答えないという点に御留意戴くだけで結構です。 改めて申すまでもないかと存じますが、大隊長から事情聴取官へ何を御質問なさろうと、あちらに答える義務はございません。 そのような時間の無駄はなさらぬようお勧めします。

 尚、乗り換えの理由を説明する際は事情聴取官にケルパを御覧戴いた方がよいでしょう。 ウィルマー執事は心得ていると思いますが。 予め御家内の皆様へお知らせ下さいますように」


 思わず閉まったドアに向って、ありがとうと叫んじゃった。 室内にはまだ冷気が漂っているが、今日の苦行は終わったのだ。 明日は明日の風が吹く。 ほんとにありのままを言っちゃってもいいの、なんて聞かなくてもいい事を聞く気はない。


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