求婚 プラドナ公爵令嬢、キャシロの話
「コルセットを付けたままでは、やはり限界があるわね」
小声で囁いた独り言でも、すぐ隣にお立ちのキュイパー準伯爵のお耳に届いたよう。 キュイパー準伯爵は少し困った様な表情を見せて、こほんと一つ咳払いなさった。
「あら、私とした事が。 殿方の前ではしたない言葉を口にしたりして。 ごめんあそばせ」
世慣れたキュイパー準伯爵は、私の失言など少しも聞こえませんでした、とおっしゃるかのようにお応えになる。
「キャシロ様の腕の動きは正確な角度を決めておられます。 御心配なさらずともレイエース皇弟殿下の舞踏会でヒャラをこれ程習得されている御方は他におりますまい」
「お褒めのお言葉は嬉しゅうございます。 けれどキュイパー準伯爵がおっしゃる他とは、他の女性なのではございませんの? 舞踏会ではかなりの殿方がヒャラを踊られるでしょう。 私の動きがぎこちないのは御覧の通り。 どのような理由があろうとも大胆で自由な殿方の動きに比べましたら見劣りする事は避けられませんわ」
「それを残念に思われるお気持ちは分からないでもないながら、何分奇を衒った踊り。 余興でお囃子が演じられるとの事ですが、踊り出す者が何人いるかは未知数と申せましょう。 準大公が始めた踊りだからと言って我も我もと踊り出すとは限りません。 余りに型破りと嫌われ、誰も踊らぬ事もあり得ます」
キュイパー準伯爵は頑是無き子供を宥めるかのようにおっしゃった。 でもキュイパー準伯爵のヒャラは中々の仕上がり。 緩急の妙といい、大胆な動きといい、相当なお稽古をなさった事が窺える。 私のお父様よりお年が上とはとても思えない。 御自分は踊る気満々ではございませんか、と申し上げたりはしないけれど。
ヒャラにはステップや振りに決まりがある訳ではないのだからどのように踊ろうと間違いではない。 とは言え、出鱈目に踊るのと稽古した動きの差がこれ程出る踊りもないでしょう。 上手なパートナーがいれば誤魔化しの利くバンガセンと違い、個人の力量がそのまま表れるヒャラは簡単に見えるだけで、どの社交ダンスより難しいと言えるのではないかしら。
こう見えても私は社交界では知られた踊り手。 動きを遮る物さえなければ殿方と比べても引けを取らない踊りを見せる自信があるのに。 でもコルセットなしで出席するだなんて自分の家が主催する舞踏会であっても許されるはずはない。 皇王族主催の舞踏会にそんな身なりで出席したら家名に傷が付く事を怖れるお父様からどれほど厳しいお叱りがある事か。 舞踏会の会場で絶縁を申し渡される事さえ考えられる。 最悪の場合皇王庁から不敬罪のお咎めを戴き、家名の恥となるよりは、と殺される事さえ全くないとは言い切れない。
キュイパー準伯爵がお帰りになった後でコルセットに手を当て、深いため息を零した。 高がコルセット、されどコルセット。 邪魔だからと言って簡単に捨て去る事は出来ない。 私を雁字搦めに縛る義務と責任、しきたりや世間の思惑のように。
私の気持ちを察した筆頭侍女モナが静かに諭す。
「お嬢様。 そうむきにならずともよろしいではございませんか。 御自分の踊りがお気に召さないのでしたら踊らなければ良いだけの話でございます。 いずれにしても女性でヒャラを踊り出す御方がいらっしゃるとは思えません」
それが尤も至極な言葉である事は重々承知している。 けれど私は返事をしなかった。 何かにつけ社交界で一番乗りをするのは善し悪し。 出る杭は打たれる事くらいモナに言われるまでもなく分かっている。
それでなくても今、プラドナ公爵家は非常に危うい立場。 私を準大公に嫁がせる為、お父様が何やら画策なさっていたようで。 しかもその計画が水泡に帰したらしい。 仮にその失敗がなかったとしても未婚女性は日常の振る舞いに慎重にならねば結婚の障害となる。 ヒャラなど踊って世間の耳目を集めてよい場合ではないのだ。
因みにお父様の計画が失敗した事は誰からか教えられて知った訳ではない。 ただお母様は今年に入ってから御自分と私の防寒衣料を次々とお買い求めになっていた。 ところが皇太子殿下の舞踏会の後、一着も御注文なさっていない。
そしてお父様から外国語と外国の王侯貴族、特にアイデリエデンの歴史と地理について重きを置いて学ぶように、とのお指図があった。 それで私の嫁ぎ先候補を見せて戴いたら、その中に国内貴族は一人もいなかった。 公爵令嬢の嫁ぎ先が外国なのは良くある事だけれど、国内貴族が一人もいないのは誰もが私を正妻に迎える事を敬遠したからに他ならない。 詳しい事情は聞かされていなくとも分かる。 計画の失敗を世間から隠す事にさえ失敗したとは余程の不手際だったのでしょう。
ともかく私が外国に嫁ぐ事は決まっている。 だからヒャラのような国内でしか通用しない踊りを稽古した所で何の役にも立ちはしない。 なぜこれ程ヒャラに拘るのか自分でも不思議なのだけれど。 初めて見た時からどうしても踊ってみたかった。
それでお父様に外国の踊りを習いたいとお願い申し上げた。 幸いお父様からお許しがあり、諸外国の踊りに精通していらっしゃる事で有名なキュイパー準伯爵に、週一度、御稽古に来て戴ける事になった。
キュイパー準伯爵も準大公のヒャラを熱心に御覧になっていた。 きっと踊るコツを掴まれていらっしゃる。 私の予想通り、最初のお稽古の日に私がちょっと関心を示しただけで基本の動きを丁寧に教えて下さった。
上半身はまっすぐ。 膝を少し屈め、片足を後ろに蹴り出してから前斜めに出す。 足を出す時、同時に両腕をぱっと大きく広げ、足を最初の位置に戻す時、両腕をさっと胸に戻す。
準大公はお囃子の早さに合わせ、蹴りの歩幅や手の振りの角度と方向を自在に変え、体を前後左右に揺らしていらした。 舞踏会服を纏った私に同じ振りをする事は出来ないけれど、殿方にとってもかなり難しい動きと言える。
キュイパー準伯爵は基本動作の後で、お得意の手拍子、足拍子のアクセントを付けた独自のヒャラを見せて下さった。 どうやらそれを自慢なさりたくて仕方がなかった御様子。
女性の場合コルセットがあるだけでなく、スカートで足の動きが見えないから上半身と両腕の動きが重要なポイントとなる。 私はそれに体の柔らかさを利用した工夫を加えてみた。
勉強の合間を盗んでは毎日ヒャラの稽古をしていたおかげで、かなり華やかな動きが出来るようになった。 我ながらどうしてこんな事をしているの、と思わないでもない。 言葉や外国の礼儀作法を学び、数え切れない義務をこなしている。 自分の自由となる時間などいくらもないのに。
次にお目もじする際には是非御一緒出来るよう、稽古しておきますわ、と準大公に申し上げたから?
そんな言葉、準大公だってきっと覚えてはいらっしゃらない。 単なる噂かもしれないけれど、準大公は公侯爵の名前を覚えるのにさえ大変な御苦労をなさったのだとか。 それが事実だとしたら私の言葉どころか私の名前さえ覚えて下さっているかどうか。
私にした所であの場で笑い出しそうになり、それを誤魔化すために申し上げたに過ぎない。 それともヒャラを踊る事で何もかも忘れたいのかしら?
外国へ嫁ぐ事。 学ばねばならぬあれやこれや。 未来への不安は尽きない。 その点パートナーなしで踊れるヒャラは気楽で、仲の良い友人がいる訳でもない私の良い気晴らしになっている。 でもそれだけなら人前で踊る事に拘らなくてもよいはず。 踊りの出来不出来を気にする必要もない。 自分の家で踊るだけで満足出来ないのはなぜ?
私は皇太子殿下の舞踏会で他の皆様に先んじて準大公に踊りを強請りに行って以来、準大公を誘惑しようと必死になっている、と陰口を叩かれている。 準大公御夫妻はあっと言う間にお帰りになられたので、結局準大公と直接お話し出来た女性は皇太子妃殿下以外では私だけ。 なものだから大人しく行列を作ってお声がかかるのを待っていらした方々のお怒りを買ってしまったよう。
あの時迷わず進み出たのは、準大公のお気に入られるように、とお父様から命じられていたからで、私自身が準大公と結婚したいとか誘惑したかった訳ではない。 結婚の可能性がなくなったと知っても特に残念とは思わなかった。 それに今度の舞踏会に準大公夫妻は御出席なさらないと聞いている。 ヒャラの稽古を一生懸命しているのは準大公に見て戴きたいからではない。
ただ私にとって人前でヒャラを踊る機会は、おそらくこれが最初で最後。 新年の舞踏会でヒャラを踊る機会などあるはずはないし、この次があるとしたら来春の皇太子殿下の舞踏会。 その時には嫁ぐ準備で忙しいか、嫁ぎ先に向けて出発している頃だから私が出席出来るとは思えない。
皆様はヒャラを踊られる準大公を見つめていらしたのでしょう。 でも私が一目見て虜となったのは、あの自由な動き。 すぐさま自分でも踊ってみたいと思った程。
それなら踊ればよいでしょう? なぜ躊躇うの?
女性だから? 陰口を叩かれるから? 動きが変わっている、今までにない踊りだから?
心のままに踊りを楽しんで何がいけないの? どうせ二度とこの国に戻る事はないのに。
「モナ、お針係りを呼んで」
私がお針子に柔らかい素材を使ったコルセットを作るよう指示すると、側で聞いていたモナが慌てて止める。
「お嬢様、何をなさるおつもりですか?」
「心配しないで。 単なる稽古着用よ。 舞踏会に着て行ったりしないわ。 だから紐は伸縮の利く物を使い、腰回りの動きを締め付けない工夫をして頂戴」
幼少の時から私の側にいるモナには次に何が起こるか予想出来たのかもしれない。 一瞬、苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべたけれど何も言わなかった。
つきん、と胸が痛む。 従来の社交ダンスを踊るだけならどんなコルセットを付けていようと誰にも気付かれないでしょう。 でもヒャラでは踊った途端、普通のコルセットでない事が分かってしまう。
そんな物を作る事をなぜ止めなかった、とモナが監督不行き届きで責められたら?
そうなった時に私の力でモナを庇いきれる? 庇いきれなかったら、その結果に対する覚悟はあるの?
覚悟がないなら諦める? それとも、なくてもかまわずに踊る?
自分でも答えられないまま舞踏会当日を迎え、モナに内緒で柔らかいコルセットを身に付けた。 そして舞踏曲の合間の余興としてヒャラが始まった時、迷う事なく踊る殿方の輪に飛び込んだ。 ただ踊りたくて。
紅一点で踊る私を見る人達の驚いた顔、顔、顔。 心の底から止めようもなく笑い声が湧き上がる。
太鼓の拍子が早さを増して行き、何もかも忘れ、私は踊った。
私につられるかのようにどんどん踊る人が増えて行く。 いつの間にか私の他にも女性が踊りに加わったよう。 踊っていない人達からも盛んな拍手と喝采があがった。 舞踏会会場は大変な盛り上がりを見せ、ヒャラは予想以上に長く続き、私は夢中で踊り続けた。
お父様とお母様がどちらにいらしたか分からなかったけれど、私の踊りを御覧になった事は間違いない。 お囃子が終わってすぐ、お父様から先に帰るように、とのお言付けがあった。
踊った事に後悔はない。 とは言え、次に来るお叱りを思い、そっとため息をついた。
翌日になればお叱りが軽くなると言う訳でもない。 その予想通り、私はお父様の執務室へと呼び出された。 執務室に呼ばれるのは厳罰の時だけ。 私は最悪の事態を覚悟した。
「キャシロ、そなたはヘルセス公爵家へ嫁ぐ事になった」
嫁ぐ? お父様が何をおっしゃったのか理解するのに一瞬手間取った。
余りに急なお話で、求婚された事にも驚いたけれど、嫁ぎ先がヘルセス公爵家とは。
そんな家名の公爵家が外国にもあったかしら? いえ、ないわ。
では、ヘルセス公爵の後妻として望まれた? ヘルセス公爵は確か、キュイパー準伯爵と同い年。 まさか、これが私に対する罰なの?
「皇王庁への根回しはヘルセス公爵家が主導するが、揉める事はまずあるまい。 とは思うが、当家としても座して待ってはいられぬ。 アミ(テイソーザ皇王庁長官夫人、プラドナ公爵実妹)にこの吉報を知らせる早馬を走らせた。
婚約発表は新年の舞踏会直後となるであろう。 何分昨夜は急な話で、詳細を決めている時間はなかった。 持参金や婚儀の日程、招待客の決めるのは来年以降となる。 取りあえず其方からレイ殿へ喜びの手紙を差し上げよ。 又、ヴィジャヤン準公爵夫妻が仲人の労を取って下さる。 そちらへの礼状も忘れずに書くよう」
レイ殿? ヘルセス公爵のお名前はスイ様では、との言葉を飲み込んだ。
お父様が未来の義息の名を間違えるはずはない。 でも私がヘルセス公爵家次代から望まれるだなんて。 そんな事があるかしら?
同じ爵位とは言え、マクハージランサ王家の血を引くプラドナ公爵家はヘルセス公爵家を格下に見ていた。 けれどそれは準大公が叙爵なさる前の話。 現在のレイ様は押しも押されぬ準大公義兄。 しかも単なる姻戚関係とは言えない程、準大公から慕われていらっしゃる。
皇太子殿下舞踏会でもそれは明らかだった。 準大公は終始御熱心にレイ様と密談され、他の誰ともお話にならずにお帰りになった。 それで飼い犬がどうこうしたは単なる言い訳で、レイ様が何やら入れ知恵なさったに違いないという噂が流れている。
噂の真偽はともかく、いかにプラドナ公爵家といえども皇寵を戴いている御方の義兄であり親友でもあるレイ様を格下扱いする事は出来ない。 それにヘルセス公爵と結婚したなら、万が一子供が授かったとしてもその子が爵位を継ぐ可能性はないに等しい。 けれどレイ様との間に子供が授かればその子が爵位を継ぐ事は確実。
ヴィジャヤン派閥から睨まれ、この先何かにつけ苦戦する事が予想されていたお父様にしてみれば、これは願ってもないお話。 起死回生の機会とも言えるでしょう。 仮に法外な持参金を要求されたとしてもヘルセス公爵家と、引いては準大公と姻戚関係となれるこの結婚を承諾なさったに違いない。
当然、ヘルセス公爵家だとてそれらを承知しているはず。 なのにお父様は既に式の日取りを云々していらっしゃる。 と言う事は、レイ様は正式な求婚をなさったのであって、条件(持参金)次第では求婚するという打診をなさったのではない。 それでは持参金なしでも構わないと言ったも同然。
レイ様の事を皇王妃陛下の前愛人と噂する人はもういない。 望めば皇王族からの御降嫁さえ許されるのでは? それには遠慮があるなら外国の王家で姻戚関係を結びたい所がいくらでもあるでしょうに。 なぜ私?
プラドナ家にとっては良い事づくめの求婚だけれど。 ヘルセス公爵家の利益となるものは何か、少しも見当が付かなかった。 レイ様のお顔とお名前は存知あげている。 でも私達は一緒に踊った事は勿論、言葉を交わした事さえ一度もない。
「あの、お父様。 それ程までに私が望まれた理由を御存知でしょうか?」
お父様は少し間を置いてからおっしゃった。
「う、む。 どこまで本気の言葉かは知れぬが。 踊るそなたを見て、レイ殿が言ったのだ。
あの花を外つ国へ渡すのは皇国の損失、と」




