行く末 ミサの話
「ねえ、ミサ様。 侍女に扮装して潜入するという案はどうかしら?」
いくら先代陛下をお見送りする式に出席なさりたいとは言え、愚かとしか言い様のない御提案に思わず眉を顰める。
「お義姉様ったら。 式場内はリューネハラ公爵夫人の顔を知らない者ばかりとおっしゃるおつもり?」
お義姉様の事を賢明な女性と思っていただけに、少々呆れた口調になった。 お義姉様は義妹からの常識的な咎めに少しもめげず、平静なお顔で言い返される。
「他人のそら似という言葉があるのを御存知?」
そのお言葉に対して私は無言を通した。 その無言が何を物語っているか、即座に感じ取られたのだろう。 お義姉様がぱちんと打ち鳴らされた扇子の音の鋭さ。 それはお義姉様の苛立ちを余さず伝えていると言えよう。
「ミサ様によい代替え案があるとおっしゃる訳でもないのでしょう?」
「諦める、という案は如何かしら? 世間から悪し様に言われる割には無駄な労力を省く、使い勝手のよい案でございましてよ」
お義姉様のお顔が曇る。 当然至極な意見ほど癪に障るものはないと知りつつ、言わぬでもよい事を言った事を後悔した。
デンタガーナ国王太子殿下から離縁されて戻って来た私にお義姉様はとてもよくして下さっている。 王太子妃という称号を失った時点で私は単なる義妹。 敬称を付ける必要等なくなったにも拘らず、ミサ様の気品は何一つ損なわれておりませんとおっしゃって、様付けなさる。 そんな瑣末事一つを取ってもお義姉様が如何にお気遣いのある御方でいらっしゃるか分かろうというもの。
このような無愛想な返しでは日頃の御厚情に報いているとは言えない。 遅まきながらそれに気付き、謝ろうとした。 するとお義姉様は唐突に常ならぬ荒々しさでお立ちになったかと思うと、お座りになっていたクッションをむんずと掴み、床に叩き付け、ぼすぼす踏みつけ始める。 セライカ第三王女としてお生まれになり、比類なき忍耐力をお持ちのお義姉様にしては少々珍しい振る舞いと言えよう。
丁度その時、窓の外で、るるーーん、るるーーん、と鳥の鳴き声がした。 窓際に近づき、ルーンを探すかのように見回す。 珍しい鳥でもないのに。
リューネハラ公爵別邸の庭にあるティールームは義姉上がお輿入れなさった年、御生家であるセライカ王家のお茶室を模して建てられた。 甘いバラの香りが微かに漂い、流水の囁きが耳に心地よい。
ティールーム内の家具調度品はいずれも遠路遥々運ばれた物ばかり。 クッション一つでさえ簡単にすげ替えが出来る物ではない。 お気持ちが収まればお義姉様とて手荒な扱いを後悔なさるはず。
でも今この場でお義姉様の八つ当たりを無難に受け止められる物といえばそれくらいしかない。 ここで私が、クッションは罪なき物、と口にしては浅慮の誹りを免れまい。 それによくよく考えてみれば、あのクッションは吝嗇で聞こえたディルビガー公爵からの贈り物。 手当たり次第に見えても案外冷静でいらっしゃるのだろう。
それはともかく、お義姉様にとって滅多にない準大公夫人の歌声を聞く機会。 それを逃す事がどれ程御無念か、察するに余りある。 けれど皇王庁より出席は公侯爵家次代、継嗣、又はその名代に限る、との公式のお達しが出されているのだ。 先代陛下のお立場を考えればそれは当然極まりない御指図。 リューネハラ公爵夫人といえども公然と逆らう事などしてよいはずがない。
そもそも先代陛下のお見送りだけなら出席出来ない事を喜んでも、喜んで出席したい夫人などいるはずがなかった。 ところがなんと、準大公夫人がお見送りの式場でお歌いになるのだとか。 そのような機会、この先再びあるかどうか分からない。 それで皆が先を争って出席したい場所へと早変わりしたのだ。
マーシュは皇王陛下の直轄領で南軍の第一駐屯地がある。 美味しい魚介料理に惹かれた観光客も多く、年中賑やかな港町だけれど、今は町のどこを眺めても人通りは少ない。 お見送り一週間前から式の参列者とそのお付き、マーシュに別邸がある貴族、皇王庁発行の通行許可証を持つ者以外の立ち入りは禁止されたから。 既に町の入り口には臨時の検問所が設けられたと家令が言っていた。
海軍の造船を一手に引き受けているリューネハラ公爵家はマーシュに別邸があり、警備が水も漏らさぬ厳しさである事はお義姉様も御存知でいらっしゃる。 それは別邸のない世間の皆様にも間もなく知れ渡るだろう。 諦め切れぬ思いは抱きながら引き下がるのが大方とは思うけれど。 それでも尚、潜入しようと画策なさる公侯爵夫人がいらしたとしても不思議はない。 お義姉様のように。
「物事には諦めが肝心ですわ」
宥めるようにそう申し上げると、お義姉様はお言葉を返そうとするかのように少しお口元を緩められた。 けれど結局何もおっしゃらず、頷かれた。
おそらく王太子妃として私が何をどれだけ諦めたか、お察し下さったのだろう。 全てを諦め離婚した私に、諦めなければ何とかなるとおっしゃるようなお義姉様ではない。
ただ今回のお見送りは想像以上に諦め難かったようで。 当日マーシュの町に滞在したいお義姉様は、幼い継嗣の名代に私を御推薦になった。 先代リューネハラ公爵正嫡子は他にもいるから私でなくてもよいのだけれど、現在独身なのは私だけだ。
離婚は円満なものだったし、私への見合い話ならそちらこちらからいくらでも来ている。 それでなくとも先代リューネハラ公爵正嫡子である私が再度嫁がされる可能性は高い。 本来なら縁談を申し込まれる前に自分から次の結婚相手を探しに行くくらいでなくてはならない。
それを充分承知していながらどこにも出掛けようとしない私に、御寛容なお兄様も密かに業を煮やされていたのだろう。 私を公の場に連れ出す良い機会とおっしゃるお義姉様のお言葉に即座に御同意なさった。
お義姉様とは良好な関係を築いているし、王太子殿下より充分な生涯年金を頂戴している。 私としては出来ればこのまま気楽な独身生活を楽しみたいのが本音。 並外れた歌唱力という噂の準大公夫人の歌声に興味はあるけれど、その場でどなたかのお目に留まっては後が面倒。 充分あり得る事なだけに参列するのは気が進まなかった。
とは言え、私の我が儘で申し出た離婚の後、何もおっしゃらず実家に迎え入れて下さったお兄様には少なからぬ恩義がある。 もし私がデンタガーナ国に留まり、王妃となっていたら、いくらでも実家に船を発注出来た。 離婚によってそれが全て御破算となったのに、お兄様は私に持たせた巨額の持参金の返還を求めたりはなさらなかった。
名代が私に決まると、お義姉様はマーシュへ随行したいとお兄様にお強請りなさった。 確かにいくら侍女と護衛を何人も従えていようと貴族の独身女性が奉公人だけを連れて旅をするのは望ましい事ではない。 けれど随行するなら普通は兄弟か男性の親族が選ばれる。 お義姉様に甘いお兄様は絶対式場に近づかないという条件で、渋々ながら随行をお許しになった。
リューネハラ公爵家別邸は小高い丘の上に建っており、皇国有数の望遠鏡を設置してある。 準大公御夫妻が漁船で入港したという知らせが届けられ、お義姉様と私はくだんの漁船を望遠鏡で眺めた。
「あれだわ」
「どれですの?」
「ステンガード号から数えて、左から三隻目に見窄らしい漁船が繋いであるでしょう?」
「あ。 あら? あのマストに掲げられているものは何かしら?
……よもや、シャツ?」
「それより染め抜いてある文字を御覧なさいな」
「愛?」
その後を続ける事が出来ず、お義姉様と私はしばし顔を見合わせた。
「深い、のかしら?」
「浅い、のでは?」
翻っている場所が場所なだけに見窄らしいシャツが船旗である事は間違いない。 見窄らしい事に関してはこの際何も言うまい。 けれど愛とは、何故?
そんな言葉は聞きたくなかった。 忘れようとして忘れられない胸の痛みが増したような気がする。
王太子殿下はお優しい御方だった。 不束な私を心から愛そうと努力なさる程。
愛された事のない私に愛の何が分かると言うのだろう。 愛されない覚悟ならしていた。 でも愛される? それは予想していなかった。
なぜ星を眺めたり、花を愛でるのに私が側にいなければならないのか。 なぜ政務から離れ、用もない場所の景色を御覧に私をお連れになるのか。 なぜ突然記念日でもない日に贈り物を下さったり、私の好みを御質問になるのか。
私は王太子殿下の求愛に戸惑うばかりだった。 必死に習い覚えたデンタガーナの習慣、言語、歴史、政治経済。 そのどこを探っても知りたい答えは見つからない。 どうお応え申し上げれば王太子妃として適切だったのか。 自室に戻った後で考えても分からず、私は王太子殿下を失望させてばかりいた。 失望をお言葉になさるような御方ではないけれど、同じお誘いや贈り物があった事はないから私が喜ばなかった事は筒抜けだったのだろう。
常に優秀を自負していた私にとって配偶者の失望は耐え難い屈辱だった。 でも私は自分自身に失望していたのであって王太子殿下を責めていた訳ではない。 人の気持ちを読む事に長けていらっしゃる王太子殿下は私の鬱屈を感じ取られ、徐々に私の元を訪れる事を御遠慮なさるようになった。
それだけならどこにでもある王族の結婚生活だったと思う。 二年経っても私達の間に子供は授からなかったので、私は妾妃を六人用意した。 その内の誰かに子供が授かれば何も問題はなかった。 ところが彼女達を後宮に迎えて二年が過ぎたのに誰にも子が授からない。 それもそのはず。 王太子殿下は私が妾妃の元に行くようにとお願い申し上げたのでお通いになっていたが、誰とも同衾なさってはいなかったのだ。
正妃が居座ったままでは王太子殿下が他の女性と同衾なさる事はない。 そう考えた私は、故国に帰り、母となる道を探したいと願い出た。 何度嫁ごうと婚姻は私の意志に関係なく決められるもの。 私は嫁げと言われれば嫁ぐだけの話。 仮に次の結婚で母となったとしても夫に愛された故とは限らない。 そんな人生が王太子殿下に深く愛されている今より幸せなものであるはずはないのだけれど。
お優しい王太子殿下は私の幸せをお考えになり、離婚という最善の道を選んで下さった。 王太子殿下の最後のお言葉。
「愛する人よ、幸せになっておくれ」
それは不器用な私が、心中密かに王太子殿下へと捧げた言葉でもあった。
愛とは時に優しく人を傷つける。 そうではないの?
準大公は一体、どんな意図があって愛を船旗となさったのか。
愛と共に戦う? まさか。 そんなものが武器では負けるでしょうに。
では、愛のために戦う? それを旗印にしては皇王陛下への忠義が疑われるのでは?
それともこれは夫人への愛の告白。 他の誰をも寄せ付けぬと宣言なさっていらっしゃる?
是非真意をお伺いしたいと思うけれど、私は準大公とは初対面。 お見送りでは準大公御夫妻のお席の近くでも、どなたかの御紹介がなくては私から言葉をおかけする事は出来ない。
ヴィジャヤン準公爵夫人となら以前、私がまだ王太子妃であった時に会った事があり、意外に楽しい一時を過ごした思い出もある。 けれど去年、リューネハラ公爵家は準大公のお兄様でいらっしゃるサジ様に私とのお見合いを申し込んだ。
サジ様の妻の座を勝ち取ったのは十八歳、初婚で皇国の名花と謳われ、実家が金満家であるダンホフ公爵令嬢。 当然過ぎる選択で、私が選ばれなかったからと言ってリューネハラ公爵家が蔑ろにされたとは思わない。
とは言いながら、よもや断られるとは思っていらっしゃらなかったお兄様にとって相当な打撃であった事はお義姉様から聞いている。 お兄様のお気持ちを慮り、ヴィジャヤン準公爵夫人からの御招待には応えていなかった。 今日、親しげな言葉をヴィジャヤン準公爵夫人に掛けるのは些か唐突で、憚られる。
私は他の事は考えず、準大公夫人の歌声を楽しむ事にした。 聞きしに勝る驚異の声量。 正式な声楽を学ばれた事がないとは信じられないお声の伸びでいらっしゃる。 技巧がどうのと言うより歌詞に込められた情熱を引き出す、類い希なる表現力に魅了された。
愛する人と巡り会う。 私自身にその日が訪れる事はない。 そう思うから尚の事、それを信じる曲の美しさ、歌い上げる力強さに胸を打たれたのかもしれない。
式が終わり、桟橋を離れて行く先代陛下の船をお見送り申し上げながら、海の果てを見つめる準大公の視線を追った。 世間の噂ではとても明るく楽しい御方のように伺っていたから準大公の視線に船を見送っているだけとは思えない、真摯な何かが浮かんでいる事が少々意外だった。
余命が明らかとなったのでなければ皇王陛下が先代陛下に御外遊をお許しになるはずはない。 これが先代陛下との今生の別れとなると予想される。 とは言え、準大公のお年で、お傍近くにお仕え申し上げた訳でもない先代陛下に対し、深い感傷を持たれる理由があるだろうか?
或いは、いつか皇王族へと嫁がれるお嬢様の苦難を思い遣っていらっしゃる? そうだとしたら準大公は人が言う程明るく楽しいだけの御方ではないと言える。 お人柄を親しく存知あげている訳でもない私が、お胸の内を詮索する無礼は差し控えねばならないにしても。
式後、私は準大公御夫妻に簡単な御挨拶を申し上げただけで帰った。 他の皆様とも同様で、平凡な日常が戻るかに見えた、その年の十一月。 私はお兄様から驚くべき知らせを受け取った。
「ダンホフ公爵家のナジューラ殿より、そなたに求婚の申し込みがあった」
「求婚? 庶子のどなたかが爵位を継承する事に決まり、ナジューラ様は別家を持たれる事になったからでございますか?」
「いや。 爵位はナジューラ殿が継承なさると正式に決まった」
「ナジューラ様でしたら、確か、セライカのディルビガー公爵令嬢との御婚約が調っていたはずでは?」
「それについては先方に婚約解消を通知し、基本的に合意するという知らせを受け取っているとの事。 現在、慰謝料について交渉中で、文書が交換され次第、正式発表される。 それは来年一月となる見通しで、そなたとの婚約は二月か、遅くても三月中に発表し、五月の皇太子殿下舞踏会に婚約者として同伴したいとの御希望である。
結婚式は準大公御夫妻の御出席が可能な場所と日取りを選ぶ必要があるため調整中だが、七月では如何と打診されている。 それではこちらとしても準備に追われる事になるが、準大公御夫妻と姻戚関係となる慶事だ。 早ければ早い程良いのだから何をさて置いても対応せねばならぬ」
ナジューラ様が爵位を継がれないなら私でも不釣り合いではない。 けれど爵位を継承なさる初婚の公爵家次代に、同い年で再婚、しかも五年の結婚生活で子が授からなかった私を正妻に望む理由は何なのだろう?
ダンホフ公爵家の資産を考えれば私の持参金目当てのはずはない。 私の無言の問いに答えるかのようにお兄様がおっしゃった。
「おそらくダンホフ公爵家は今回御用船が沈没した事で名誉挽回を図るべく、造船に力を入れたいのだ。 それには造船業の最大手であるリューネハラ家の力を借りるのが一番の近道」
それが一番理に適った説明であり、そうではないと言い切る別の理由が私にあった訳ではない。 ただ何故かその時、あの漁船の船旗が私の脳裏に翻った。
愛。 何と人の行く末を変えるものである事か。 たとえ愛する人が傍らにいる事はなくても。
「胎動」の章、終わります。




