お灸 トビの話
北に準公爵邸をお建てになるため建設予定地をいくつか御覧になるとの事で、準公爵御夫妻が当家を御訪問下さった。 グゲン侯爵御夫妻も別邸を建設予定で、そちらはミトンカーレ湖の湖畔にお決めになられたと聞き及んでいる。
タケオ大隊長御夫妻に無事リヨ様がお生まれになった事でもあり、準公爵御夫妻はタケオ大隊長のお宅へお祝いに行かれ、そこでグゲン侯爵御夫妻とも御歓談になられた様子。 旦那様と奥様も御一緒なさったからタケオ大隊長のお宅はさぞかし賑やかな事であっただろう。
準公爵御夫妻はいくつか候補地を御覧になられ、最終的に第一駐屯地郊外にあるリゲール湖という美しい湖畔の土地をお選びになられた。 北方伯邸から馬車で二十分という便利の良い場所にある。 いずれサリ様が御成長なさったら簡単にお遊びにいらっしゃれる距離であるように、と御希望なさったようだ。
サリ様がはいはいなさる速さは驚くばかり。 伝い歩きも大変しっかりした足取りでいらっしゃる。
おじい様、おばあ様の前でお見事な最初の一歩を歩まれ、大きな歓声があがった。 終始とても和やかな御家族団欒の時を過ごされ、準公爵御夫妻はお帰りになられた。
その直後、旦那様が私を執務室にお呼びになられたので入って扉を閉めると、いきなりばしん、と旦那様から強烈な平手打ちを食らった。 呆気に取られて旦那様のお顔を見ると、目に涙を溜めていらっしゃる。 一体何があったのか。
私は今まで一度たりとも叩かれた事などないし、長年お仕えしているが、旦那様が誰かを叩いた所など見た事はない。
「トビ、お前、皇王陛下にお手紙差し上げたんだってな」
涙がつーっと旦那様の頬を伝わって落ちる。 私は為す術もなく、それを見守った。
「皇王陛下に直接お手紙差し上げるなんて俺以外に許されている事じゃないんだろ」
旦那様が悲痛な声で叫ばれる。
「ばれたら、そんな事した奴は死刑になるんだって! お前、知ってたんだろ? 知っててやったんだろ?」
旦那様がひくっ、ひくっと堪え切れない嗚咽を漏らされた。
「お、俺ってそんなに頼りない? ど、どうして言わなかったのさ? どうして、俺に手紙を、か、書けって。 そ、そりゃ俺は、言われなきゃ分かんないけど。 い、言われればちゃんと書いたのに! 言われた通りに書いたのにっ!!」
「誠に申し訳ございません。 何卒、何卒お許し下さい」
私はその場に平伏し、ただひたすら旦那様のお許しを乞うた。
皇寵は神聖なもの。 それを行使するか否かは本来ならば受け取った本人のみに決定権がある。
しかしそれは建前。 皇寵を戴いた者の親族や近しい者がさりげなく己の希望を伝える事はいつの世にもあった。
執事が主人に皇寵の行使を勧めるなど、余人に知れれば死罪となる。 だが事前にそれを説明しておけば旦那様は誰にも何もおっしゃる事無く、私の言うままお手紙をお書き下さったであろう。
それは知ってはいたが、私から皇寵を使うようにと申し上げる気にはなれなかった。 皇寵を使う事により北方伯家の権威をいやが上にも高めたいと願っているのは私であって、旦那様ではない。 旦那様は、もう充分上がったし、下がったとしても構わないと思っていらっしゃる。 そのお気持ちを承知していればこそ旦那様に手紙の件を申し上げなかった。 そんなもの書く気はないと言われてしまえば、私がそのような手紙を書く事は背信行為になる。 だが、いいとも悪いとも言われていない内に書くなら単なる先走り。
「な、何が申し訳ないの? お、俺がばかで申し訳ないのっ?」
「旦那様をこれ程悲しませる事になるとは予想も出来ず、申し訳ございません」
「ど、どうしてっ? どうしてっ? お前、頭いいだろ?
どうしてっ、よ、予想も出来ないなんて、言うのさ?
お、俺、一人で、領主なんか、出来ない。 そ、それを一番よく分かっているのは、お前だろ? じ、自分は勝手に死んで、俺に一人でやれってか?
そ、そんなのひどくない? あ、あんまり、だよな? うっ、うっ、ひ、ひどいだろっ!」
「どうかこの度の咎、旦那様の広いお心でお許し下さい。 このような僭越な真似はもう二度と致しません」
「ほ、ほんと、ほんとに、ほんとかっ?!」
「これ程にきついお灸、生涯忘れるものではございません」
「よ、よし。 わ、分かればいいんだ。 分かれば。 だ、だけど、念のため、な」
旦那様はそこで盛大にお鼻をかまれ、鋭い口笛でケルパをお呼びになる。 私は改めてケルパの前で旦那様に誓わせられた。
先日、スティバル祭祀長より御連絡を頂戴したので中央祭祀庁が特例を上梓した事は知っていた。 明らかに私の手紙が功を奏したのだ。 勿論失敗する恐れがあった事は承知していたが、五分五分以上の確率で成功するとの確信があればこそやった事。 死んでも悔いはないとは思ったが、死ぬつもりでやった事ではない。 だが旦那様の涙には堪えた。 誰に何を責められるより堪えた。
おそらく、私が書いた手紙はカイザー侍従長が揉み消して下さったのだろう。 ただ何故私がそのような大胆な真似をしたかが分からず、準公爵様にお訊ねになった。 そこで事情をお察しになった準公爵様が、これを秘してはおけぬ、と旦那様にお伝えになったのであろう。
旦那様に告げ口なさった準公爵様が悪いのではない。 成功する事だけを考え、失敗した時の事を考えない様では旦那様の執事として失格だ。 今回私は失敗した時の事はおろか、成功した時旦那様がどう思われるかさえ考えてはいなかった。
準公爵様が私を直接お叱りになる事も出来たはずだが、そうなさらなかったのは、私にきついお灸を据えたかった故と思われる。 その目的は十分過ぎる程、果たされたのだ。
己の詰めの甘さを呪った。 手紙の文句をどうするかは考えても、旦那様が私の過ちを知った時どれ程悲しまれるかを考えなかったとは。 それだけではない。 旦那様が私を失う事をこれほど恐れ、不安を抱かせていたとは思わなかった。 これは言い訳しようもない私の落ち度だ。
確かに私一人で家政の全てを管理しているこの状態で私が急死したら誰が引き継いだとしても相当な混乱があるだろう。 助けの手は上級貴族からいくらでも伸ばされるとしても次に現れる執事がケルパに好かれる保証はない。 最悪の場合、今いる人員で何とかするしかないという事態に追い込まれる。
リッテルは世知に長けているし、軍の内情に詳しいが、貴族の習慣を知らない。 数々の王侯貴族からの招待やお願い、その裏の意味を読む事は出来ないだろう。
フロロバは諜報員として貴族の習慣を学んでいる。 多芸で器用な男だが、執事として領地経営をするには学ばねばならぬ事が多過ぎ、二人を足しても私の代わりが務まるとは思えない。
マッギニス補佐は頼りになるとは言え、大隊長補佐としての重責を担われているし、元々が軍事の専門家だ。 領地経営の実務までは面倒見切れまい。
急場のしのぎとなれるのは退官後、家令として奉公してくれる事になったウェルター中隊長だけだ。 ウェルター中隊長は子爵家正嫡子で長男だから爵位を継ぐ事も出来たのだが、大峡谷の神秘に心を奪われ、いずれは大峡谷で暮らしたいと望まれた故に爵位を弟に譲られたと聞いている。
彼なら貴族の日常に詳しいだけでなく、軍の内情にも通じているし、領地である大峡谷に関する専門家でもある。 それはいいが、皇都の政治状況、皇王族や上級貴族の思惑に精通している訳ではないし、何分年が年。 準大公家執事として長年勤める者にはなれない。
これは仮にも準大公家執事を名乗る者が看過してはならない状態であった。 元々どの貴族の執事にも必ず複数の執事見習がいる。 すぐ探さねば。
とは言え、私がどれ程焦った所でケルパがいつかこれと言う人材に出会い、挨拶してくれるのを祈るしかないのだ。 見事な紹介状や煌めかんばかりの身上書を持つ者ならいくらでもいるが、ケルパが選ぶ理由は身上書や外見に現れるものではない。 おそらく、未来のいつかに現れるものなのだ。
今はただ、旦那様の強運がそれらの者達を引き寄せる事を信じるしかない。 同時に万が一に備え、私に出来る限りの準備をしておく必要がある。 この日以降、私は自分の業務の流れをなるたけ文書化するようにした。




